第64話 在庫は罪ですか?
「…………」
倉庫の中が、しんと静まり返った気がした。
遠くで作業していた倉庫番たちの声が、急に遠のく。――いや、僕の耳が、聞こえないふりをしただけかもしれない。
セラフィナの表情から、すっと温度が抜け落ちていく。
紫水晶の瞳が、まるで氷のように透明になった。
「……罪?」
低い声だった。
怒鳴り声ではない。だからこそ、怖い。
「アラタ。あなたは……この国の冬を、“数字でしか”知らないのね」
「え……」
「雪と魔物で街道が完全に封鎖されたら、どうなるか見たことはある?
流行り病がまた来て、薬が尽きたらどうなるか、想像したことはある?」
彼女が一歩、僕に近づいた。
空気が変わる。息が詰まる。僕は反射で半歩、後ずさった。
「私の父が若かった頃、灰熱病で街が地獄になったとき……父は祖父を説得して、倉庫の鍵をこじ開けたの」
セラフィナの声が震えている。怒りだけじゃない。切実な祈りの響きが混じっている。
「――みんなの“持ち時間”を伸ばすために。
『商売なんてどうでもいい、あるもの全部出せ!』って怒鳴ってね」
彼女は積み上がった木箱の壁に掌をつけた。
まるで、それが本当に盾であるかのように。
「あの時、在庫を減らせと言って、倉庫が空っぽだったら――
この街の半分の人は死んでいたかもしれないわ」
瞳が、真っ直ぐに僕を射抜く。
「……倉庫が空っぽで、助けられたはずの命が消えていく。
私には、そっちの方がよっぽど重い“罪”に思えるけれど?」
「っ……」
言葉に詰まった。
彼女の言う通りだ。
僕はこの国の冬を、肌で知らない。
雪に閉ざされ、助けが来ない孤独と恐怖を、一度も経験したことがない。
僕のいた世界では、物が“来る”ことが前提だった。
けれどここは違う。
(……僕はまた、自分の常識を押し付けただけなのか?)
前提条件が違う場所で、正論を振りかざしてしまった。
その浅はかさに、今さらながら気づかされる。
でも――それでも。
“触れられない箱”が増え続けるのは、盾ではなく、ただの重みだ。
その感覚だけは、消えなかった。
「……セラフィナ、僕は」
誤解を解かなければ。
“倉庫を空にしたい”わけじゃない。
“盾”を壊したいわけじゃない。
口を開きかけた僕を、彼女の冷たい言葉が遮った。
「……もういいわ」
セラフィナは僕から視線を逸らし、倉庫番の方へ短く顎を振った。
「鍵を」
倉庫番が息を呑み、腰の鍵束を鳴らしながら、重い鉄扉の方へ向かう。
金属の音が、やけに大きく響いた。
セラフィナは扉の方向を指差す。
「今日は帰って。
……父が残してくれたこの倉庫を、“罪”呼ばわりする人と、これ以上話す気にはなれない」
拒絶。明確な、拒絶だった。
いつもなら、「でも」と食い下がれたかもしれない。
けれど、今日の彼女の瞳には、決して踏み込ませない頑なな壁があった。
それは商会当主としての誇りと、街を守る責任そのものだった。
「……分かりました。出過ぎたことを言いました」
僕は頭を下げ、逃げるように背を向けた。
* * *
倉庫を出ると、いつの間にか空は曇り、冷たい秋雨が降り始めていた。
石畳を叩く雨音が、僕の足音をかき消していく。
傘も持たずに歩き出した僕の頬を、冷たい雨粒が打った。
ふと、背中に視線を感じた気がして振り返る。
――だが、雨に煙る通りには、誰もいない。
ついさっきまで、市場で楽しそうに笑い合っていたことが、遠い昔のように思える。
一期一会。
二度とない時間を大切にするという言葉を、僕は彼女に教えたばかりだったのに。
その時間を、自分の無神経な一言で台無しにしてしまった。
「……はは。何が“数字に強い男”だ……」
自嘲の言葉が、雨音に混じって消えていく。
(僕はまだ、この世界のことを何も分かっていない)
背後で、倉庫の重い鉄扉が閉まる音がした。
ギギギ、と軋み、最後にドン、と重く響くその音。
それはまるで、僕と彼女の間にある、決定的な断絶の音のように聞こえた。




