第63話 金貨を閉じ込める箱
「……どうしたの、アラタ? 浮かない顔をしているけれど」
セラフィナが僕の顔を覗き込んできた。
この信頼に、曖昧な笑みで答えたくなかった。
「……少し、気になることがあって」
僕は意を決して、天井近くまで積み上がった木箱の壁を見上げた。
「以前、商会で複式簿記を導入したとき……この倉庫の“棚卸し”をやったんですよね」
「ええ。ギルドであなたが棚卸しした話、あの手順を聞いて、同じように、レオニスとルカと私と――倉庫番総出でやったわ。……あれは本当に大変だった」
セラフィナは苦笑して、倉庫の奥を見上げた。
「もちろん今までも帳面で在庫の出入りの管理をしていたけれど、改めて“今、商会に何があるか”がきちんと把握できた」
その時は、とにかく“数”を確定させることが最優先だったと聞いている。
値段も、ひとまず仕入れの記録――つまり“仕入れた時の値段”で帳簿に乗せたに過ぎない。
「でも、あの棚卸しは“数”と“仕入れた時の値段”を調べただけでした」
「……それで十分じゃないの?」
セラフィナが小首を傾げる。
当然の反応だ。仕入れた時の値段で帳簿に載っていれば、それが“資産”であり続ける。少なくとも、そう見えてしまう。
「帳簿に残っている数字と、“今この瞬間に動く値段”が、ずれているかもしれません」
「動く値段……?」
「例えば」
僕は、棚のさらに奥――薄暗く、埃の気配が濃くなる方角を指差した。
「あの奥の箱。さっき“昔からの箱は残っている”って言いましたよね。
もし、封印が弱って効力が落ちていたら? あるいは規格が変わって、買い手が限られる品になっていたら?」
セラフィナの眉が、ほんのわずかに寄った。
「……効力が落ちる、というのは分かる。でも、ゼロにはならないでしょう? 非常用としては使える。価値が消えるわけじゃない」
「ええ。そこは僕も同意します」
僕は一度、息を整えた。
「ただ……価値がゼロかどうか、ではなくて。
帳簿に“仕入れた時の値段で金貨10枚”と残っていても、今それを動かそうとしたら、金貨1枚でしか動かない。そういうズレが起きているかもしれない、という話です」
「…………」
セラフィナが黙った。
僕の言葉の意味を測りかねている、というより――自分の誇りに、薄い針が触れたのを感じている顔だった。
「でも、あなたも知っているでしょう? この街の冬が何を奪うか」
彼女は倉庫番たちの働く背中へ視線を投げる。
汗を浮かべながら、それでも明るい声で荷を運ぶ男たち。
「雪で街道が止まる。病が流行る。物が来なくなる。
そういう時のために“盾”が必要なの」
「はい。だからこそ――“盾”と、“眠っているだけの箱”を分けたいんです」
言ってから、胸が小さく痛んだ。
分けたい。つまり、何かを切り捨てたい。そう聞こえてしまう。
けれど、止まれなかった。
目の前の山が、僕の内側にある違和感を押し潰そうとしてくる。
「在庫には、二つの顔があります」
僕は言葉を選んだ。できるだけ、刃が立たないように。
「一つは、セラフィナが言う通りの“街を守る備え”としての顔。
もう一つは……“金貨を倉庫の中に閉じ込めてしまう”という顔です」
「閉じ込める……?」
セラフィナが、微かに目を細める。
「はい。この箱の一つ一つは、もともとは金貨でした。
金貨を物に変えて、ここに置いている。置いている間は、他に使えません」
「……でも、それは備えの代償でしょう?」
低い声。責めるというより、確認する声。
「はい。備えは必要です。だから僕は、“備えをやめろ”とは言いません」
僕は一歩、言葉を柔らかくしてから、続けた。
「でも……手前の列は回している。定期的に入れ替えている。
なら、奥の“触れられない箱”は何ですか。
そこに閉じ込めた金貨は、いつ“盾”として役に立つんですか」
「……それは」
セラフィナの言葉が詰まる。
ほんの一瞬、視線が逸れた。
僕は、その隙間に、堰を切ったように言葉を流し込んでしまった。
「倉庫を維持するには費用もかかる。管理の手間もかかる。
長く置けば置くほど、封印も弱るかもしれない。鼠や湿気で傷むかもしれない。――盗難のリスクだって増える。
そして何より……“動かせない箱”が増えるほど、商会は身軽に動けなくなる」
セラフィナの瞳が、冷え始めた気がした。
それでも僕は、最後の一言を口にしてしまう。
「必要以上に積み上がり、ただ眠っているだけの在庫は――商会の体力を静かに、確実に奪っていきます」
喉の奥が熱くなる。
言いすぎるな。言うな。そう思ったのに。
「僕のいた国では……こういう動かない在庫を、“罪”だとさえ呼んでいました」




