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第58話 眠った倉庫

翌朝。


エルドレッサ商会の正門前には、王都へ帰還するレティシアのための馬車が停まっていた。

紋章入りの立派な馬車だが、車輪には長旅に耐えるための補強が施されている。


「……この一ヶ月、世話になったわね。あっという間だったけれど、有意義な休暇だったわ」


レティシアは旅装束の襟を正し、僕とセラフィナに向かって微笑んだ。

その表情は、最初に出会った時の「退屈しきった官僚」のそれではない。氷河色の瞳には、確かな熱が宿っている。


「こちらこそ。レティ、気をつけて帰ってね。王都までは長い道のりだから」


セラフィナが名残惜しそうに言うと、レティシアはふと何かを思いついたように、悪戯っぽく口角を上げた。


「ええ。ありがとう、セラ。

 ……あ、そうそう。あなたの商会のことに口を出すつもりはないけれど、一つだけ忠告」


「え? な、なに?」


セラフィナが身構える。

レティシアは流し目で僕の方を一瞥してから、さらりと言った。


「セラフィナの“未来の計算”も、あなたにお願いしてもいいかしら?」


「は……?」


僕が呆気にとられている横で、セラフィナの顔が一気に熟れたトマトのように赤く染まった。


「な、ななな、何を言ってるのよレティ!

 そういう計算じゃないわよ! 彼はただの顧問で……!」


「あら、私は商会の経営計画の話をしているつもりだったんだけど?

 何を想像したのかしら」


「っ……! もう、あなたって人は……!」


「ふふっ。顔が真っ赤よ、商会長さん」


レティシアは楽しそうに声を上げて笑う。


僕にはレティシアの言葉の真意はよく分からなかったけれど、普段は冷静なセラフィナがこれほど取り乱すのは珍しい。

それだけ、レティシアには心を許しているということだろう。


僕はその光景を、どこか微笑ましく眺めていた。


レティシアはひとしきり笑うと、今度は僕の方に向き直った。

その瞬間、ふっと笑みの質が変わる。からかうような色は消え、代わりに、王都の官僚としての鋭利な知性が顔を覗かせた。


「……アラタくん」


「はい」


「あなたのその“数字の使い方”は、とても優しいやり方だと思うわ。

 道具を買う経営者にも、そこで働く職人にも、それを使う街の人にも……ちゃんと“先”が見えるようにしてくれる」


彼女は眼鏡のブリッジを指で押し上げ、低い声で続けた。


「でもね。そういうやり方は、王都にとっても……すごく都合がいいか、あるいはすごく都合が悪いかのどっちかよ」


「……都合が悪い、ですか」


「ええ。今の王国の税制は、その場その場の“点”でしか物を見ていない。

 でも、あなたのやり方は時間を“線”で捉える。

 もしそれが広まれば――この国の硬直した支配構造そのものが、根底から覆るかもしれない」


レティシアは、王都の方角にある空を睨んだ。

彼女は視線を戻し、僕の目を射抜くように見つめた。


「自分が何を変えようとしているのか、たまには振り返りなさい。

 ……あなたは、決して開けてはならない“災いの箱”の蓋に、手を掛けているのかもしれないのよ」


目に見えなかった富が見えるようになれば、国は豊かになるかもしれない。

だが、その“見えないこと”を利用していた者たちにとって、それは猛毒になり得る。


それは、友としての忠告であり、国の中枢にいる人間だからこその予言めいた言葉だった。


僕は背筋が伸びるのを感じながら、それでも小さく苦笑して答えた。


「……そんな大それたつもりはないんですけどね。

 僕はただ、目の前の商売が健やかに続くように、数字を整理しているだけですから」


「ふふ。……それが一番たちが悪いのよ」


レティシアは満足そうに頷くと、馬車のステップに足をかけた。


「じゃあね、二人とも。また会いましょう」


「ええ。気をつけて、レティ!」


セラフィナが手を振るのを背に、御者が鞭を振るう。

馬車が砂埃を上げて動き出した。


遠ざかっていく馬車の窓から、白い手がひらひらと振られる。

僕たちはその姿が見えなくなるまで、並んで見送っていた。


「……行っちゃったわね」


「ええ」


隣に立つセラフィナが、ふと息をつく。

昨晩の少し浮ついた空気は、朝の冷たい光の中に溶けて落ち着きを取り戻していた。


けれど、こうして並んで立っていると、以前よりも彼女との“戦友”としての距離が、ほんの少しだけ近くなったような気がした。


* * *


レティシアが去ってから、数日が過ぎた。


魔石加工工房には、今日も活気ある声が響いている。

新しく導入された粉砕機は、不気味な異音を立てることなく、フォォォォン……という低い駆動音とともに順調に稼働していた。


帳簿の上でも、結果は明らか。安定した“利益”が出る体制となっていた。


(……順調だな)


僕は工房の二階、張り出し通路から作業場を見下ろし、帳面を閉じた。

下では木箱が次々と荷馬車に積まれていく。飛ぶように売れている。


「おーい、アラタさん! これ、どこに置けばいいっすかね?」


下から若い職人に声をかけられ、僕は視線を巡らせた。

彼の抱えている木箱には、『完成品・閃光石』の焼き印が押されている。


「ああ、それはそのまま出荷場の方へ回してください! 配送の馬車が待っていますから!」


「へい、分かりました!」


職人は元気よく返事をして、重そうな木箱を抱えて走っていく。


木箱は倉庫に留まることなく、次々と荷馬車に積まれ、金貨へと換わるために旅立っていく。

まさに理想的な“お金の流れ”だ。


僕は満足げにその光景を眺め――ふと、視線を横に逸らした。


活気あふれる出荷場のすぐ隣。

ひっそりと建っている、古い“倉庫”が目に入った。


(……あれ?)


賑やかな出荷場とは対照的に、そこだけが墓場のように静まり返っている。

扉は閉ざされ、取っ手にはうっすらと埃が積もっているようにも見える。


だが、隙間から覗く中身は空っぽではない。

天井近くまで、何かの木箱がぎっしりと積み上げられたままだ。


(……あの倉庫の在庫。ここ数日、動いているのを見ていないな)


華やかな成功の横で、そこだけが別の時間に取り残されている。


――あの中に、どれだけの金貨が眠っているんだろう。


その問いが、セラフィナとの衝突を招くことになるとは――その時の僕は、まだ知る由もなかった。

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