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第57話 仮面のずれた夜

◆セラフィナ視点


夜。


商会の応接室は、昼間とは違う、やわらかなランプの光に包まれていた。

テーブルの上には、少し高級なワインと、チーズや干し肉などの軽いつまみ。

仕事の匂いが抜けきらない部屋に、今夜だけは“休暇”の空気が混じっている。


「……へえ。一ヶ月の“利益”、ねえ」


レティシアはワイングラスを優雅に揺らしながら、さっき私が話した数字を反芻していた。

頬はほんのり赤いのに、眼鏡の奥の氷河色の瞳だけは、相変わらず冷たく冴えている。


「本当に面白いわね、その考え方。王都じゃ、そんな数字、誰も見てないわよ」


そう言って肩をすくめる姿は、軽い冗談みたいなのに――中身はいつも通り鋭い。


私はグラスを口に運びながら、息を止めた。


(……知っている。そういう国だ)


けれど、彼女が“王都の中”からそれを言うと、重みが違う。


「……まあ、エルドレッサがこうして数字の見方を変えてくれれば、そのうち王都の連中も重い腰を上げざるを得なくなるかもしれないけど」


レティシアの視線が、隣へ移った。


「期待しているわよ、アラタくん。あなたのその“数字の魔法”が、いつか王宮の分厚い扉をこじ開ける鍵になるかもしれないんだから」


アラタは苦笑して、いつもの調子で首を振る。


「……買いかぶりすぎです。僕はただ、目の前の数字を整理しているだけですから」


(それが、一番怖いのよ)


心の中で、私は小さく呟いた。


レティシアがグラスを飲み干したところで、アラタが空になったボトルに気づき、立ち上がった。


「代わりを取ってきます」


「あ、私が持ってくるわ」


反射で口が出た。商会長の癖だ。

けれど、アラタは穏やかに首を振った。


「いえ。セラフィナは座っていてください。お客様の相手をお願いします」


――その言い方が、なぜだか胸に引っかかった。

“商会長”として扱われているのは当然なのに、今夜はそれが少し寂しい。


アラタは一瞬だけこちらを見てから、会釈して部屋を出ていった。


* * *


扉が閉まると、応接室は急に静かになった。

ワインの香りだけが残って、ランプの火が小さく揺れている。


レティシアはグラスを指先で回しながら、横目で私を見た。


「……いい顔するようになったじゃない、セラ」


「……え?」


「数字と向き合ってるときのあなたよ。

 前はもっと、完璧な“エルドレッサ商会長”の仮面を張り付けて、悲壮な顔で戦っていたくせに。今は……仮面がずり落ちてるわよ?」


「なっ……!」


言い返そうとしたのに、舌が噛み合わない。

レティシアは、さらに楽しそうに続ける。


「あの子と数字の話をしてるとき、“好奇心旺盛な少女”みたいな顔してる。

 ……昔から“自分の話についてこられない男”には冷たかったくせに、あの子とは完全に二人だけの世界じゃない」


「ちょ、ちょっとレティ! 飲み過ぎよ! 変なこと言わないで!

 ……あれは仕事の話! 数字の話をしているだけで……!」


自分でも驚くくらい狼狽した声が出た。


「へぇ……数字の話ねぇ。随分と楽しそうに見えたけど?」


「そ、それは……彼が優秀な顧問だから……信頼しているだけで……」


「ふーん。信頼、ね」


レティシアは笑う。意地の悪い笑いではない。むしろ――嬉しそうだ。

私は小さく息を吐いた。


「……からかわないで」


「からかってないわ。応援してるの」


レティシアはグラスを軽く鳴らした。


「勝ちなさい。恋も、商売も」


「こ、恋……!?」


顔が熱い。耳まで熱い。

扇子でもあれば顔を隠したいのに、今は何も持っていない。


「──で、アラタくんのどこがそんなに気に入ったの?」


「……っ」


私は思わずワインを飲みかけて、盛大にむせた。


「けほっ……! ちょ、ちょっと……!」


「ごまかさないの。あなた、自分より頭が回らない人間にはすぐ飽きるくせに、あの子と数字の話をしているときだけ、時間を忘れてる」


私は口を開く。否定の言葉を探す。

けれど、すぐに見つからない。


レティシアの声は柔らかいのに、刃がある。


「あなたが見ている“商会の未来”を、あの子は平然と先回りして言葉にする。そういう相手、一生のうち何人出会えると思う?」


「……彼は、ただの頼れる協力者よ」


そう言ったはずなのに、言葉に力が入らない。

胸の奥に、別の答えがある気がするのを必死に否定した。


レティシアは、そこへ追い打ちをかける。


「それにね。あの子、あなたの肩書きや商会の財産に対する下心が――驚くほど見えない」


「……」


「あなたに寄ってくる男はあなたの見た目や財産目当てばっかりだから、男に嫌気がさしてたんでしょ? でも、アラタくんは違う。……そうじゃない?」


私は反射で“違う”と言いかけて、喉の奥で言葉が止まる。


(……違うのは、彼じゃない)


(私の方だ)


扉の向こうから足音が近づいてくる。私は思わず、息を止めた。

――いまの顔を、アラタには見られたくなかった。


* * *


アラタが戻ってきた。ボトルを片手に。

頬がほんのり赤い。いつもより目尻が柔らかい。

――運んでくる前に、自分でも少し飲んだのだろう。


私は、なぜか目を逸らせなくなった。


(……落ち着きなさい、セラフィナ)


(相手は顧問。仕事の相手。たったそれだけ)


自分に言い聞かせた瞬間、アラタが口を開いた。


「この前も言いましたけど、セラフィナは本当にすごいです」


「……っ」


心臓が、変な音を立てた気がする。


「粉砕機の代金を“時間で分けて考える”って話、あそこまで一瞬で本質を掴んだ人なんて、僕のいた国でも滅多にいません」


褒められて嬉しい。素直に嬉しい。

でも――“僕のいた国”という言葉が、胸のどこかをちくりと刺した。


(彼は、ここに“根を張っている”わけじゃない。いつか、ふっといなくなるかもしれない)


そんな考えが浮かんだ自分に腹が立って、私はぶっきらぼうに言った。


「……もう、いいから」


レティシアが、わざとらしく咳払いをして話題を変える。


「で? アラタくん。あなたの“数字”で見て――エルドレッサの工房、今どうなの?」


「あ、ええと……」


アラタは指先でテーブルを軽く叩きながら、頭の中の数字を整える癖がある。

その癖を“知っている”ことが、また妙に落ち着かない。


「今月はしっかりと“黒字”が……」


「……くろ、じ?」


私は眉をひそめた。


「黒? なに、汚職の話?」


レティシアが即座に食いつく。相変わらず反応が速い。


「ち、違います!」


アラタが慌てて首を振った。


「えっと、その……今の言い方、僕の国の癖で……。僕の国では、“利益”が出ている状態を“黒字”って呼ぶんです。逆に、足りなくて残りが出ないのを“赤字”って」


「……色で?」


「はい。昔、帳簿をつけるとき、足りないところを赤色で書き足して……っていう習慣があったとかで。だから順調なときは“黒”って」


私は思わず、グラスの中の赤を見た。

赤は欠けたところ。黒は満ちたところ。


(……なるほどね。言葉だけで、帳簿の感覚が伝わる)


それを面白がる自分がいる。

そして――彼の話し方が、なぜだか好きだと気づきそうになって、慌てて飲み込む。


アラタが笑う。その笑顔を見る。

胸の奥が、やけにうるさい。


(この人と話していると、どこまでも先のことを考えたくなる)


(失望されたくない。格好悪いところを見せたくない)


……そんな感情に、私はまだ、名前をつけられないでいた。


そして、またワインを飲む。顔の熱をごまかすために。


レティシアが、私の様子を横目で見て、ため息まじりに笑った。


「……はい、了解。もう十分、数字はいらないわ」


そして、さらりと言う。


「こっちはとっくに“黒”ね」


「何が“黒”よ!」


私は反射的に噛みついた。

でも、きっと顔が真っ赤だ。自分で分かる。説得力なんて、どこにもない。


アラタは「え?」と困った顔をして、レティシアは楽しそうに笑った。


* * *


夜更け。

祝杯は“ささやか”だったはずなのに、気づけば時間だけが進んでいた。


「……今日は、ここまでね」


私がそう言うと、アラタも頷いた。


「ありがとうございます。ご馳走さまでした」


玄関まで送ろうとして、立ち上がった。


「送るわ」


「大丈夫です。ここまでで」


「玄関までよ」


言い切ってしまった。

自分でも、少し不思議だった。商会長としての“礼儀”と言い訳できるのに、心のどこかが、それだけではないと知っている。


廊下を並んで歩く。

なのに、なぜか一歩ぶん距離が空いている。

近づけばいいのに、近づけない。触れたら何かが溢れてしまいそうで。


玄関ホールの手前で、アラタがふと立ち止まった。


「僕は、この街に来られて、本当に運が良かったと思っています」


胸の奥が、きゅっと締まった。


「……それは、どういう意味?」


そう聞き返そうとした瞬間。


「失礼いたします、商会長」


使用人が駆けてきて、深く頭を下げた。


「明朝出立の件で……レティシア様の馬車の準備が整いました。荷の積み込みも、夜明け前には」


言葉が、そこで途切れた。

私の問いも、アラタの言葉の続きも。


「……そう」


私は、商会長の声を取り戻して頷いた。

取り戻せてしまう自分が、少しだけ腹立たしい。


背後から、レティシアの気配がする。

氷河色の瞳が、私とアラタを一度だけ見て――小さく笑う。


「じゃ、私は寝るわ。明日早いもの」


その笑みは、からかいであり、確認であり、――祝福にも見えた。


私は扉の前で、もう一度だけアラタを見上げた。


「……おやすみなさい」


「はい。おやすみなさい、セラフィナ」


その呼び方が、胸の奥を軽く叩く。


(……続きを聞けなかった。

 でも、続きがあると――なぜか思ってしまう)


夜の冷気が、火照った頬を冷ます。

それでも、胸の奥の“名前のない勘定”だけは、帳簿の外で膨らみ続けていた。

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