第54話 臆病な値付け、攻めの値付け
セラフィナの呟きが、会議室に静かに落ちた。
「間違い、ですか?」
「ええ。今まで私は、高い道具を買うと、いつも焦っていたのよ。
金庫から大金が消えるとどうにも落ち着かなくて……だから、無意識のうちに『早く元を取らなきゃ』って自分で自分を追い立ててた」
彼女の視線が、僕の方へ――いや、過去の自分へと向けられる。
「360枚の機械を買ったら、その年のうちに360枚を回収しようとしていた。
だから、商品の値段を上げていたのよ。
『これくらい高く売らないと、機械代が払えない』って思い込んで」
セラフィナの告白に、ガルド親方が「あっ」と声を上げた。
「そういや……。前の機械を入れた時、嬢ちゃんは『卸値を2割上げる』って言ったな。
あの時、いくつかの取引先が『高すぎる』って離れていったっけか」
「ええ。そうね」
セラフィナは痛ましげに目を伏せた。
「私は『高品質なものを作るにはお金がかかるから、仕方がない』と言い訳していたけれど……本当は違った。
私が臆病だっただけ。十年使える機械の代金を、一年のお客さんに全部押し付けていただけだったのね」
臆病な値付け。
それは、投資のリスクを顧客への価格転嫁でカバーしようとする、守りの姿勢だ。
けれど、それを責めることはできない。
正しい“測り方”を持たなければ、誰だって減っていく金貨の恐怖には勝てないのだから。
「……誰も、セラフィナを責められませんよ」
僕はセラフィナに声をかけた。
「暗闇の中で走るときに、スピードを落とすのは当然です。
でも、今はもうよく見える照明が手元にあります」
僕は木の板の余白に、新しい計算式を書いた。
『売値 = 材料費 + 職人の手間賃等 + 毎月の機械代(減価償却) + 適正な取り分』
「道具代を十年に薄めて、この式で商品の値段を計算し直してみてください。
今までのように『早く元を取らなきゃ』と焦って上乗せしていた分が消えるはずです」
モルガンが素早く手元の羊皮紙で計算を始める。
羽ペンが走る音が、小気味よく響く。
やがて、彼は顔を上げ、驚愕に目を見開いた。
「……これは。
今の売値より、3割近く安くできますぞ……!」
「3割!?」
親方が素っ頓狂な声を上げた。
「おいおい、そんなに下げて大丈夫なのか!?
安物扱いされて、かえって信用を落とすんじゃねえか?」
「いいえ。大丈夫です」
答えたのは、僕ではなくセラフィナだった。
彼女は顔を上げ、かつてないほど力強い笑みを浮かべていた。
「安売りをするんじゃないわ、親方。
“本来の実力”どおりの値段に戻すだけよ」
彼女は扇子を閉じ、木の板の『生産量2倍』の文字を指し示した。
「3割安くすれば、今まで高いと諦めていた中堅の商会や、個人の冒険者たちも手が届くようになる。
爆発的に注文が入るはずよ。そして、新しい機械なら、その注文を全部さばける」
セラフィナの声に熱が帯びる。
「単価は下がる。でも、数が売れる。
トータルの儲けは、今よりずっと大きくなるはずよ。……これが、“攻めの値付け”ね」
“減価償却”で正しい原価を把握したことで、値下げの余地が生まれた。
それだけではない――“どこまで売値を下げても儲かるのか”が正しく見えるようになったことで、市場そのものを広げる武器を手に入れたのだ。
セラフィナは、ふっと表情を引き締めて続けた。
「……もちろん、ただ楽観しているわけじゃないわ」
「え?」
「機械を買って毎月の費用を背負うということは、私たちが“止まれなくなる”ということよ。
もし注文が来なくて機械が止まれば、帳簿の上で毎月かかる金貨3枚の費用が、そのまま丸ごと“無駄な出血”になる」
会議室の空気が、ピリリと張り詰める。
だが、彼女の瞳に怯えの色はなかった。あるのは、戦場を見据える指揮官の冷徹な光だけだ。
「機械を入れる以上、後戻りはできない。
だからこそ――安くしてでも、圧倒的な数を作って、売り切る。
数字の裏付けもある。勝てると踏んだからこそ決断するのよ」
僕は思わず息を呑んだ。
減価償却は、機械を動かそうが止めようが、毎月乗ってくる費用――つまり固定費だ。
固定費は、稼働を止めても消えない。
だからこそ、機械を動かし続け、注文を絶やさないことが、工房の生死に直結する。
固定費という荷物を背負い、退路を断って前に進む。
セラフィナはその構造を自力で掴み、“リスク”を勝機に変えてみせた。
「……面白そうじゃない」
部屋の隅から、短い笑い声が聞こえた。レティシアだ。
彼女は組んでいた脚を解き、立ち上がると僕を見つめた。
「……やっぱり、あなたの数字は劇薬よ。
この国の経済を、根底からひっくり返すつもり?」
「ひっくり返すなんて……ただ、整理整頓しているだけです」
「ふふ。そういうことにしておいてあげる」
レティシアは愉快そうに目を細め、セラフィナに向かって言った。
「セラ。私、王都に戻るのが少し楽しみになったわ。
次に会う時、貴女の商会がどれだけ化けているか……特等席で見せてもらうわね」
「ええ。期待していて、レティ。
……さあ、モルガン! すぐに新しい価格表を作成して!
親方は職人たちに伝達! 明日から忙しくなるわよ!」
「承知しました!」
「おうよ! 腕が鳴るぜ!」
セラフィナの号令で、全員が一斉に動き出す。
その活気ある光景を見ながら、僕はこっそりと息をついた。
どうやら、僕の役目は無事に果たせたようだ。
* * *
一週間後。
エルドレッサ商会の店舗前には、早朝から異様な光景が広がっていた。
「おい、聞いたか? エルドレッサの魔石が安くなったらしいぞ」
「馬鹿言え。あそこの品質で安くなるわけがない。どうせB級品だろ?」
「いや、それが正規品なんだよ! しかも、まとめ買いならさらに勉強するって張り紙が……」
噂を聞きつけた商人や、武装した冒険者たちが、開店前から長蛇の列を作っている。
「……すごい人ね」
レティシアが呆れたように呟く。
「数字の魔法って、本当に恐ろしいわ」
「魔法じゃないわ」
セラフィナが、誇らしげに胸を張った。
「これは、私たちエルドレッサの“実力”よ。
……彼が、それを見えるようにしてくれただけ」
彼女は振り返り、僕に向けて最高の笑顔を見せた。
朝日に照らされたその表情は、どんな宝石よりも輝いて見えた。
「ありがとう、アラタ。
あなたのおかげで、私は未来を買うことができたわ」
その言葉と笑顔に、僕は胸がいっぱいになり、ただ「はい」と頷くことしかできなかった。




