第50話 今月が消える買い物
モルガンの言葉が、まだ会議室に張りついている。
誰も口を開かない。セラフィナだけが、組んだ指の力を静かに強めていた。
この世界の商売は、基本的に“現金一括払い”だ。
利子の言葉を嫌う国で、分割払いの理屈が根づくはずもない――。
買うなら、今ここにある金庫から、金貨360枚を積み上げなければならない。
「親方。現場としてはいかがですか?」
セラフィナが水を向けると、ガルド親方は油で汚れた帽子を握りしめ、苦渋の表情で答えた。
「……本音を言やぁ、喉から手が出るほど欲しい。
今の機械はもう限界だ。いつ完全に壊れてもおかしくねぇ。今のままじゃ、納期を守るだけでも精一杯だ」
「つまり、買うべきだと?」
「だがなぁ……!」
親方は、ちらりとセラフィナを見た。
「360枚だぞ。それを払っちまったら、今月の工房の“取り分”はゼロどころか、大損失だ。職人たちに『今月はお前らの稼ぎが全部消えたぞ』なんて、俺の口からはとても言えねえ。
それに……もし機械が期待通りに動かなかったら? 嬢ちゃんにも迷惑を掛けるし、俺たちは路頭に迷うことになるかもしれん」
巨大な損失――その恐怖が、彼らの決断を縛り付けている。
「……商会が資金を立て替えれば、払えない額ではありません」
セラフィナが静かに言った。
「ですが、いずれにしても工房の手元の現金が危険な水準まで減ります。もしその直後に、別のトラブル――例えば輸送中の事故や、材料高騰が発生したら、対応できないかもしれません」
彼女は経営者として、リスクを冷静に見積もっている。
会議室に、重い沈黙が落ちた。
誰もが「無理だ」と思い始めている。
今の機械を騙し騙し使い続け、じり貧になる未来を受け入れようとしている。
* * *
その時だった。
「……ねえ、アラタくん」
それまで黙ってやり取りを聞いていたレティシアが、不意に口を開いた。
彼女は、あくまで“部外者”の顔で頬杖をついている。
「あなたの国なら、こういう“今月の取り分がほとんど消える買い物”、どうやって考えるの?」
その声は、静かな水面に投げ込まれた小石のように、会議室の空気を波立たせた。
モルガンが、親方が、そしてセラフィナが、一斉に僕を見る。
レティシアの眼鏡の奥の瞳が、面白そうに光った。
僕は小さく息を吸い、椅子を引いて立ち上がった。
「……僕のいた国でも、同じ問題はありました。
巨大な工場を作る。高額な機械を買う。それを“買った月”の費用として計算したら、どんな大きな商会でも、その月は大損失が出て耐えられないでしょう」
「当たり前でしょう! 大金が出ていくのですから!」
モルガンが反応する。
「ええ。金貨が出ていく事実は変わりません。
ですが――“計算の仕方”を変えることはできます」
僕は近くにあった黒板代わりの木の板を引き寄せ、チョークを握った。
「やり方を少し変えれば……その機械代を“これから何年もかけて少しずつ負担する”ものとして扱えます。
そうすれば、今月の取り分が消えたように見えるのを防いだまま――新型の粉砕機を手に入れられます」
モルガンも親方も、「そんな馬鹿な」「狐につままれたようだ」と顔を見合わせている。
「――取り分が減らないように“見せる”ってことか?」
モルガンの声が低く落ちた。
「金貨360枚払うのに、取り分が減らない? それは数字のごまかしだ!」
バン、と机が叩かれ、会議室が凍りつく。
ガルド親方も、困惑と疑念の目を向けている。
だが、その張り詰めた空気の中で一人――レティシアだけは、口元に笑みを浮かべていた。
眼鏡の奥の瞳が、「さあ、どう切り返すの?」と僕を試している。
僕はその視線を背中に感じながら、カツン、とチョークを木の板に押し当てた。
「もちろんごまかしではありません。
……金貨360枚を“今月だけの傷”にしないための、“時間”を味方につける魔法です」




