第45話 価格を決める権利
夕方、エルドレッサ商会を訪れると、廊下の空気は相変わらず乾いていた。
インクと革と、紙の匂い。そして、冷徹な数字の匂い。
執務室に入ると、セラフィナがすでに机に向かっていた。
光輪通信の結晶は淡く脈打ち、机の上には、王都支店から届いた報告書の控えが積まれている。
「おかえり、アラタ」
「ただいま……セラフィナ」
呼び捨てが口から出るたびに、鼓動が少しだけ速くなるのは、たぶん一生治らない気がする。
セラフィナは書類を一枚めくり、唇の端を少しだけ上げた。
「王都支店から報告が来たわ。……医師団、特急手当の請求額を見て、盛大に渋ったそうよ」
「ですよね」
「“命の薬でさらに金を取るのか”――ってね」
彼女は、紙を揃える指先を止めずに続ける。
「だから返したの。『命の薬だからこそ、作る側を潰すわけにはいかない』って」
「……それでも引かなかった?」
「……言い方を変えて、同じことを何度も言ってきたわ。だから最後に――」
セラフィナは、ゆっくり笑った。商人の笑みだ。
「『規格はあなたたちが決めればいい。――でも、価格は商会が決める。売る側には、その権利があるのよ』」
「……ずいぶん強気ですね」
思わずそう漏らすと、セラフィナは肩をすくめた。
「強気じゃないわ。責任よ。
――“急げ”“今すぐ作れ”って言われて、その分の負担だけが現場に押しつけられるなら……」
彼女はそこで一拍置いて、続けた。
「次に折れるのは釜じゃなくて、職人のほうだもの」
セラフィナの口調は厳しいのに、言っていることは不思議なくらい温かかった。
誰かの正義を否定して勝つためじゃない。作り続けるために、無茶のコストを表に出す──それだけだ。
「だから、特急手当は“罰金”じゃない。緊急を緊急として通すための、最低限の支払いよ」
「……なるほど」
「これは“命の薬”を高く売りつけるんじゃない。無茶のツケを、現場に押しつけないって約束なのだから」
胸の奥が、すっと軽くなった。
「……で、通りましたか?」
「ええ。次の言葉が“払えない”じゃなくて、“次からは早めに出す”になった。言質は取った。
……言葉だけなら信用しないけど、今度は『締め切り』がある。守らせるわ」
セラフィナの細い指先が、机の上の『締め切り』の欄を叩く。
その仕草が、なんだか無性に頼もしく、格好良かった。
「これでやっと、胸を張って言えるわ。
工房にも、街にも――“適正な買い取り”だって」
彼女は椅子に深くもたれ、ふっと長く息を吐いた。
その瞬間だけ、鉄の女商会長じゃなくなる。重責から解放された、等身大の人間の顔になる。
「……良かった」
それしか言えなかった。でも、心からの言葉だった。
セラフィナは窓の外――夕焼けに染まるローレンツァの屋根の海を見て、少しだけ表情を曇らせた。
「でもね、アラタ」
「?」
「数字が、ここまで人の暮らしを変えられるなら……
間違った数字や、誰かの都合のいい数字だって、同じくらい世界をねじ曲げられる。そう思うと、少し怖くもあるの」
僕は言葉に詰まった。
工房の職人が家で食べた夕飯の話が、頭に浮かぶ。
それを奪うのも、与えるのも、同じ一本の“線”だ。線の引き方ひとつで、人は不幸にもなる。
「……怖いですね」
僕が正直に答えると、セラフィナが意外そうに瞬きをした。
「あなたは、怖くないと思ってた」
「怖いですよ。だから、線を引くんです。怖くないふりをして引く線が、一番危ないですから」
僕は机の端に置かれた紙を一枚取って、指で縦線を引く真似をした。
セラフィナが、くすりと笑う。
「でも……それでも僕は」
僕は、息を吸う。
「数字さえあれば世界を良くできるって、信じたいです。
……そう信じられるように、僕が、間違えないようにします」
セラフィナの視線が、僕に止まる。
その目は、いつもの紫水晶みたいな硬さじゃなくて、夕陽を透かしたように柔らかい。
「……じゃあ、もしあなたが間違えそうになったら?」
「止めてください。セラフィナが」
言ってから、しまった、と思う。重い。これは重すぎる。
……訂正の言葉が、喉の奥で引っかかったまま出てこない。
でもセラフィナは、逃げなかった。
ただ、少しだけ頬を赤くして、ふいっと目を逸らす。
「……努力はするわ。あなた、数字のことになると頑固だから」
「頑固なのは、そっちでしょう」
そこへ、控えめなノックの音が響いた。
「姉さん、入るよ」
レオニスが顔を出し、その後ろからルカがひょこっと覗いた。
ルカの目は相変わらず好奇心で輝いている。
「商会長! あの、工房別の帳簿、形が見えてきました! これなら全部の工房の収支が……って」
ルカが勢いよく言いかけて、僕とセラフィナの距離を見て、ぴたりと止まる。
「……あ」
レオニスが、わざとらしく大きな咳払いをした。
「……随分、仲がいいんだな。二人とも」
「ち、違うわよ!」
セラフィナが即座に声を上げた。
「そ、そうです。セラフィナと大事な打ち合わせを……」
僕も慌てて弁解しようとすると、ルカが、わぁ、と小さく感嘆の声を漏らした。
「呼び捨てが、完全に定着してる……!」
「ルカ!」
セラフィナが顔を赤くして小声でたしなめる。
レオニスは、やれやれと肩をすくめた――が、その口元は少しだけ笑っていた。
僕は咳払いして、話題を無理やり帳簿に戻そうとした。
でも、セラフィナが一瞬だけ僕を見て――すぐに慌てて視線を逸らしたのが、なぜかどうしようもなく嬉しかった。




