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第44話 線のある日々

――それから、一ヶ月。工房の匂いが、前よりも“穏やか”になった気がした。


干し棚の薬草は晩夏の風に揺れ、釜の泡立つ音も同じリズムで響いている。

けれど、以前ここを訪れたときに胸の奥にまとわりついた、あの焦げつくような切迫感だけが、きれいに洗い流されていた。


「おい、アラタ。見ろ」


トクレンが顎で入口の柱をしゃくった。

そこには、縄で固定された一枚の黒い板――『約束のライン』が掲げられている。


チョークの字は何度か書き直された跡があり、白い粉で汚れている。数字も微妙に修正されている。


「今月は……500から520まで引き上げたんですね」


僕が言うと、横で休憩していた職人の一人が肩をすくめた。


「550までいけるかと思ったんだが、入荷した薬草の出来が少し悪くてよ。

 選別に時間がかかりそうだから、今月は無理すんなって親方がさ」


「前なら“選別なんざ気合いで早くして、根性で埋めろ”だったのにな」


わっと笑いが起きる。

冗談にできる余裕がある、ということだ。

 

通常ポーションを520本。高級ポーション分もあるから、手元が減り続ける感じはない。


工房の奥では、通常ポーションの釜が回っている。

職人たちは前ほど怒鳴り合っていない。突発的な段取り替えで釜を止めることが減り、作業のリズムが途切れなくなったからだ。


そして何より――顔色が違う。目の下のどす黒い隈が、薄くなっている。


「なあ、アラタ。これ、地味にすげぇんだぞ」


頬に粉をつけた若い職人が、出荷用の木箱を抱えながら言った。


「前はさ、“今日どこまでやっても、明日急な注文が入れば全部ひっくり返る”って気分だった。

 でも今は――板に線があるから、そこまでやったら胸張って帰れる」


彼は照れくさそうに鼻を擦る。


「昨日なんて、久しぶりに日が暮れる前に家で飯食ったんだ。

 そしたら子どもが『父ちゃん、今日早い! 仕事クビになったのか?』ってさ……心配されたよ」


周りがどっと笑う。

僕もつられて笑いながら、喉の奥が少し熱くなるのを感じた。


(数字一つで、帰れる時間が早くなる。家族と笑える時間が増える)


それは、剣や魔法よりも地味だけれど、ちょっと怖いくらいに大きな力だった。


「……それで、王都向けの“検証紋”は?」


僕が尋ねると、一番弟子のハインが小さく頷いた。

以前よりも、その目には落ち着いた光が宿っている。


「定期便の分は、締め切りまでに本数が確定します。

 だから……封印台の前でも、前ほど急かされることはなくなりました」


その言葉の裏にあるのは、たぶん“睡眠”だ。

手元の震えを止めるには、気合ではなく体力と休息が要る。休息には、事前の段取りが要る。


「……で、緊急発注は?」


僕が恐る恐る訊くと、トクレンが鼻を鳴らした。


「来たよ。そりゃ来る」


それでも、その声は以前ほど刺々しくなかった。


「ただな……前みたいに、毎回“無料の無茶”じゃねぇ。

 あいつら、特急手当がかかるときは、まともに数を数えやがる。『本当に今すぐ必要か?』ってな」


「……減ったんですね?」


「人間だからな。懐が痛めば学習する」


トクレンはそう言って、愛用の釜の縁を革手袋で軽く叩いた。

そして、視線を合わせずにぼそりと言う。


「……お前さんの線引きとやらも、案外悪くなかった。

 前みたいに、手が空回りして薬を無駄にする感じは……確かに減った」


“認めた”とは言わない。

でも、あの頑固なトクレンの口から出たそれは、僕にとって最大級の賛辞だった。


僕は、深く息を吐く。

釜から立ち上る蒸気が、今日は少しだけ甘く感じた。


そういえば――セラフィナからは、まだ直接聞いていなかった。

王都との交渉が、どう転んだのかを。

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