第43話 夕焼けの呼び捨て
トクレンはまだ腕を組んだまま、短く顎をしゃくった。
「……続けろ」
胸の奥で凍っていた息が、少しだけほどける。
「そうすると、通常ポーションは――」
僕は左側に戻り、線を引いた。
「通常は、月に550本。これが“絶対に沈まないライン”です。
でも、いきなり550本を目指すのは苦しい。だから今月はまず、500本。金貨50枚分」
500本のラインにもう1本、太い線を引く。
職人の一人が口を尖らせた。
「金貨50枚じゃ、足りねぇじゃねぇか」
「足りない分を、高級の“予約分”で埋めます」
僕は右側に、数字を書き足す。
「医師団向けの予約分が今週は10本。街向けの分が5本。合わせて15本。
いまの“5時間で4本”は、割り込みで洗浄も魔方陣も何度もやり直す最悪の場合です。
これを毎週1回まとめて作れば、段取り替えは増えません。同じペースで月4回作れば60本です。
足りない金貨5枚分はこれで十分カバーできますし、失敗も、疲労も、今より減るはずです」
トクレンが、鼻で笑った。
「失敗が減るって、簡単に言うな」
「簡単じゃないです。でも、“毎日あわてて割り込んで釜を殺す”より、ずっとましです」
僕は一拍置いて、続けた。
「高級ポーションは看板です。品格、誇りです。だからこそ、ぐちゃぐちゃに作って品質を落とすのが一番怖い。
まとめて作ることで、誇りを守りながら、工房の手元も守れます」
セラフィナが、静かに言葉を重ねた。
「高級を“減らす”んじゃない。“約束で守る”のよ。
予約分は必ず出す。締め切りまでの分は必ず載せる。
代わりに王都にも約束を守らせる――その責任をエルドレッサが背負う」
トクレンは黙ったまま、板を睨んでいる。
その沈黙が永遠のように長く感じた。
やがて、ぽつりと低い声が落ちる。
「……“約束のライン”ってやつ、悪くはねぇかもな」
職人たちが、顔を見合わせた。
誰かが小声で言う。
「ここまで作れりゃ、今日は上がっていい、ってことだよな」
「明日も急な割り込みで全部ひっくり返る、って不安が減るなら……」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
僕が見たかったのは、こういう反応だ。数字に追われて怯える顔じゃなくて、数字があることで肩の力が抜ける顔。
トクレンが顎で一番弟子のハインをしゃくった。
「ハイン。板、入口に貼っとけ。今月の分な」
ハインが一瞬目を見開き、すぐに真面目に頷いた。
「……はい、親方」
彼は板を抱え、入口近くの柱に縄で固定し始めた。
“約束のライン”が、工房の中心に掲げられていく。
* * *
その光景を見ながら、僕はもう一つの気がかりを思い出していた。
封印工程。トクレンだけが握っている技術。
(属人化――ここが、この工房の最大のリスクかもしれない)
言うべきか、迷う。昨日はそれで怒らせた。
でも、このタイミングなら、“押し付け”じゃなく“備え”として言えるかもしれない。
「トクレン親方」
「なんだ」
「封印のことなんですが……」
トクレンの目がすっと細くなる。
僕は慎重に言葉を選んだ。
「今すぐ任せろって話じゃありません。
ただ……親方が倒れたとき、工房が一晩で止まるのはあまりに危険です。
少しずつでも――ハインさんに、できる範囲を増やしていくのが、いざという時の備えになります」
板を固定していたハインの手が、ぴたりと止まった。
視線が落ちる。期待と、そして責任の重さへの恐怖が混ざった横顔。
トクレンは、しばらく黙ってから、吐き捨てるように言った。
「馬鹿を言え。あれはワシの仕事だ。封印でポーションの質が決まる」
――やっぱり、そう来るか。
でも次の言葉は、少しだけ柔らかかった。
「……型は見せてきた。頭には入ってるだろう。だが任せるのは、まだ早い」
ハインが小さく頷いた。何も言えない。でも、逃げもしない。
「まだ早い」ということは、「いつかは任せる」という意味でもある。
(今はこれでいい)
僕はそれ以上踏み込まず、頷いた。
「はい。まずは“無茶な割り込み”を減らして、失敗と疲労を減らす。そこからです」
トクレンが、ふっと息を吐いた。
「……やれるもんなら、やってみろ。
ワシは釜を回す。セラは王都を黙らせろ。お前は――正しい線を引け」
胸の奥が、どくんと鳴った。
“認めた”とは言わない。けれど、拒絶でもない。
セラフィナが笑った。昨日の夜より、少しだけ明るい、晴れやかな笑み。
「任せて。矢面は私が立つわ」
僕も、同じように頷く。
「……はい。正しい線を引きます」
* * *
工房を出ると、空が少しだけ橙色に染まり始めていた。
干し棚の薬草が風に揺れ、入口の柱には“約束のライン”が貼られている。
休憩に入った職人たちがそれを見上げながら、今までより軽い足取りで戻っていくのが見えた。
歩き出した僕の横で、セラフィナが不意に言った。
「アラタ」
「はい、セラフィナさん――」
セラフィナが、くすりと笑う。悪戯っぽい、少女のような響き。
「ねえ。“セラフィナさん”はそろそろやめて。
一緒に同じ板の前で頭を抱えた仲間でしょう?“セラフィナ”って呼んでちょうだい」
心臓が、変な跳ね方をした。
夕日のせいか、彼女の横顔が淡く染まって見える。
僕は視線を泳がせながら、ようやく口を開いた。
「……じゃあ、その……セラフィナ」
一瞬だけ、彼女の耳たぶが赤くなった気がした。
でも、彼女は目を逸らさない。
「うん。……それでいいわ」
夕暮れの風が吹き抜け、薬草の甘苦い匂いが遠ざかっていく。
背後で、工房の釜が泡立つ音が、力強いリズムで続いていた。
(セラフィナとなら、この街を――数字で守ることだって、本当にできるかもしれない)
僕は握りしめた紙束を、来る時よりもずっと軽く感じながら、商会へ続く道を歩いた。
並んで歩く二人の影が、石畳の上で一つに重なるように伸びていた。




