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第42話 看板商品と“約束のライン”

翌朝の空気は、思ったよりも冷たかった。

夜更かしのせいで身体は鉛のように重いのに、頭の芯だけは妙に冴え渡っている。


商会の中庭で待っていた馬車に乗り込むと、そこには既にセラフィナが座っていた。

いつもの外出用の外套を羽織り、髪もしっかりとまとめている。

昨夜、執務室で見せたあの脆い“弱音”が嘘みたいに、背筋が凛と伸びていた。


「……眠れた?」


「いえ、少しだけ。……頭が冴えてしまって」


「奇遇ね。私もよ。……でも、今日を乗り切るには十分だわ」


言い切る声に、迷いがない。

僕は膝の上の紙束をぎゅっと握り直した。縦線だらけのメモ。段取りの図。締め切りの設定。特急手当の計算。そして、いちばん大事な一本の線。


(今日は、この線を現場に“渡す”日だ)


馬車が倉庫街に差しかかると、薬草の独特な香りが濃くなる。干し棚が風に揺れ、槌音や荷車の音が近づいてくる。

昨日と同じ景色なのに、胃の奥だけが落ち着かない。


工房の前に着いたとき、すでに人の出入りがあった。

扉の向こうから、釜の泡立つ音と、職人の怒鳴り声と、笑い声が混ざって聞こえる。


――繁盛の匂いだ。

だからこそ、これで“潰れそうだ”なんて、なおさらおかしい。


セラフィナが先に降り、僕も続く。扉を開けると、ムッとする熱気が頬を叩いた。


「……おう」


トクレンは、一番大きな釜の前で腕を組んで待っていた。

昨日よりも顔が険しい。いや、険しいというより、“構えている”。


手を動かしている職人たちも、手を休めずにこちらをちらちら見ている。

ひそひそ声が、釜の音の隙間を縫って耳に刺さった。


「また来たぞ……」

「昨日の続きか?」

「今度は何を減らせってんだ。高級をやめろってか?」


――違う。今日は、何かを減らすために来たんじゃない。


僕は一歩前に出て、深く頭を下げた。


「トクレン親方。昨日は、すみませんでした」


工房の空気が、少しだけ止まる。

セラフィナも、口を挟まずに黙って見守っている。


「現場の前提も、皆さんの誇りも、命の重さも……分かったつもりで、分かってませんでした。

 “計算上の正しさ”だけ言って、現場を切り捨てるみたいな言い方をした。――本当に、すみません」


しん、と静かになった。釜の底で液体が跳ねる音だけが、妙に大きく響く。

トクレンは鼻を鳴らし、僕の頭上から言った。


「……頭下げりゃ済む話じゃねぇぞ」


「はい。だから、頭だけじゃ終わらせません」


僕は顔を上げ、握りしめていた紙束を差し出した。


「看板は守ります。高級ポーションは――“工房の誇り”として残したまま、工房の懐も守るやり方を持ってきました」


トクレンの太い眉が、わずかに動く。

職人たちの目にも、警戒の色に混じって、少しだけ期待の光が宿る。


セラフィナが、足音を立てて一歩前に出た。


「トクおじさま。矢面に立つのは私よ。王都の医師団とは、私が交渉する」


トクレンが低く唸る。


「交渉って……あいつら相手に、何をどうする気だ」


「“無茶を無料で通す”のを、やめさせる」


セラフィナの言い方は、昨日よりずっと鋭く、商会長としての威厳に満ちていた。


「原則の納期は二週間。締め切りまでに本数を確定した分だけ、定期便に載せる。

 それでも“今すぐ”と言うなら――“特急手当”を取る。こちらの都合を無視して割り込むなら、その手間賃と職人の負担分を、きっちり金で払わせる」


「……ふん」


トクレンは笑わない。けれど、拒絶もしない。

昨日の“決裂”とは違う空気だ。


ここで、僕がやるべきは――冷たい数字を突きつけることじゃない。数字を、現場を守るための“約束”に変えることだ。


* * *


僕は工房の片隅に立てかけてあった黒い板を借り、昨日と同じように、白いチョークで縦線を一本引いた。

左に『通常』。右に『高級』。その上に、さらに大きく書く。


『約束のライン』


「……“ここまで作れたら、工房は沈まない”。その線を、みんなで共有したいんです」


職人の一人が眉をひそめる。


「線?」


「はい。ノルマじゃありません。“約束”です」


僕は板の下に、簡単な数字を書き始めた。


「工房の固定の出費――給金、燃料、修理。合わせて金貨55枚。これは、何があっても毎月出ていくお金です」


トクレンが頷く。ここは、誰も否定しようがない現実だ。


「通常ポーションは一本あたり、手元に銀貨1枚分――1,000リル残ります。

 つまり、通常を毎月550本作れれば、それだけで金貨55枚に届きます」


職人たちがざわつく。


「550……」

「今の人数で、いけるか……?」

「でも今は割り込みで釜が止まるんだぞ。作れるわけねぇ」


「だから、割り込みを減らします」


僕は右側――高級の欄を指した。


「高級は“儲かる”ように見えて、段取り替えと失敗で実際には儲からない商品になってました。

 でも、王都向けも街向けも釜の中身は同じ。違いは最後の封だけ。――なら、作り方を変えればいい」


僕は板の下に、昨日セラフィナに見せたのと同じ図を描く。


釜 → 濾す → 瓶詰め → 封印で分ける

(街向け)/(医師団向け=検証紋)


「高級は、毎日ちまちま割り込んで作るんじゃなくて、“まとめて作る日”を決めます。

 たとえば王都向けの定期便が出る前日。朝から晩まで、釜は高級だけ。途中で止めない。洗浄も魔方陣も、その日の朝の一回だけ」


「……毎週一回にまとめる?」


トクレンが、腕を組み直した。


「ええ。医師団向けは、その定期便の三日前までに本数を確定してもらいます。締め切りを過ぎた分は次の便。

 どうしても、って言うなら特急手当をもらう。――その条件でエルドレッサ商会に交渉してもらいます」


セラフィナが力強く頷く。


「王都に“無茶が安い”と思わせない。無茶には対価がいる。そういう当たり前の線引きを、商会が責任を持ってする。

 特急手当のうち、早馬代はそのまま運送に回して、残りは釜割り込みの手間賃――釜番の手当として工房に渡すわ」


工房の中に、少しずつ“現実味”が広がっていくのを感じた。

僕の話が、“現場を知らない若造の戯言”ではなく、“回る仕組み”に聞こえ始めている。


トクレンは板の前で、動かない。

腕を組んだまま、長い沈黙が続いた。

釜の泡立つ音だけが、やけに大きく聞こえる。


職人たちの視線が、一斉に親方の背中に集まった。

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