第41話 商会長の眠れない夜
――深夜の執務室。
散らばった紙の上で、魔石灯だけが静かに揺れている。
「特急……手当?」
セラフィナの眉が上がった。
「ええ。ただの値上げじゃありません。
割り込みで釜を洗い直す手間賃。夜間作業の加算分。早馬を立てるなら、その分も。
“王都の命”は守る。その代わり、彼らの無計画さが引き起こすコストの分は、対価としてもらって工房の“稼ぐ速度”も守る。これなら、対等です」
セラフィナの口元が、わずかに緩んだ。
皮肉でも嘲笑でもない。久しぶりに、混沌とした問題の中に“整理された言葉”を見つけた人の顔だった。
「……なるほど。要求ではなく、条件として出すのね」
「条件です。正当なルールです。
ルールがないから、現場が全部のしわ寄せを飲み込む羽目になる」
セラフィナは椅子から立ち上がり、窓辺へと歩いた。
暗い街を見下ろし、それから振り返る。その表情には、商会長としての覇気が戻っていた。
「じゃあ、数字にしましょう。
釜割り込みの作業と夜間の作業分は……金貨4枚。早馬は木箱ひとつ金貨4枚。合計、金貨8枚――これでいきましょう」
僕はそのまま裏紙に書き写した。
「……木箱ひとつに、何本入ります?」
「――20本」
「じゃあ、特急料金は一本あたり銀貨4枚ですね」
僕は指で数字を叩いた。
「これなら医師団も“本当に今すぐ必要か”を考えて発注する。――“無料の無茶”じゃなくなる」
「……説明の筋は通るわね」
「向こうには、こう伝えてください」
一拍おいて、僕は続けた。
「『急ぎでなければ、今までどおりの価格で提供します』と。
値上げがしたいわけじゃありません。計画的に発注してくれれば、安く済むんです。
――特急手当は、“無理を押しつけるなら、その分を払う”というだけの話です」
僕は指先で紙を軽く叩く。
「医師団側も、“早めに発注するだけで出費が減る”なら、そっちを選びたくなるはずです」
わずかな沈黙。やがて、セラフィナの口元がわずかに上がった。
「……いいわ。あとの交渉は、エルドレッサの仕事よ」
声が、強く響く。
「矢面に立つのは私。王都支店を通して医師団に飲ませるわ。
文句があるなら、他の工房を探せばいい。――今の王都に、ルミナ薬工房と同じ品質を出せる場所なんてないんだから」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。
“守れる側になりたい”と言った彼女の背中が、今は嘘じゃない形で見えた。
* * *
「……もう一つ、提案があります」
僕は机の上の別の紙を引き寄せた。昼間、工房で聞いた話を殴り書きしたメモだ。
「今日、トクレン親方が言ってました。医師団向けの高級ポーションと、街向けの高級ポーション――中身の薬液自体は同じだって」
セラフィナが頷き、机に戻ってくる。
「ええ。成分は一緒よ。違いは、最後の封印だけ。医師団規格には、彼らが本物だと確認するための“検証紋”が必要だから」
「そうです。そこが突破口です」
僕は紙に、簡単な図を描いた。
釜(煮出し) → 濾過 → 瓶詰め → 封印
そして封印の直前で、矢印を二本に分岐させる。
上:街向け(通常の封印)
下:医師団向け(検証紋)
「今の最大の問題は、“注文の種類”が変わるたびに、釜の中身を捨てて、洗浄して、魔方陣を描き直す……この“段取り替え”が発生することです。
でも中身が同じなら――釜を止める必要は、本来ない」
セラフィナの瞳が、少しだけ大きくなった。
「……なるほど」
「そうです。封印する直前で分けるんです」
僕は、図の分岐点を指で叩いた。
「高級ポーションは、作るときはまとめて作る日を一日決める。釜はその日だけ、朝から晩まで高級ポーションの液を炊き続ける。
そして、瓶詰めした端から、注文数に合わせて――街向けの封印と、検証紋の封印を打ち分けるんです」
「余ったら?」
「街向けの封印に回して、倉庫に入れられます。
検証紋を打ってしまったら街には流せませんが、打つ前なら“ただの高級ポーション”です」
セラフィナが小さく息を吸い込む。
彼女の頭の中で、バラバラだったパズルのピースが繋がり、物流の線が組み上がっていくのが見えるようだった。
「……定期便に載せる日に合わせて、高級ポーションの製造日を固定する。
王都分も街の在庫分も、同じ釜で一気に作って――最後の封だけで仕分ける」
「そうです。こうすれば、一番大変な釜の洗浄と段取り替えは、原則、週に一回だけで済む。
それ以外の日は、通常ポーションに集中できる。工房の“稼ぐ速度”が戻ります」
高級ポーションが悪いんじゃない。
問題は、王都の急な割り込みで、段取り替えが何度も起きることだ。
特急手当は、その無茶に値段をつけるためのルール。
封印の打ち分けは、その無茶そのものを減らすための作り方だ。
セラフィナは机の上の紙を払いのけるようにして、身を乗り出し、僕の描いた図を覗き込んだ。
近い。
思ったより、距離が近い。
ふわりと、彼女の髪が肩から滑り落ちて、薬草茶とは違う甘い香りが鼻をくすぐった。
夜の静けさのせいか、彼女の熱気が直接伝わってくるようで、僕は反射的に視線を逸らしそうになるのを必死で耐えた。
今は真面目な会議だ。仕事の話だ。変なことを考えるな。
「……これなら」
セラフィナが、図を指でなぞりながら小さく呟く。
「緊急発注が来ても、“釜を止める”必要が劇的に減る。
締め切りまでに医師団の本数を確定させれば、封印の打ち分けだけで対応できる……」
「はい。だからこそ、さっきの“納期のルール”が必要です。
注文が早ければ、工房も計画的にまとめて作れる。遅ければ、特急手当を払ってもらって、その金で職人に報いる。
“遅いのに安い”が、一番現場を壊しますから」
セラフィナは、ゆっくりと、深く息を吐いた。
そして椅子に背中を預け、張り詰めていた肩の力が抜けていく。
「……ありがとう、アラタ」
その声は、いつもの完璧な商会長の声じゃなかった。
少し掠れていて、疲労が混ざっていて、それでも驚くほど柔らかい、一人の女性の声だった。
「正直、眠れない日が続いてたの。
伝統あるルミナ薬工房を、私の代で……お金が尽きて終わらせてしまうんじゃないか、父が守り抜いたものを、私が潰すことになるんじゃないかって――ずっと考えてた」
胸の奥が、どくんと鳴った。
完璧な仮面の下に、こんな弱音が隠れていたなんて。
彼女もまた、ギリギリのところで戦っていたのだ。
「……セラフィナさんが諦めない限り」
僕は、机の上の図を見つめたまま言った。
顔を上げると、たぶん目が泳いでしまうから。
「数字は、必ず答えを出してくれます。僕が――ちゃんと使い方を間違えなければ」
セラフィナは一瞬だけ笑って、頬がほんの少し赤くなったように見えた。
それをごまかすみたいに、彼女は光輪通信の結晶を一瞥してから、立ち上がる。
――一瞬で商会長の顔に戻る。けれど、その瞳に宿る光は、さっきよりもずっと力強かった。
「さあ、明日は早いわよ。まずはトクおじさまを説得して、それから私は王都へ連絡を入れる」
僕も立ち上がり、散らばった紙の中から“解決策のメモ”だけを拾い集めた。
縦線だらけの、煤けた数字の武器。でも今は、これが名剣よりも頼もしく感じる。
「はい。行きましょう」
廊下に出ると、二人の足音がやけに大きく響いた。
夜の商会は静かで、まるで街全体が息を潜めて夜明けを待っているみたいだ。
(これは、ただの計算結果じゃない)
僕は手の中の紙束を強く握りしめる。
(僕と彼女で作った、工房と街を守るための――新しい“線引き”だ)
背後の執務室で、光輪通信の淡い脈動が続いていた。
まるで「明日、必ず決着をつけろ」と急かすように。




