切っ先の向こう側 1
翌朝、久世久良羅は布団の中で昨夜の会話を思い返した。
「久世さんがいいです」
あの顔で、あの声で。あんなふうに言うのは反則ではないだろうか。思い出しただけで口元が緩む。枕に頬を押し付けてから、ふと気づいた。
そういえば、連絡先を聞かれていない。自分からも聞かなかった。改札を過ぎて、振り返った時、彼はまだこちらを見ていた。それで十分な気がしていたのだ。
久良羅はスマートフォンを手に取った。
水城からの連絡はない。そもそも、送ってくる先を教えていないのだから、当たり前だった。
研究会には共通の連絡網がある。岩崎に尋ねることだってできる。彼がその気なら、方法はあるはずだ。
そこまで考えて、胸の中に小さな疑いが生まれた。
水城が欲しかったのは、あの服を着れる人だったのではないか。絵を見て、服を着て、動いた時の形まで話せる人。そういう意味なら、あの言葉にも無理なく説明がつく。
衣装を作る彼にしてみれば、便利な人材を確保したかっただけかもしれない。
「人材確保……」
声に出すと、急に気持ちが沈んだ。
昨日はあんなにおいしかった料理まで、それほどでもなかったような気がしてくる。
いや、それは店にも料理にも失礼だろう。おいしかったことに変わりはない。
仕事に出れば忘れると思った。だが、商品の値札を差し替えながらも、休憩時間にはスマートフォンを見た。二日目も見た。三日目には、確認する前から腹が立った。
何を待っているのだろう。自分から連絡すればいい。
そう思って連絡網を開き、文面を考え、何も書かずに閉じた。
あの時のお礼なら、その場で言った。衣装について質問するのは、質問を口実にしているようで嫌だった。口実にしたいのかと自分に尋ねると、もっと嫌になった。
「そもそも、庶民ごときが」
四日目の夜、久良羅はスマートフォンを机に伏せた。
「侯爵令嬢たる私の心をこうも乱すなど。不遜にもほどがありますわ」
部屋には返事をする者もいない。
「……私も庶民ですけれど。そこは一旦置きまして」
身分を持ち出さなければ平静を保てない時点で、だいぶ負けている。認めたくはなかった。
もう一度スマートフォンを取り上げ、研究会の活動案内を開く。次の衣装部の集まりまでは日がある。その前に、武術部門の練習があった。見学歓迎と書かれている。
スポーツに興じる人たちを見れば、少しは気が晴れるかもしれない。
見学希望の返信を送り、画面を閉じると、ようやく何か一つ片付いた気がした。
翌日、黒瀬という人から会場と持ち物の案内が届いた。会場はいつものレンタル倉庫のすぐ隣、プレハブの建物を改造したような貸しスペースだった。
持ち物は、動きやすい服装と室内用の靴。見学だけなら着替えは不要。末尾に、開始から終了までいる必要はないと添えてあった。
簡潔で分かりやすかった。
久良羅は礼の返信を打ち、送信してから、そのまま画面を眺めた。
用件があれば、こうして連絡が来るのだ。
考え始めそうになったので、立ち上がって靴を探した。運動用の靴など長らく履いていない。棚の奥から引き出すと、底を拭き、一度履いてみた。
「気分転換ですわ。ただの」
誰に説明しているのだろう。
鏡の前で髪をまとめてみた。首の後ろが涼しかった。もう少し高い位置で結び直した。この方が邪魔にならない。
その準備をしている間は、連絡を待っていることを忘れていた。
週末、武術部のプレハブの扉を開けると、靴底の擦れる音がした。
壁際にはプラスチックの剣が並んでいる。それを振っている人々は、黒っぽい防具を身に付けている。
フェンシングの防具に似ているが、さらにプラスチックの装甲を足したようなものだ。
樹脂の刃がぶつかる乾いた響きの後に、短い笑い声が響いた。
「久世さん」
振り向いた男性に見覚えがあった。宴席で選帝侯アルブレヒト・アヒレスを演じていた人だ。
アヒレスというのは、ギリシャ神話の英雄アキレウスのドイツ語読みだ。そんな名前を二つ名に持つだけあって、彼は武人として知られている。だから、この黒瀬が選ばれたのだろう。
あの時の豪華な衣装に代わって、今日は重たそうなフェンシングジャケットを着ている。短い黒髪の下で、目つきだけは変わらず鋭かった。
「武術部門の黒瀬です。見学の連絡、ありがとうございます」
「久世です。お邪魔いたします」
案内された壁際には、荷物を置くための椅子があった。黒瀬は練習場の境を示し、剣を振っている人の後ろを通らないよう説明した。
話している途中、近くの会員が手袋を気にしているのに気づくと、彼は言葉を切った。
「親指のところ、外れてる」
相手の手を取り、親指を覆う樹脂のパーツを留め直していた。済むとこちらへ戻り、説明を続けた。
よく周りを見ている人だと思った。
練習は久良羅の想像よりずっとにぎやかだった。
今は両手剣の練習をしているらしかったが、いろんな構えをする人がいた。高く掲げる人、切っ先を前に突き出す人。腰を深く落とす人も、スっとまっすぐ立つ人もいた。
構えだけではない。剣の振り方、受け方。基本の動きからして、何か違う流儀の人たちのように見えた。
久良羅は思わず身を乗り出した。
「ずいぶんいろんな流派の方がいらっしゃるんですね」
黒瀬は練習している人々を見た。唇が少し引き結ばれた。
「……まあ、そうですね」
声が沈んだ気がして、久良羅は彼の横顔を見上げた。




