仕立てられた距離 4
作業を終えた後、水城はレストランに電話をかけて予約を取り、久良羅と目白通りを歩き始めた。
目白駅にほど近い、小さな店だった。
深い赤色の扉が街灯に照らされ、看板には「ビストロ・リュバン」とある。
水城が扉を開け、久良羅が先に入るのを待った。
砂色の壁に、飴色の木のテーブル。窓際の席には、小さな酒瓶に花が一輪挿してあった。
上着を脱いで席に着くと、久良羅は布のナプキンを膝に広げた。細い縁の縫い目に、つい指が触れる。
「そこ、気になる?」
向かいで水城が笑っていた。
「すみません。縁がきれいに縫われていたので」
「僕も最初に見た」
店員がメニューを持ってきた。
水城は久良羅に苦手なものがないかを聞き、前菜を一皿取って二人で分け、主菜はそれぞれ選ぼうと提案した。
「お酒は飲める方?」
水城が尋ねた。
久良羅は酒には強かったので、うなずいた。
二人は白ワインを一杯ずつ頼んだ。
「じゃあ、乾杯しようか」
「何にいたしましょう」
「今日、試作が一歩進んだことに」
グラスを持ち上げる彼の指には、細かな傷があった。
久良羅もグラスを上げた。
「では、完成する日に、もう一度」
「うん」
水城は、その約束を確かめるようにうなずいた。
焼いた野菜とヤギのチーズの温かな前菜が運ばれてきた。
取り皿に分けると、葉の下から湯気が立った。
久良羅は一口食べて、目を細めた。野菜の甘みに、チーズの酸味が重なる。
「おいしいです」
「よかった」
水城も食べ始めた。
さっきまで衣装ばかり見ていた水城が、今は久良羅が話すたびに目を向けてくる。
「こういった衣装作りは、いつからなさっているんですか」
「祖母が仕立ての仕事をしていて、小さい頃からずっと布が身近にあったんだ」
初めは端切れをもらって遊んでいたという。やがて服そのものへ興味を持ち、大学で服飾を学んだ。
「卒業して舞台衣装の会社に入ったんだけど、昔の服も作りたくなって。それで研究会に入ったんです」
「お仕事でも、お休みの日にも服を作ってるんですか」
「そう言われると、他に何もしてないな」
「好きなことを続けられるのは、素敵です」
彼は答えず、パンを小さくちぎった。
前世の家にも職人が出入りした。けれど、どうしてその仕事を選んだのか、尋ねたことはなかった。
目の前の人のことは、もっと聞いてみたかった。
久良羅には白身魚、水城には鴨の料理が届いた。
魚は香ばしく焼かれ、その下には白ワインとバターのソースが敷かれている。
久良羅は魚を小さく切り分け、ソースを絡めた。
料理を運ぶ順番を心配しなくていい。
誰かの杯が空いていないか、部屋中を見回す必要もない。
自分の皿が温かいうちに食べられる。
それだけのことが、久良羅にはひどくぜいたくに思えた。
「今日、最初に作り方を聞いてくれたでしょ」
水城が言った。
「うれしかった」
久良羅はナイフを止めた。
「形が違うっていうのは、自分でも分かってたんだ。でも、何をしたかったのか聞いてもらえて、一緒に考え直せて、助かった」
一瞬、前世の光景が脳裏をよぎった。
あの職人に、同じことを言ってもらえる日はもう来ない。
謝った後、彼が何を思ったのかも知らないままだ。
それでも――。
「久世さんは、誰にああいう立ち居振る舞いを教わったの?」
久良羅は少し考えた。
「厳しい人たちでした。服だけではなくて、人の前に立つときのことを、いろいろ教わりました」
「なるほどね」
水城はそれ以上、尋ねなかった。
「でも、きついところは言ってください。久世さんはきれいに着てくれるから、あらが隠れてしまうから」
久良羅は彼を見た。
我慢して形を保つことなら、慣れていた。それをしなくてよいと言われると、少し困った。
「分かりました。気づいたことは、お伝えしますね」
水城はうなずき、また食事を始めた。
皿が下がると、デザートのメニューが運ばれてきた。
「まだ時間、大丈夫?」
久良羅は時計を確かめた。
「はい。タルトが気になります」
「僕もそれにしようかな」
もう少し、ここにいたかった。
温かいりんごのタルトが来る頃には、水城は祖母の裁縫箱の話をしていた。久良羅が笑うと、彼も笑った。
店を出た後、水城は駅まで送ってくれた。
「今度は、衣装の相談がなくても誘っていいかな」
改札の手前で、久良羅は彼を見上げた。
「私でよければ」
「久世さんがいいです」
静かに言われて、返事が遅れた。
頬が熱かった。
「あの……では、また」
ようやくそれだけ言うと、水城は微笑んだ。
改札を通って振り返ると、彼はまだこちらを見ていた。
帰り道。
夜の街の明かりが、優しく感じられた。
世界に祝福されているような気がして、久良羅は小さく鼻歌を歌った。
うっかりすると、ステップを踏んでしまいそうだ。
クララの感覚だと「淑女のたしなみ」が気になるところだが、構うものか。
こんな時くらい、浮かれてもいいではないか。




