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第8話 最初の帰還者

 監視映像の中で、少女は泣きながら笑っていた。


 白い防護服。


 膝の上に置かれた黒い仮面。


 幼い手が、眠っている少年の髪を撫でている。


 八歳の瀬名冬真。


 現在の冬真と同じ目元。


 同じ髪。


 けれど、その身体には無数の傷があった。


 左腕は肩から手首まで包帯に覆われ、首元には紫色の痣が残っている。裸足の裏は裂け、乾いた血で黒く汚れていた。


 少女も同じだった。


 防護服の袖口から覗く指は、三本しかない。


 映像に音声はない。


 それでも冬真には、少女が何と言ったのか分かった。


 ――この子が全部忘れたら。


 ――今度は、私がお兄ちゃんを守る。


 映像が途切れた。


 壁一面の記録端末が黒く染まる。


 部屋に残ったのは、機械の駆動音と、荒牧の荒い呼吸だけだった。


「妹がいたの」


 真白が尋ねた。


 冬真は画面から目を離さない。


「覚えていない」


「映像の子が、消失区にいた仮面の人?」


「おそらく」


「おそらくじゃない」


 榊が言った。


 顔は青ざめている。


「あれは《第一同伴者》だ」


「名前は」


「記録されていない」


「妹なのに?」


「帰還時には、名前を失っていた」


 冬真が榊を見る。


「名前を失うとは、どういう意味だ」


「文字通りだ」


 榊は壁際へ下がったまま答える。


「戸籍も、記録も、他人の記憶も残っていない。帰還者名簿にも氏名を記載できなかった」


「映像には残っている」


「姿だけだ」


「なら顔から調べられる」


「やった」


 榊の声は低かった。


「二十年間、何度もな」


 記録端末へ別の情報が表示される。


 照合対象なし。


 血縁情報なし。


 生体年代不明。


 存在座標、不安定。


「顔認証にも、遺伝子照合にも一致しない」


 榊が続ける。


「現在に存在する、どの人間とも繋がらなかった」


「冬真の妹なら、冬真とは一致するはずです」


 澪が言う。


「しなかった」


「血縁がない?」


「それどころじゃない」


 榊は少女の静止映像を指した。


「採取された細胞には、時間経過の痕跡がなかった」


 真白が眉を寄せる。


「子供なのに?」


「生まれてから何年経ったのか測定できなかった。細胞の一部は数時間前に形成されたように見え、別の一部は数百年劣化していた」


「人間じゃないと言いたいのか」


 久世が問う。


「分からない」


「さっきから、そればかりだな」


「分からないものを分かったふりするよりましだ」


 榊は吐き捨てるように言った。


「ただ一つ確かなのは、瀬名冬真が現在へ戻った直後、国内で最初の時象異常が観測されたことだけだ」


 冬真の右目が疼いた。


「俺が原因だと?」


「お前が帰還したから消失区が生まれた。監理室はそう判断した」


「判断しただけか」


「二十年間、ほかの仮説は成立しなかった」


 澪が記録端末を操作する。


「最初の時象異常の発生日を表示します」


 日付が浮かぶ。


 二〇〇六年七月二十四日。


 冬真が帰還した日と同じ。


 発生時刻。


 午前二時十三分。


「場所は」


 冬真が尋ねた。


 澪の指が止まる。


「この施設です」


 誰も言葉を発しなかった。


「この地下で、最初の消失区が発生したのか」


「違う」


 榊が即座に否定する。


「最初に発生したのは、消失区じゃない」


「では何だ」


「帰還区だ」


 冬真の胸元で、二十七年後の認識票が熱を持った。


「未来から人間を受け入れるため、一時的に現在を開く現象」


 榊は床へ散らばった認識票を見る。


「本来、帰還区は一方通行だった。切除された時間から、現在へ人間を戻すためだけの扉だ」


「消失区との違いは」


「帰還区は、人だけを通す」


「消失区は街ごと来る」


「ああ」


「なぜ変わった」


 榊の視線が冬真へ向く。


「お前が扉を閉じなかったからだ」


 冬真の頭の奥に、赤い光が走った。


 巨大な扉。


 何千人もの悲鳴。


 制御盤へ置かれた自分の手。


 ――閉じれば、この区画は助かる。


 誰かの声。


 ――でも、向こう側は全部消える。


 幼い少女が、冬真の服を掴んでいる。


 ――お兄ちゃん。


 映像が途切れる。


 冬真は額へ手を当てた。


「顔色が悪い」


 真白が隣へ立つ。


「見えた?」


「扉があった」


「どこに」


「分からない」


「ほかには?」


「俺が閉じなかったらしい」


 榊が首を振る。


「違う」


「何が」


「お前は一度、閉じた」


 冬真が顔を上げる。


「何を知っている」


「記録に残っている」


「見せろ」


「閲覧権限が――」


 冬真が認証板へ手を置いた。


『最上位管理者権限を確認』


 壁の端末が赤く光る。


『機密記録を開示します』


 榊が息を呑んだ。


「冬真、待て」


 久世が制する。


「何が出るか分からない」


「だから見る」


「精神汚染の可能性がある」


「もう遅い」


 画面に映像が現れる。


 二十年前。


 同じ収容室。


 八歳の冬真は寝台の上に横たわっている。


 その周囲には、白衣を着た職員が十人以上立っていた。


 現在の時象災害対策局とは異なる紋章。


 黒い円。


 その中心に、赤い針。


『帰還者一号、意識レベル低下』


『切除核の摘出を優先』


『同伴者が抵抗しています』


 映像の端。


 白い防護服の少女が、複数の職員に押さえつけられている。


 小さな身体。


 床へ押しつけられ。


 口元から血を流しながらも、冬真へ手を伸ばしていた。


『その個体は後回しだ』


『管理者が先だ』


『帰還者一号の胸部を開け』


 職員の一人が、八歳の冬真の防護服を切り裂く。


 幼い胸。


 その中央に。


 赤い数字が浮かんでいた。


 02:13。


 現在、未来の冬真の胸に埋め込まれていたものと同じ。


『切除核を確認』


『摘出を開始します』


 メスが皮膚へ触れる。


 眠っていた冬真の目が開いた。


 手術台の照明が一斉に割れる。


 映像が激しく乱れた。


 職員の一人が、見えない力で壁へ叩きつけられる。


 頭部が潰れ。


 白い壁に血と脳漿が広がった。


 二人目の首が、不自然な方向へ折れる。


 三人目は手術器具を握ったまま、自分の喉へ突き刺した。


『何が起きている!』


『帰還者一号ではない!』


『同伴者だ!』


 押さえつけられていた少女が、立ち上がる。


 職員たちの腕が、少女の身体から離れていた。


 正確には。


 肩から切断され、床へ落ちていた。


 少女の顔には、黒い仮面が装着されている。


『お兄ちゃんに触らないで』


 映像に音声が戻る。


 幼い声。


 消失区で冬真を呼んだ女と同じ声。


『全員殺す』


 黒い霧が収容室を満たした。


 職員たちの悲鳴。


 骨の砕ける音。


 肉を引き裂く湿った音。


 映像は数秒間、完全に見えなくなった。


 霧が晴れたとき。


 生きている職員は一人もいなかった。


 床には切断された手足が散らばり、壁には皮膚の剥がれた顔が張りついている。


 少女は血の海の中を歩き、冬真へ近づいた。


 仮面を外す。


 顔には返り血がついている。


『大丈夫』


 少女は震える手で冬真の頬へ触れた。


『今度は守れた』


 八歳の冬真は、少女を見た。


『……誰』


 少女の表情が止まる。


『誰なの』


 冬真は怯え、身体を後ろへ引いた。


『僕に触らないで』


 少女の手が宙に残る。


 泣きそうに歪んだ顔。


 それでも、少女は笑おうとした。


『そっか』


 声が震えていた。


『もう、忘れたんだ』


 そこで映像は終わった。


 ◇


「記憶を消したのは誰だ」


 冬真の声が、静かな部屋に響いた。


 榊は答えない。


「俺自身か」


「記録では」


「記録では?」


「帰還前から、記憶の大部分が失われていた」


 榊は視線を逸らした。


「現在側の処置ではない」


「なら、未来の俺が消した」


「その可能性が高い」


 真白が黒い画面を見る。


「妹さんのことまで?」


「冬真だけが忘れていた」


 澪が答える。


「少女は冬真を明確に兄と認識しています」


「妹は、何も忘れてなかった」


 真白の声に怒りが混じる。


「一人だけ、全部覚えたまま置いていかれた」


 冬真は答えなかった。


 胸の奥に痛みがあった。


 だが、それが妹を思い出した痛みなのか。


 映像を見たことで生まれた同情なのか。


 自分でも分からない。


 荒牧が壁へ背を預け、血の滲む肩を押さえた。


「その嬢ちゃんは、そのあとどうなった」


「逃走した」


 榊が言う。


「施設の職員、四十三名を殺害。地下区画の一部を消失させ、行方不明になった」


「二十年前から消失区にいるのか」


「断定はできない」


「ほかに行く場所があったとは思えねえけどな」


 荒牧の言葉に、誰も返さなかった。


 冬真は認証板から手を離す。


 その瞬間。


 壁の端末へ新たな表示が現れた。


『第一帰還者記録、更新』


「何をした」


 榊が前へ出る。


「何もしていない」


『同伴者情報を再照合します』


 少女の静止映像が拡大される。


 顔。


 目。


 血に濡れた頬。


 その輪郭へ、赤い線が重なる。


『現在座標を確認』


「現在?」


 真白が画面を見る。


 地図が表示される。


 東京都。


 杉並区。


 深町二丁目。


 最初に突入した消失区。


『第一同伴者は、帰還区内部に存在します』


 画面の時刻が変わる。


 三日後。


 午前二時十三分。


 冬真たちの帰還予定と、同じ。


『接触予定者』


 瀬名冬真。


 柊真白。


 荒牧岳。


 水城澪。


 久世玲司。


「やっぱり、俺たちは深町へ行くのか」


 荒牧が言う。


「行くんじゃない」


 榊の声が掠れた。


「地下二十三階から送られる」


「どう違う」


「深町の消失区は、未来から流れ着いた街じゃない」


 榊が少女の映像を見た。


「あそこは、最初の帰還区が移動したものだ」


「移動?」


「第一同伴者が抱えて逃げた」


「施設を?」


「施設に開いた扉を」


 真白が眉を寄せる。


「扉を持って逃げるなんてできるの?」


「人間にはできない」


 榊の目が冬真へ向く。


「だが、あの少女は帰還者ではない」


「では何だ」


「扉そのものだ」


 その言葉と同時に。


 地下十三階全体が揺れた。


 天井から灰が落ちる。


 廊下の奥で、閉じたはずの収容室が一斉に赤く光った。


『侵入を確認』


 機械音声。


『管理者権限の不正使用を検知』


 澪が端末を見る。


「上階から複数の生体反応が接近しています」


「監理室か」


 久世が散弾銃を構える。


「違います」


「何人だ」


「十八」


 澪の表情が僅かに曇る。


「全員、第六封鎖班の登録です」


「俺たちはここにいるぞ」


 荒牧が言った。


「現行登録ではありません」


「何年後だ」


「未来ではない」


 澪の端末へ、所属情報が表示される。


 第六封鎖班。


 登録年。


 二〇〇六年。


 二十年前。


 廊下の照明が消えた。


 赤い非常灯。


 昇降機の扉が開く。


 中から、一人の男が出てきた。


 古い形式の防護服。


 顔の下半分を金属製の呼吸器で覆っている。


 右手には、黒い片刃刀。


 冬真のものと同じ形。


 男の背後から、同じ装備の隊員たちが続く。


 全員の防護服には、血がこびりついていた。


 新しい血ではない。


 二十年間、一度も乾くことを許されなかったような黒い血。


「帰還者一号を確認」


 先頭の男が言った。


 呼吸器の奥で、複数の声が重なっている。


「切除核を回収する」


 久世が一歩前へ出る。


「所属と氏名を名乗れ」


「時象帰還実験部隊」


 男が黒い刀を持ち上げた。


「第六封鎖班、初代班長」


 刀の切っ先が冬真へ向く。


「瀬名冬真を殺害する」


 背後の隊員たちが、一斉に武器を構えた。


 冬真の右目が熱を持つ。


 一秒先。


 十八人が同時に発砲する。


 三秒先。


 荒牧の頭部が弾ける。


 真白の腹部が裂かれる。


 澪の首が飛ぶ。


 久世の胸へ黒い刀が突き刺さる。


 五秒先。


 冬真だけが生き残る。


 どの未来でも。


 冬真以外の四人が死ぬ。


「全員、俺の後ろへ」


 冬真が言った。


 久世が横へ並ぶ。


「命令を聞け」


「断る」


「死ぬぞ」


「班員を盾にして生き残る班長はいない」


「俺は班長じゃない」


 冬真の言葉に。


 久世は僅かに笑った。


「なら、今から覚えろ」


 荒牧が右手だけで拳銃を構える。


「盾はねえけど、肉壁くらいにはなる」


「ならないで」


 真白が隣へ立つ。


「撃つ前に倒せばいい」


 澪は端末を冬真の装備へ接続した。


「十八人の動作予測を共有します」


「処理できるか」


「冬真が十一人」


「残りは」


「私たちで七人」


 初代第六封鎖班が引き金へ指をかける。


 冬真は刀を抜いた。


 未来残響が広がる。


 弾道。


 床の崩壊。


 敵の足運び。


 仲間の呼吸。


 すべてが、一本の線として見えた。


「三秒で崩す」


 荒牧が笑う。


「さっきは十一秒だったな」


「数が少ない」


「十八人いるけど」


「問題ない」


 冬真は刀を下げた。


「こいつらは」


 初代班長の身体が僅かに沈む。


 次の瞬間に来る。


「俺の動きを知らない」


 銃声が響く。


 冬真の姿が、弾丸の間から消えた。


 一人目。


 銃口が上がる前に、手首を断つ。


 二人目。


 膝裏へ刃を入れ、倒れる身体を盾にする。


 三人目の弾丸が、倒れた隊員の背中へ食い込む。


「真白、右奥!」


「見えてる!」


 狙撃。


 四人目の頭部が呼吸器ごと弾け飛ぶ。


 血ではなく、黒い管が飛び散る。


「人間じゃない!」


「止まるな!」


 久世の散弾が五人目を壁へ叩きつける。


 荒牧が右腕だけで六人目の銃身を掴む。


 引き寄せる。


 額を叩き込み、呼吸器を陥没させた。


「盾がなくても、これくらいはできる!」


 七人目が澪へ刀を振るう。


 澪は動かない。


「右斜め前、一歩」


 冬真の指示と同時に踏み出す。


 刃が背後を通過する。


 澪は端末の接続線を敵の首へ巻きつけた。


 久世がその胸へ散弾を撃ち込む。


 黒い防護服が裂け。


 内部から、腐敗した骨が露出した。


「全員、死体か」


 真白が吐き捨てる。


「違う」


 榊が叫ぶ。


「帰還命令だけを残された時象残滓だ!」


 初代班長が冬真へ迫る。


 黒い刀が振り下ろされる。


 冬真は正面から受けた。


 刃同士がぶつかる。


 衝撃が床を走る。


「帰還者一号」


 呼吸器の奥から声が響く。


「お前が扉を開いた」


「らしいな」


「お前が我々を閉じ込めた」


「それも、これから確かめる」


「お前が世界を繰り返した」


 冬真の目が細くなる。


「それは否定しない」


 初代班長の刀を外へ流す。


 懐へ踏み込む。


「だから」


 肘を胸へ。


 金属板が陥没する。


「責任を取るために生きる」


 初代班長の頭部が冬真へ向く。


「生きる?」


 呼吸器の隙間から、黒い霧が漏れる。


「お前に許されると思うのか」


「許される必要はない」


 冬真は刀を反転させた。


「俺がやる」


 刃を胸へ突き込む。


 内部に核はない。


 何百本もの黒い線。


 すべてが廊下の奥へ伸びている。


 接続先。


 二百十三番の収容室。


「澪!」


「扉内部、左側端末!」


 真白が即座に銃口を向ける。


「撃つ!」


 弾丸が赤い端末へ命中する。


 火花が散る。


 初代第六封鎖班の動きが、一瞬止まった。


「荒牧!」


「まとめて倒す!」


 荒牧が敵の一人を掴む。


 片腕だけで持ち上げ。


 隣の二人へ叩きつけた。


 久世の散弾が三体をまとめて吹き飛ばす。


 冬真は初代班長の身体へ刀を深く押し込んだ。


 黒い線を巻き取り。


 引きずり出す。


 初代班長の背中から、束になった管が露出した。


「真白!」


「終わらせる!」


 一発。


 黒い管が弾ける。


 十八人の身体が、同時に崩れた。


 膝をつき。


 武器を落とし。


 呼吸器の奥から、長い息が漏れる。


 初代班長が冬真を見た。


「また」


 声が、僅かに人間へ戻っていた。


「同じことをするのか」


「何を」


「自分だけ、生き残る」


 冬真は答えなかった。


 初代班長の身体が灰になっていく。


「三日後」


 崩れた指が、冬真の胸を指す。


「お前は、切除を始める」


「止める」


「止められない」


「なぜ」


「もう始まっている」


 灰が床へ落ちる。


「二十年前から」


 最後に、呼吸器だけが残った。


 内側には。


 幼い文字で、一文が刻まれていた。


 ――二十三階に、お兄ちゃんを入れないで。


 冬真はそれを拾う。


 小さな指で削った跡。


 黒い仮面の少女が残した警告。


 その直後。


 澪の端末が鳴った。


「帰還予定時刻が更新されました」


「三日後ではないのか」


 久世が尋ねる。


 澪は画面を見たまま答えない。


「澪」


「帰還処理開始まで」


 声が、初めて明確に震えた。


「残り十三分です」


 地下十三階の壁が割れた。


 亀裂の向こうに。


 存在しない階段が現れる。


 下へ続く、十段。


 その最下部。


 扉に刻まれた数字は。


 二十三だった。


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