第5話 地下十三階
三日後。
午前二時十三分。
時象災害対策局本部の地下で、瀬名冬真たち五人の帰還処理が始まる。
その表示が観測卓に浮かんでから、検疫区画では誰もまともに口を開かなかった。
久世玲司。
柊真白。
荒牧岳。
水城澪。
瀬名冬真。
五人の名前は、消えることなく端末に残されている。
帰還予定者。
まるで、今ここにいる自分たちが、まだ帰ってきていないかのように。
「三日後の俺たちは、どこから帰ってくるんだ」
荒牧が低く言った。
先ほどまで戦闘に使っていた大型盾は壁へ立てかけられている。表面には異形の爪痕が深く刻まれ、中央は大きくへこんでいた。
「それを確かめる」
冬真は、観測卓に置かれた円形端末を見下ろした。
上段には変わらず、02:13。
下段には、三日後までの残り時間が秒単位で表示されている。
数字は止まらない。
榊宗一郎は、監理室の職員二人に両腕を押さえられていた。
拘束というより、逃亡防止に近い。
「地下十三階へ行く」
冬真が言う。
榊が即座に顔を上げた。
「許可できない」
「許可を求めていない」
「そこは監理室でも立ち入りを制限されている」
「帰還者名簿があると言ったのは、あなたでしょう」
「名簿だけじゃない」
榊の声が強張る。
「だからこそ、行かせられない」
「何がある」
「見れば、お前たちは戻れなくなる」
真白が小さく息を吐いた。
「さっきも似たようなこと言ってたね」
「脅しではない」
「なら、ちゃんと説明して」
「説明できない」
「じゃあ行くしかないでしょ」
榊が真白を睨む。
「若いから、怖さが分からないのか」
「怖いよ」
真白は笑わなかった。
「未来から来た人が、目の前で身体を内側から裂かれて怪物になった。二十七年後の冬真の認識票が出てきて、知らない人たちが私たちを仲間みたいに見てた」
立花誠の血は、まだ検疫区画の床に残っている。
黒い骨が生えた腕。
裂けた皮膚。
人間の声で助けを求めながら、身体だけが別の生き物へ変わっていった男。
「十分怖い」
真白は榊から目を逸らさなかった。
「それでも、何も知らないまま三日後を待つほうが嫌」
荒牧が盾を持ち上げる。
「俺も同じだ」
「地下十三階の封鎖は、外から開けられない」
榊が言った。
「専用の認証が必要だ」
久世が榊の胸元へ手を伸ばした。
監理室の認証票を引き抜く。
「これか」
「返せ」
「案内しろ」
「断る」
久世は榊の肩を掴み、引き寄せた。
声は静かだった。
「立花を撃たせようとした理由も、未来の第六封鎖班を消そうとした理由も、まだ聞いていない」
「……」
「だが今は問わない。三日後、俺の班員に何か起きる。それを知っていて黙るなら、お前を監察官として扱う必要もない」
榊の眉が動いた。
「脅しているのか」
「警告だ」
先ほど、榊が使った言葉だった。
久世は認証票を返さなかった。
「歩け」
◇
地下八階の最奥。
廃棄物処理区画のさらに奥に、図面には存在しない貨物用昇降機があった。
外壁は黒い金属で覆われ、扉の表面には取っ手も操作盤もない。
榊の認証票を近づける。
反応しない。
「専用認証が必要なんじゃなかったの?」
真白が尋ねる。
「俺の権限では入口までだ」
「じゃあ誰なら開けられる」
「室長級以上」
「連れてくる時間はない」
冬真が扉へ触れた。
冷たい。
だが、金属の奥から微かな振動が伝わってくる。
心臓の鼓動に似ていた。
「離れろ」
榊が言う。
「扉に触れるな」
「なぜ」
「登録される」
「何に」
答えはなかった。
代わりに。
冬真の掌の下で、黒い扉に赤い線が走った。
一本の線が二本へ。
二本が幾何学的な模様へ変わり、扉全体へ広がっていく。
『生体情報を照合します』
聞き覚えのある機械音声。
『対象、瀬名冬真』
榊が息を呑む。
『権限を確認』
「あり得ない」
『最上位管理者』
黒い扉が左右へ開いた。
内部には、古い昇降機が一基だけ残されていた。
壁も床も錆びている。
局本部より何十年も前に作られたような設備だった。
「最上位管理者って、何だ」
荒牧が榊を見る。
「俺が聞きたい」
榊の声から余裕が消えていた。
「この施設の管理者権限は、すべて失効しているはずだ」
「いつ失効した」
冬真が問う。
「二十年前」
「誰が持っていた」
榊は口を閉ざした。
「答えろ」
「記録には名前がない」
「名前がない?」
「管理者欄だけが削除されている」
冬真は昇降機の内部へ入った。
操作盤には、一から八までの数字しかない。
その下。
煤に覆われた金属板を指で拭う。
九。
十。
十一。
十二。
十三。
削り取られた数字が現れた。
冬真が十三へ触れる。
操作盤が赤く光った。
『帰還者収容区画へ移動します』
重い扉が閉じる。
昇降機が下降を始めた。
◇
地下九階。
照明が一度消えた。
地下十階。
昇降機の壁を、何かが外側から引っ掻いた。
鋭い爪が金属を削る音。
ゆっくりと、冬真たちの周囲を回っている。
「昇降路に何かいるぞ」
荒牧が盾を構えた。
澪が携帯端末へ目を落とす。
「反応はありません」
「音はしてる」
「音響センサーにも記録されていません」
真白が狙撃銃を短く持ち替える。
「じゃあ、私たちにしか聞こえてない?」
壁の向こうで、爪が止まった。
直後。
男の声がした。
「開けてくれ」
全員が黙る。
声は壁一枚を隔てたすぐ隣から聞こえた。
「頼む」
若い男。
「俺は人間だ」
冬真は刀の柄へ手を置く。
「名前は」
「……立花」
榊の顔が強張る。
「立花誠だ」
真白が冬真を見る。
立花は医療棟にいる。
今も治療を受けているはずだった。
「開けてくれ、隊長」
声が壁へ近づく。
金属板が内側へわずかに膨らんだ。
「置いていかないでくれ」
次の瞬間。
壁の隙間から、人間の指が入り込んだ。
爪が剥がれている。
皮膚は焼け、指の骨が露出していた。
一本。
二本。
隙間をこじ開けようと、血まみれの指が増えていく。
「開けろ!」
声が絶叫へ変わる。
「まだ中にいる! 全員いるんだ! お前が閉じたんだろ!」
昇降機の壁が大きくへこんだ。
真白が銃を向ける。
「撃つ?」
「待て」
冬真には見えていた。
三秒後。
真白が発砲する。
弾丸が金属板を貫く。
外にいる何かではなく。
壁の内部に埋め込まれた昇降機の制御線を断つ。
六秒後。
昇降機が落下する。
「銃を下げろ」
「でも」
「壁の奥に機械がある」
真白が銃口を下げる。
直後、外側から壁が激しく叩かれた。
冬真は刀を抜く。
壁を斬るのではない。
扉の上部。
赤く点滅する非常用固定具へ、切っ先を差し込む。
「荒牧、盾を天井へ」
「何が来る」
「上から落ちる」
荒牧は質問をやめ、盾を掲げた。
冬真が固定具を切断する。
昇降機の天井から、分厚い鉄板が落ちた。
荒牧の盾へ激突する。
「ぐっ……!」
補助駆動が悲鳴を上げる。
鉄板の上に。
人間の上半身が張りついていた。
腰から下はない。
腹部から伸びた黒い筋が、天井裏へ繋がっている。
焼け爛れた顔。
右腕のない身体。
立花誠と同じ姿。
だが、顔の半分は異様に膨らみ、口が耳元まで裂けていた。
「隊長」
異形の立花が笑った。
「見つけた」
黒い筋が天井から一斉に降る。
「散れ!」
久世の声。
真白が壁際へ。
澪を榊が引く。
冬真は荒牧の盾へ飛び乗った。
立花の上半身が口を開く。
喉の奥で、複数の人間の顔が蠢いていた。
「帰ろう」
声が重なる。
「帰ろう」
「帰ろう」
「帰ろう」
黒い筋が冬真の胸へ伸びる。
刀を振るう。
二本。
三本。
切断された筋から赤黒い液体が噴き出し、昇降機の壁へ飛び散った。
液体に触れた金属が、肉のように脈打ち始める。
「気持ち悪いことになってんぞ!」
荒牧が盾を振り上げる。
異形の立花を天井へ押し戻す。
「冬真、核は!」
「見えない」
「じゃあ全部撃つ!」
真白が三点射する。
銃弾が異形の肩と胸を抉る。
肉片の下にあるのは、赤い核ではなかった。
小さな認識票。
何十枚もの金属片が、骨の代わりに全身へ埋め込まれている。
すべてに同じ名前が刻まれていた。
立花誠。
「こいつ一人じゃない」
冬真が言う。
「何人も重なってる」
異形の腹部が裂けた。
内部から、別の立花の顔が現れる。
さらにその奥。
潰れた顔。
焼けた顔。
老いた顔。
少年の顔。
異なる年齢の立花誠が、肉の中で折り重なっていた。
「返して」
少年の立花が泣いた。
「俺の時間を返して」
異形の腕が荒牧の盾を掴む。
指が盾の縁へ食い込み、厚い金属を曲げ始める。
「荒牧、離せ!」
「盾ごと持ってかれる!」
「離せ!」
荒牧が固定具を解除する。
異形は盾を天井裏へ引きずり込んだ。
その瞬間、冬真は天井の穴へ飛び込んだ。
「冬真!」
暗い昇降路。
無数の黒い筋が、壁一面を埋めている。
その中心に、巨大な肉塊があった。
立花誠だけではない。
何十人もの身体が圧縮され、昇降機の外側へ貼りついている。
隊員。
職員。
子供。
老人。
誰もが認識票を首から下げていた。
下半身を失った者。
頭部が二つに割れた者。
胸を開かれ、空洞へ別の人間を詰め込まれた者。
全員が生きている。
眼球だけを動かし。
血の泡を吐き。
冬真を見ていた。
「隊長」
何十もの口が開く。
「帰還命令を」
冬真の頭へ、知らない記憶が流れ込む。
巨大な扉。
扉の向こうから響く悲鳴。
制御盤の前に立つ、大人の自分。
『収容限界を超えます』
『これ以上帰還させれば、現在側が崩壊します』
『扉を閉鎖してください』
冬真の手が、赤い操作盤へ伸びる。
向こう側では、部下たちが扉を叩いている。
立花が叫ぶ。
真白が血を流している。
荒牧が誰かを担いでいる。
久世は、こちら側に立っていた。
――閉じろ、冬真。
記憶の中の久世が言う。
――全員は救えない。
冬真の指が操作盤へ触れる。
扉が閉じる。
何百人もの悲鳴が、金属の向こうへ消えた。
「……俺がやったのか」
肉塊が震えた。
「そうだ」
すべての声が一つになる。
「お前が閉じた」
黒い筋が冬真の手足へ絡みつく。
刀を持つ右腕が引かれる。
足場が崩れる。
下には、暗い昇降路がどこまでも続いている。
「冬真!」
昇降機の穴から久世が手を伸ばす。
届かない。
肉塊が冬真を抱き込もうとする。
「今度は一緒に帰ろう」
胸部が開く。
内部には、人間一人分の空洞があった。
冬真を押し込むための形。
黒い腕が首へ回る。
皮膚が触れた瞬間、知らない死の記憶が流れ込んだ。
扉に挟まれて潰れた感覚。
酸素が尽き、仲間の首を絞めた記憶。
飢えに耐えられず、死体の指を噛みちぎった味。
欠落体へ変わりながら、自分の腹を裂いて核を取り出そうとした痛み。
何十人分もの死が、冬真の頭を内側から引き裂く。
鼻と耳から血が流れた。
「帰ろう」
肉塊が囁く。
「お前も、こっち側だ」
冬真の右目が赤く染まる。
刀を握る感覚が消えていく。
そのとき。
昇降機の中から、一発の銃声が響いた。
弾丸が冬真の頬を掠め、黒い腕の関節を砕く。
「勝手に連れていかないで!」
真白の声。
二発目。
冬真の足へ絡んでいた筋が千切れる。
「荒牧!」
「盾は取られた!」
「お前の腕は残ってる!」
「無茶言いやがる!」
荒牧が昇降機の縁から身を乗り出す。
久世が腰を支える。
荒牧の手が、冬真の左腕を掴んだ。
「捕まえた!」
肉塊が冬真を引く。
荒牧の腕から血管が浮かぶ。
肩の補助装備が限界を超え、火花を散らした。
「離せ!」
「誰に言ってる!」
「腕が抜けるぞ!」
「抜けたらあとでつけろ!」
真白が黒い筋を撃ち続ける。
久世は荒牧の身体を固定しながら叫んだ。
「冬真! 核を探せ!」
「ない!」
「なら、繋がりを断て!」
立花を救ったときと同じ。
身体と未来を結ぶ線。
だが、目の前の肉塊には無数の時間が絡みついている。
どれが本体か分からない。
冬真は血に濡れた右目を閉じた。
音が消える。
悲鳴。
銃声。
金属の軋み。
すべてが遠のく。
代わりに。
黒い肉塊から伸びる何百本もの線が見えた。
過去。
未来。
切り捨てられた時間。
そのすべてが。
冬真の胸元にある認識票へ繋がっている。
「俺か」
肉塊が笑う。
「お前だ」
「お前が扉だ」
冬真は認識票を左手で引きちぎった。
空中へ投げる。
肉塊のすべての目が、認識票を追った。
その一瞬。
冬真は刀を振るった。
傷だらけの長刀が重なる。
黒い刃が、認識票と肉塊を結ぶ線を断ち切った。
何十もの悲鳴が重なった。
肉塊の身体が内側から崩れる。
人間の腕。
眼球。
認識票。
腐った肉片。
それらが雨のように昇降路へ落ちていく。
冬真の身体も落下した。
「冬真!」
荒牧が腕を引く。
久世と真白も加わり、三人がかりで冬真を昇降機へ引き戻した。
直後。
昇降路の下から、巨大なものが落ちていく音が響いた。
何度も壁へぶつかり。
肉を潰し。
骨を砕き。
やがて、音は聞こえなくなった。
冬真は床へ仰向けに倒れた。
呼吸ができない。
視界が赤い。
真白が顔を覗き込む。
「目、見える?」
「見える」
「何本?」
指を二本立てている。
「三本」
「嘘つかないで」
「二本だ」
真白が息を吐いた。
荒牧は壊れた肩の補助装備を外している。
腕は震えていた。
「あと三秒遅かったら、俺の腕も持っていかれてたぞ」
「悪い」
「謝るくらいなら、次から掴みやすいとこにいろ」
「努力する」
「お前の努力は信用ならねえ」
昇降機が止まった。
『地下十三階です』
扉が開く。
冷たい空気。
薬品と腐敗臭が混じった匂い。
その先には、白い廊下が伸びていた。
壁も床も清潔だった。
先ほどの肉塊が存在していたことなど、最初からなかったように。
だが。
廊下の左右には、透明な扉が並んでいる。
扉の向こうにあるのは、小さな収容室。
一部屋に、一台の寝台。
そして。
寝台の上には、黒い袋が置かれていた。
「遺体袋か」
荒牧が呟く。
榊は昇降機から出ようとしなかった。
「戻れ」
「ここまで来て?」
真白が尋ねる。
「見るな」
榊の声が震えている。
「それは帰還者じゃない」
「じゃあ何だ」
「帰還できなかったものだ」
澪が最初の扉へ近づく。
室外の端末を操作する。
「保管番号、一」
表示された情報を読み上げる。
「氏名、記録なし。帰還予定日、二〇二六年七月二十四日」
三日後。
冬真たちと同じ日。
「袋を開けるな」
榊が叫ぶ。
澪は手を止めなかった。
透明扉を解除する。
真白が寝台へ近づき、遺体袋のファスナーを掴む。
一度、冬真を見る。
冬真は頷いた。
真白がゆっくりと開く。
腐敗臭が噴き出した。
中に入っていたのは、人間だった。
全身の皮膚が剥がされている。
鼻も唇もない。
両目は刳り抜かれ、黒い糸で瞼を縫い閉じられていた。
胸部は縦に切り開かれ。
肋骨の内側に、何枚もの認識票が詰め込まれている。
「ひどい……」
真白が口元を押さえる。
遺体の右手が動いた。
真白の手首を掴む。
「っ!」
冬真が刀を抜く。
だが遺体は襲わなかった。
皮膚のない指が震えながら、真白の腕を引く。
縫い閉じられた口の奥から、空気が漏れた。
「……ひ……ら……く……」
真白が凍りつく。
「生きてる」
「離れろ!」
榊が叫ぶ。
遺体の腹部が膨らむ。
裂けた胸の中で、認識票が一斉に震え始めた。
冬真は真白の手首を掴む指を、刀の柄で打ち払う。
真白を後方へ引いた。
遺体が寝台の上で反り返る。
肋骨が内側から押し広げられる。
骨が折れる音。
胸の中から。
もう一人の人間が這い出してきた。
小さな身体。
長い髪。
十代ほどの少女。
全身を血と透明な膜に覆われている。
少女は床へ落ちた。
へその緒のような黒い管が、遺体の胸部と繋がっている。
「何だよ、これ」
荒牧の声が掠れる。
少女が顔を上げた。
真白と同じ顔だった。
髪の長さも。
目の色も。
左の眉の小さな傷まで。
「……私?」
真白が呟く。
少女は真白を見た。
次に冬真を見る。
血まみれの口が開く。
「遅い」
声も、真白と同じだった。
「三日後のあなたたちは、もう全員死んでる」
廊下の奥で。
二百十三個の収容室が、一斉に解錠された。




