第4話 帰還処理
黒い亀裂の向こうに、数百人の人間が立っていた。
崩れた高層建築。
灰色に濁った空。
地面を埋める黒い水。
そのすべてを背負うように、同じ紋章を胸につけた隊員たちが整列している。
第六封鎖班。
瀬名冬真が所属している班と、同じ名。
だが装備は統一されていなかった。
冬真たちと同型の防護服を着た者もいれば、見たことのない重装甲を纏う者もいる。全身に包帯を巻いた者。片腕を金属の義肢へ置き換えた者。十代ほどの少年。白髪の老人。
一つの部隊には見えない。
異なる時代の人間を、同じ場所へ集めたような光景だった。
『第六封鎖班、帰還を確認』
施設内のスピーカーから、女の声が繰り返される。
『照合を開始します』
黒い亀裂から、赤い光が伸びた。
一本。
二本。
何百もの細い線が、整列する隊員たちの胸元へ触れていく。
『第一帰還者、一致』
『第二帰還者、一致』
『第三帰還者、一致』
番号が増えていく。
黒い仮面の女は動かない。
ただ亀裂のこちら側に立つ冬真を見ている。
「封鎖しろ」
榊宗一郎が掠れた声で言った。
「今すぐ位相隔壁を最大出力で展開しろ!」
監理室の職員が操作盤へ走る。
久世がその腕を掴んだ。
「待て」
「離せ!」
「向こうにいるのは人間だ」
「あれを人間だと思うな!」
榊が怒鳴る。
「あれは切除残響だ! 存在を許せば、こちらの時間まで汚染される!」
「立花も同じ呼び方をしていたのか」
久世の一言で、榊が黙った。
医療棟へ運ばれた立花誠。
二十七年後の第六封鎖班員。
欠落体へ変わりかけながらも、冬真たちの声に応えた男。
少なくとも、意思はあった。
『第四十七帰還者、一致』
『第四十八帰還者、一致』
機械音声は止まらない。
冬真は亀裂を見つめた。
整列している者たちの中に、知っている顔がある。
立花ではない。
名も知らない。
それでも、見覚えがあった。
血に濡れた駅。
崩れる橋。
燃え尽きた病院。
冬真の中に存在する、経験した覚えのない記憶。
そこに彼らはいた。
冬真の命令を待ち。
冬真の背後で戦い。
そして、次々に死んでいった。
「見るな」
久世が低く言った。
「何を」
「向こうの顔を一人ずつ確認するな」
冬真は久世を見る。
「見れば、また思い出す」
「どうしてそれを知っている」
「今は――」
「今は話せない、か」
久世の答えは、いつも同じだった。
冬真は亀裂へ視線を戻す。
「なら、自分で確かめる」
一歩、前へ出た。
久世が冬真の肩を掴む。
「行くな」
「向こうへ入るつもりはない」
「同じだ。近づくな」
「なぜ」
久世の指に力が入った。
「お前が近づけば、扉が開く」
『第九十九帰還者、一致』
黒い仮面の女が、初めて動いた。
整列する隊員たちの間を抜け、亀裂の直前まで歩いてくる。
彼女の白い防護服には、無数の黒い染みが付着していた。
血ではない。
焼けた跡にも見える。
左肩には、第六封鎖班の紋章。
その下に、掠れた文字が縫いつけられている。
副班長。
冬真の頭の奥が疼いた。
白い廊下。
幼い少女。
差し出された手。
――また置いていくの?
像は一瞬で消えた。
「お前は誰だ」
冬真が問う。
仮面の女は、亀裂を挟んだまま答えた。
「その質問をされるのは、四度目」
若い声だった。
消失区で聞いたものより、はっきりしている。
「以前にも会ったのか」
「会った」
「どこで」
「最初の東京で」
榊が操作盤へ手を伸ばす。
「聞くな!」
荒牧が盾を滑らせ、榊と操作盤の間を塞いだ。
「ちょっと黙ってろ。話が聞こえねえ」
「お前たちは自分が何をしているか分かっていない!」
「分かってねえから聞いてんだろうが」
真白は亀裂へ狙撃銃を向けていた。
照準は仮面の女ではない。
その後方。
整列する隊員たちの間に、何かが動いている。
「冬真」
「見えている」
隊員たちの足元。
黒い水の中で、無数の影が蠢いていた。
人ではない。
細長い四肢。
骨が剥き出しになった背中。
消失区で遭遇した欠落体よりも、さらに形が崩れている。
仮面の女が振り返る。
「伏せて!」
彼女が叫んだ。
黒い水が爆ぜた。
数十体の異形が、整列する隊員たちへ襲いかかる。
銃声が一斉に鳴った。
未来側の第六封鎖班が動く。
前列の盾兵が壁を作る。
その隙間から銃口が突き出され、異形の頭部と関節を正確に撃ち抜く。後列の隊員たちは負傷者を引きずりながら、亀裂へ向かって後退を始めた。
その動きに迷いはない。
繰り返し、何度も同じ撤退戦を経験してきた者たちの連携だった。
『帰還照合を中断』
機械音声が途切れる。
『未登録個体の侵入を確認』
異形の一体が隊員の盾を飛び越えた。
亀裂へ飛び込む。
黒い身体が境界面を通過した瞬間、全身が大きく歪んだ。
骨が伸びる。
肉が膨張する。
検疫区画へ着地したときには、三メートルを超える異形へ変貌していた。
「散開!」
久世の指示。
監理室の職員たちが左右へ逃げる。
異形の腕が振るわれた。
逃げ遅れた職員へ、黒い爪が迫る。
冬真は床を蹴った。
職員の襟を掴み、後方へ投げる。
直後、爪が床を裂いた。
冬真は刀を抜き、異形の腕を斬り上げる。
硬い。
刃が骨の途中で止まった。
「核は胸じゃない!」
亀裂の向こうから、仮面の女が叫ぶ。
「右の脇腹!」
冬真は刀を引き抜く。
異形の左腕が横から迫る。
身を沈めてかわす。
冬真の背後で銃声が鳴った。
真白の弾丸が、異形の右膝を砕く。
巨体が傾いた。
「荒牧!」
「もう行ってる!」
大型盾が異形の顔面へ叩き込まれる。
荒牧は押し返すのではなく、重心を崩した巨体を真横へ転がした。
異形の右脇腹が上を向く。
「今!」
冬真が踏み込んだ。
刃を突き立てる。
肉の奥で、赤い核へ触れた。
だが、砕けない。
刀を通して、激しい振動が腕へ伝わる。
「二重核だ!」
冬真自身の口から、知らない言葉が出た。
「真白、腰骨の裏!」
「見えない!」
「俺が開ける!」
刀を横へ引く。
右脇腹の肉を切り開き、露出した核を蹴り上げる。
赤い球体が、黒い筋によって体内と繋がっていた。
異形が絶叫する。
四本の腕が冬真へ伸びる。
「班長、左二本!」
「任せろ!」
久世の散弾が腕の付け根へ叩き込まれる。
「荒牧、三歩下がって右へ押せ!」
「おう!」
「真白、俺の肩越しに撃て!」
「その姿勢で?」
「撃てる」
指示が次々に口から出た。
考えるより早く。
久世も荒牧も真白も、疑問を挟まず動いていた。
荒牧の盾が異形を右へ押す。
巨体が半回転する。
腰骨の裏側。
皮膚の下に、もう一つの核が透けた。
冬真は片膝をつき、身体を低くする。
直後、耳元を銃弾が通過した。
真白の弾丸が、二つ目の核を正確に撃ち抜く。
冬真は露出した一つ目へ刀を振り下ろした。
二つの赤い光が同時に消える。
異形が灰へ崩れた。
静かになった検疫区画で、冬真は刀を構えたまま立っていた。
久世が冬真を見ている。
真白も。
荒牧も。
「何だ」
冬真が問う。
荒牧が盾を下ろした。
「いや」
「今の指示」
真白が続ける。
「班長みたいだったから」
冬真は久世を見る。
久世の顔は、ひどく強張っていた。
「違う」
久世が言う。
「俺の指揮じゃない」
再び亀裂が揺れた。
未来側では、異形の群れが第六封鎖班の隊列を食い破り始めている。
一人が腕を失う。
別の一人が黒い水へ引きずり込まれる。
それでも彼らは退かなかった。
亀裂の向こうから、何人もの声が上がる。
「隊長を守れ!」
「帰還線を維持しろ!」
「残り三十秒!」
誰が隊長なのか。
未来側の隊員たちは全員、冬真を見ていた。
『帰還処理を再開します』
赤い光が、再び隊員たちを照合する。
『第一百八十九帰還者、一致』
『第一百九十帰還者、一致』
黒い亀裂が大きく開いた。
検疫区画の空気が、向こう側へ吸い込まれ始める。
床に散らばった薬莢が滑っていく。
監理室の職員たちが壁へしがみつく。
「冬真!」
真白が腕を伸ばす。
冬真の身体が、亀裂へ引かれた。
胸元の認識票が赤く発光している。
『第二百十二帰還者、一致』
最後の赤い線が、冬真へ伸びる。
『最終帰還者を確認』
冬真の足が床から離れた。
久世が腰へ腕を回し、引き止める。
「荒牧!」
「掴んでる!」
荒牧が久世の装備を掴む。
真白も荒牧のベルトへ手をかけた。
三人がかりでも、吸引は止まらない。
『第二百十三帰還者』
機械音声が告げる。
『班長、瀬名冬真』
認識票から伸びた赤い光が、冬真の胸へ触れた。
視界が塗り替わる。
燃える東京。
膝をつく何千人もの人間。
巨大な装置の中央に立つ自分。
大人の冬真は、右手で長い刀を握り、左手を赤い制御盤へ置いている。
隣には黒い仮面を外した女がいた。
顔は見えない。
涙だけが落ちている。
――本当にやるの?
――ほかに方法がない。
――また全員を捨てるの?
――次では救う。
――その言葉、何度目?
記憶の中の冬真が、制御盤を押した。
二百十二本の赤い光が消える。
世界が黒く塗り潰される。
「違う」
現在の冬真は呟いた。
何が違うのかは分からない。
それでも。
この光に引かれてはいけない。
向こうへ戻れば、今の第六封鎖班はどうなる。
真白。
荒牧。
久世。
助けた綾子と奈々。
立花。
現在に残されたすべてを、また置き去りにする。
「冬真!」
久世の腕が軋む。
「刀を抜け!」
「届かない!」
「お前なら届かせられる!」
冬真は右手を伸ばした。
鞘から刀を引き抜く。
黒い刃へ、傷だらけの長刀が重なった。
赤い光は一本ではない。
認識票。
冬真の胸。
亀裂の向こうにいる二百十二人。
すべてが細い線で繋がっている。
これを断てば。
向こう側の隊員たちは、帰還できなくなる。
冬真の手が止まった。
仮面の女が、その迷いを見抜く。
「切って」
「向こうの全員が残される」
「今はまだ、帰れない」
「なら、どうして扉を開いた」
「あなたを連れ戻すためじゃない」
仮面の女は異形を斬り伏せながら叫んだ。
「次の座標を渡すため!」
彼女が手を伸ばす。
黒い仮面の額が割れ、小さな金属片が飛び出した。
亀裂を越え、冬真の足元へ転がる。
円形の端末。
表面に、二つの数字が刻まれている。
02:13。
その下に。
00:00。
「切って!」
女の声が震える。
「また会える」
「いつだ」
「あなたが、最初の消失区へ辿り着いたとき」
冬真は刀を握り直した。
「名前を教えろ」
仮面の女は、一瞬だけ黙った。
異形の爪が背後から迫る。
彼女は振り返らず、短い刃でその腕を受け止めた。
「忘れたのは、あなた」
黒い仮面が、冬真へ向く。
「私は、ずっと覚えてる」
冬真は赤い線へ刃を振るった。
一本。
認識票と亀裂を結ぶ光が断たれる。
吸引が消えた。
冬真の身体を、久世たちが床へ引き戻す。
亀裂が急速に閉じていく。
未来側の第六封鎖班が、一斉に姿勢を正した。
異形に襲われ。
血を流し。
欠けた身体で。
それでも全員が冬真へ向かって敬礼する。
「第六封鎖班!」
誰かが叫んだ。
「一時撤退!」
数百人の声が重なる。
「了解!」
最後に、仮面の女が冬真を見た。
「次は」
亀裂が細くなる。
「私を置いていかないで」
黒い線が閉じた。
壁が元へ戻る。
施設内の時計が、午前三時二十三分へ戻った。
何もなかったように秒針が動き始める。
検疫区画に残されたのは。
戦闘の痕跡。
灰。
血。
そして、床に転がる円形の端末だけだった。
◇
監理室の職員たちは、全員拘束された。
正確には、榊が彼らへ待機を命じた。
先ほどまで強硬に認識票を回収しようとしていた男は、壁際に座り込んでいる。
冬真は医療処置を拒み、円形端末を観測卓へ置いた。
澪が複数の機器を接続する。
端末には操作部がない。
内部構造も読み取れない。
ただ、表面の数字だけが表示されている。
02:13。
00:00。
「時刻ではありません」
澪が言った。
「下段の数字は、経過時間を示している可能性があります」
「何が始まるまでの?」
真白が尋ねる。
「分かりません」
澪の指が止まる。
「ただし、この端末から局本部内の設備へ信号が送られています」
久世が顔を上げる。
「どこへ」
「地下です」
「ここも地下だぞ」
「この区画より、さらに下です」
澪が局内図を表示する。
時象災害対策局は地下八階まで存在している。
少なくとも、第六封鎖班へ公開されている図面では。
端末から発せられた信号は、地下八階を通過していた。
その先。
地図上には存在しない空白へ伸びている。
「深度は」
冬真が問う。
「地下十三階相当」
榊が立ち上がった。
「その端末を止めろ」
澪が振り返る。
「停止機構は確認できません」
「壊せ」
「待て」
冬真が榊を見る。
「地下十三階に何がある」
「何もない」
「なら、なぜそこへ信号が届く」
榊は唇を噛んだ。
荒牧が腕を組む。
「もう隠し通せる空気じゃねえだろ」
「話せば、全員が監理対象になる」
真白が周囲を見る。
「今さらじゃない?」
榊は冬真の手にある認識票を見た。
そして、諦めたように息を吐いた。
「局本部が建設される以前」
静かな声だった。
「この場所では、別の施設が稼働していた」
「何の施設だ」
「帰還者の収容施設だ」
冬真の目が細くなる。
「消失区が発生する前から?」
「ああ」
「矛盾している」
「だから封鎖された」
榊は観測卓へ近づく。
「地下十三階には、一冊の名簿が保管されている」
「名簿?」
「帰還者名簿」
榊の指が、円形端末の下段表示を指す。
00:00。
「そこには、未来から帰還する予定の人間が、あらかじめ記載されていた」
検疫区画が静まり返る。
「何人だ」
久世が問う。
榊は冬真から目を逸らさなかった。
「二百十三人」
澪の端末が短い音を発する。
円形端末の下段表示が変わった。
00:00。
00:01。
数字が動き始める。
「これは経過時間じゃない」
澪が言った。
「逆算表示です」
「何までの」
画面へ新しい文字列が浮かんだ。
帰還座標固定。
対象登録開始。
その下に。
氏名が、一つずつ表示されていく。
久世玲司。
柊真白。
荒牧岳。
水城澪。
そして。
瀬名冬真。
冬真たち五人の名前の横には、同じ時刻が記されていた。
午前二時十三分。
日付は。
三日後だった。




