第28話 五分だけの停戦
「五分だけ」
瀬名冬真は、欠けた刀を中央制御線へ当てた。
「黙って見てろ」
深町の地下母床。
その壁面へ、都庁地下の作戦司令室が重なっている。
こちらは午後二時二十一分。
向こうは午前十一時十三分。
二つの時刻。
二つの東京が。
冬真の手繰った細い糸だけで繋がっていた。
「瀬名冬真を排除しろ!」
統合部隊が一斉に銃を構える。
銃口は壁の向こう。
本来なら数十キロ離れた深町へ向けられている。
冬真の左目には。
兵士たちの指。
柴崎塔子。
斎賀陸将補。
十二の消失区へ向けられた切除装置。
すべてが同時に見えていた。
未来ではない。
今、存在しているものだけ。
「発砲待て!」
柴崎が命じる。
「執行官!」
「中央制御線へ当たれば、切除装置が暴走する!」
斎賀が大型画面を見る。
切除開始まで。
十二分四十七秒。
「暴走する前に撃て」
「まだ深町の結果を確認していません」
「だから前倒しした」
柴崎が斎賀を見る。
「あなたが?」
「東京の存続を、十九歳の判断へ預けるつもりはない」
「正午まで保留する命令は、統合本部全体の決定です」
「状況が変わった」
十二の消失区。
侵食範囲が急速に拡大している。
海底都市の海水が湾岸部へ流出。
緑葬圏の根が新宿から四谷へ到達。
帰還連合艦隊の一隻が、再び砲身を現在側へ向けている。
「十分後には」
斎賀が言う。
「追加で十万人が死ぬ」
「だから五分待て」
壁の向こう。
冬真の声が司令室へ届く。
「二時二十六分まで進める」
「確証は」
柴崎が尋ねる。
「ない」
「成功率は」
「分からない」
斎賀が鼻で笑う。
「話にならない」
「お前たちの同時切除は」
冬真が中央画面を見る。
「失敗すれば東京全体が上書きされる」
「成功すれば十二の災害を除去できる」
「中にいる人間ごとな」
「必要な損失だ」
冬真の刀が。
中央制御線の被覆へ僅かに食い込む。
火花。
切除開始までの表示が揺れた。
「撃て」
斎賀が命じた。
統合部隊の指が引き金へかかる。
だが。
銃声は鳴らなかった。
「発砲結果を封鎖した」
司令室の後方。
一人の男が立っていた。
黒い統合部隊装備。
四十歳前後。
右側の頭髪が白い。
左手には、細い金属線が何重にも巻かれている。
「南雲」
柴崎が男を見る。
「命令していない」
「斎賀陸将補から、執行権限を受領しています」
南雲朔。
統合本部所属。
第一種時象適応者。
彼が左手の金属線を一本引いた。
兵士たちの銃口から。
薄い光が消える。
発砲できないのではない。
発砲したという結果そのものが、許可されていなかった。
「《結果封鎖》」
澪が端末越しに男を観測する。
「切除歴六十二号《無事故区》の生還者です」
「どんな世界?」
真白が、母床の時計を押しながら尋ねる。
「登録された結果以外が発生しない世界です」
「つまり?」
「南雲朔が一つの結果を指定した場合、六秒間、それ以外の結果が成立しません」
久世の顔が険しくなる。
「冬真が制御線を切る結果も消せるのか」
「可能です」
「代償は」
澪が南雲の左手を見る。
巻かれた金属線。
一本ずつに。
日付と人名が刻まれている。
「封鎖するたび、自分が選ばなかった人生を一つ失います」
「選ばなかった人生?」
「結婚していた可能性。別の職に就いた可能性。生き残った家族と再会した可能性」
南雲が。
二本目の金属線を引いた。
「瀬名冬真が、中央制御線を切断する結果を封鎖」
刀を持つ冬真の右腕が止まった。
力は入る。
刃も触れている。
それでも。
切断という結果へ到達できない。
何度動かしても。
刃が制御線の表面を滑る。
「厄介だね」
真白が言う。
「ああ」
「敵が強いのはいいけど、今じゃなくない?」
「本人に言え」
南雲には聞こえていた。
「私も同感だ」
穏やかな声だった。
「だが、災害は都合を聞かない」
◇
原都市の時計。
二時二十一分。
長針は。
数ミリ動くたびに押し戻される。
十二の消失区へ向けた政府の切除線が、九百万人の帰宅記録を消している。
「中央線接続、消失!」
澪が叫ぶ。
「帰宅済み個体、四十二万人が母床へ再流入!」
時計の下。
家へ帰ったはずの人々が。
再び歩き始める。
自宅の玄関から。
駅から。
病室から。
母床へ。
「戻ってくる!」
護衛隊員たちが通路へ盾を並べる。
「撃つな!」
久世が叫ぶ。
「押し返せ!」
群衆の先頭。
娘の誕生日へ帰った男がいた。
手には。
潰れたケーキ。
「帰らないと」
顔には。
自分がどこへ戻ろうとしているのか理解できない恐怖。
「真希が待ってる」
「もう帰った」
冬真が言う。
「嘘だ」
「お前は帰った」
「ここが家だ」
「違う」
「ここしかない!」
男の鞄から白い腕が伸びる。
冬真の右脚へ絡みついた。
切れば。
男の記録まで傷つく。
冬真は刀を使わず。
腕を左肩で受けた。
存在しないはずの左腕。
切断面へ白い指が食い込む。
肉を掴まれ。
傷口が開く。
「冬真!」
真白が撃とうとする。
「待て」
冬真は男を見る。
「真希は何歳だ」
「九歳」
「好きなものは」
「苺」
「ケーキは」
男が持つ箱を見る。
白いクリーム。
赤い果実。
「買った」
「……ああ」
「なら帰っている」
「でも」
「もう一度、名前を呼べ」
男の唇が震える。
「真希」
白い腕が。
冬真の左肩から離れる。
男の背後。
黄色い電車の扉が開いた。
「真希」
男が乗る。
扉が閉じる。
一人。
再び帰宅記録へ戻る。
しかし。
その後ろには。
何十万人もの人々がいた。
「一人ずつは無理!」
真白が言う。
「分かっている」
「何かある?」
「作る」
「今から?」
「ああ」
「本当に余裕ないね」
「だから急げ」
「私に何を?」
「声を貸せ」
冬真は。
真白の手首を掴んだ。
「名前を呼べ」
「誰の」
「帰った人間全員」
「四百万人以上いるけど」
「記録は澪が持っている」
「私の喉が先に終わる」
「放送を使う」
「最初からそう言って」
澪が原都市全域の放送設備へ接続する。
「個人名、四百八十一万件」
「一件ずつ読み上げる時間はありません」
「名前じゃない」
冬真は。
帰宅した人間たちが最後に聞いた声を探す。
駅員。
家族。
店員。
隣人。
誰かの「おかえり」。
真白が。
何度も冬真を現在へ戻した言葉。
「全員へ」
冬真が言う。
「帰ったと伝えろ」
真白は。
校内放送のマイクを握る。
少しだけ考え。
口を開いた。
『おかえりなさい』
原都市全体へ。
一人の少女の声が流れた。
派手でも。
力強くもない。
どこにでもある言葉。
だが。
冬真が手繰った数百万の帰宅記録が。
その声へ重なる。
母親。
父親。
妻。
夫。
子供。
恋人。
店主。
隣人。
もう存在しない人々の声。
『おかえり』
『遅かったね』
『手を洗って』
『ご飯できてるよ』
『無事だった?』
母床へ戻りかけていた人々が。
一斉に足を止めた。
男が。
女が。
子供が。
背後を振り返る。
そこに家はない。
家族もいない。
それでも。
帰ったという記録だけが。
胸の中へ残る。
「ただいま」
一人が言った。
次。
百。
千。
数百万人の声が。
原都市へ広がる。
「ただいま」
時計の針が動いた。
二時二十二分。
◇
「原都市の固定率が上昇!」
都庁の司令室でも。
澪の送った観測値が表示される。
「時刻進行を確認」
柴崎が画面を見る。
二時二十二分。
二十六分まで。
残り四分。
「斎賀陸将補」
柴崎が言う。
「切除作戦を停止してください」
「一時的な変動にすぎない」
「成功の可能性が確認されました」
「五分待って失敗すれば、十二区域の侵食が限界を超える」
「それでも」
「国家は賭けをしない」
斎賀が操作卓へ手を伸ばす。
南雲が前へ出た。
「切除開始を確定します」
左手の金属線。
三本目。
引き抜く。
遠く。
彼の記憶の中から。
一人の女が消えた。
大学時代。
一緒に暮らそうと約束した可能性。
実際には選ばなかった未来。
名前も。
顔も。
最初から存在しなかったことになる。
南雲の表情は変わらない。
「十二基の切除装置が、午前十一時二十六分に作動する結果を指定」
中央画面。
残り時間が。
十二分から。
五分へ変わった。
「南雲!」
柴崎が叫ぶ。
「命令です」
「誰の」
「斎賀陸将補」
「統合本部の執行権限は私にあります」
「非常時の軍事優先条項が適用されました」
斎賀が柴崎の端末を無効化する。
「柴崎塔子執行官を拘束しろ」
統合部隊員が動く。
だが。
柴崎の周囲を守る隊員もいた。
銃口が。
同じ制服同士へ向く。
「現在側まで内輪揉め?」
真白の声が壁越しに聞こえる。
「悪かったな」
柴崎が初めて。
感情を露わにした声で答えた。
「そっちよりは、まだましだと思っていた」
「どっちも酷いよ」
「同意する」
斎賀が冬真を見る。
「瀬名冬真」
「何だ」
「お前一人が消えれば、切除作戦を二分遅らせる」
司令室が静まる。
「取引か」
「管理者接続を解除できれば、十二区域への必要出力が下がる」
「成功率は」
「四十七パーセント」
「半分以下だな」
「お前が望む五分のうち、二分を買える」
冬真は。
原都市の時計を見る。
二時二十二分。
残り四分。
政府の切除。
残り五分。
冬真が死ねば。
二分増える。
原記録の冬真が。
何度も選んだ方法。
一人を切り。
少しだけ可能性を上げる。
「冬真」
真白が。
何を考えているのか理解した声で呼ぶ。
「返事しないで」
「まだ何も言っていない」
「考えた」
「ああ」
「駄目」
「二分は大きい」
「さっきまで数の話するなって言ってたでしょ」
「俺一人だ」
「一人ならいいの?」
真白は。
真っ直ぐ冬真を見る。
「自分だけ、数から外さないで」
冬真は答えない。
斎賀が言う。
「残り四分五十秒」
「冬真」
久世が時計を押さえながら呼ぶ。
「班長命令だ」
「俺は班長じゃない」
「なら上官命令だ」
久世の腕には。
巨大時計から伸びた針が刺さっている。
肉を貫き。
骨へ食い込んでいる。
それでも。
時計の長針から手を離さない。
「生きたまま進めろ」
「失敗すれば」
「そのときは俺が決める」
「何を」
「誰を殴るかだ」
冬真は。
ほんの僅かに息を吐いた。
「了解」
斎賀の顔が険しくなる。
「拒否か」
「五分で足りる」
「根拠は」
「今作る」
◇
南雲朔が。
四本目の金属線へ手をかけた。
「瀬名冬真が、切除開始まで中央制御へ干渉しない結果を――」
柴崎が。
南雲の左手首を掴んだ。
「やめろ」
「結果封鎖中です」
「私が止める結果は?」
「選択肢にありません」
「なら追加しろ」
柴崎は。
南雲の左手へ拳銃を押し当てた。
「執行官」
「能力を解除しろ」
「発砲結果は封鎖されています」
「知っている」
柴崎は。
南雲ではなく。
彼の左手へ巻かれた金属線を撃った。
弾丸は。
発射されない。
発砲という結果が封鎖されている。
だが。
拳銃の撃鉄が落ちた衝撃。
火薬が燃えなかったという現在。
銃身内部に残った未発火弾。
冬真が。
そのすべてを壁の向こうから見ていた。
「柴崎」
「何」
「もう一度引け」
「撃てない」
「撃つ必要はない」
冬真は。
拳銃の中にある弾丸と。
南雲の金属線。
二つの現在を手繰る。
距離。
機構。
結果。
南雲が封じたのは。
柴崎が発砲する未来。
冬真が。
今ある弾丸を移動させることではない。
「真白」
「また撃つ?」
「音だけ借りる」
真白が。
最後の一発を天井へ放った。
銃声。
衝撃。
冬真が。
その現在を柴崎の拳銃へ重ねる。
撃っていない銃から。
弾丸だけが現れた。
南雲の左手。
金属線をまとめて貫く。
血。
切断された線。
床へ散る。
「何を……」
南雲の《結果封鎖》が崩れた。
司令室の銃口。
冬真の刀。
柴崎の権限。
封じられていた結果が一斉に戻る。
南雲は。
左手を押さえながら冬真を見る。
「未来を見ていないのに」
「ああ」
「なぜ、そこまで」
「全部」
冬真は。
司令室。
母床。
真白の銃。
柴崎の拳銃。
南雲の左手を見ていた。
「今あった」
欠けた刀を振る。
中央制御線。
切断。
十二の切除装置への命令経路が。
一斉に落ちた。
大型画面。
作戦開始。
残り四分十九秒。
停止。
完全停止ではない。
非常用の独立起動回路が動く。
「予備回線へ移行!」
「切除開始まで七分!」
柴崎が指揮卓へ入る。
「全回線を手動停止! 斎賀陸将補を拘束!」
統合部隊が動く。
斎賀側の兵士も発砲した。
司令室内で。
現在側同士の戦闘が始まる。
机。
画面。
人間が倒れる。
柴崎の肩を弾丸が掠めた。
南雲は。
傷ついた左手を見下ろす。
床に落ちた金属線。
失った可能性。
もう思い出せない人生。
「七分」
彼が呟く。
「稼いだぞ」
冬真は男を見る。
「敵じゃなかったのか」
「今も敵だ」
南雲は。
残った最後の金属線を一本。
右手で引き抜いた。
「だが」
現在の東京。
統合本部。
十二の消失区。
すべてへ能力を広げる。
「七分間、切除作戦が開始される結果を封鎖する」
南雲の身体が揺れた。
一本では足りない。
本来なら六秒。
七分へ引き延ばすには。
失う可能性が多すぎる。
妻。
子供。
老後。
生き延びた人生。
選ばなかっただけで。
どこかには存在したかもしれない、南雲朔のすべて。
髪が。
一瞬で白くなる。
皮膚が老いる。
「南雲!」
柴崎が叫ぶ。
「これで」
男は冬真を見る。
「結果を見せろ」
膝から崩れる。
それでも。
封鎖は維持されている。
七分。
政府は撃てない。
◇
原都市の時計。
二時二十二分。
針が動く。
「冬真!」
真白が呼ぶ。
「戻って!」
統合本部との接続を切る。
壁が。
元の母床へ戻る。
冬真の左目から。
血が大量に流れた。
右腕も。
完全に動かなくなる。
それでも。
時計へ手を伸ばした。
「あと四分」
久世。
澪。
雨宮律。
小春。
護衛隊員。
全員が。
長針を押す。
二時二十三分。
街のどこかで。
電車が駅へ着く。
二時二十四分。
病室の老人が。
妻へ最後の言葉を伝える。
二時二十五分。
深町のパン屋。
店主が。
売れ残ったパンを棚へ並べる。
「後で払う」
冬真が呟く。
「誰に?」
真白が尋ねる。
「分からない」
「戻ったら探そう」
「ああ」
時計の針。
二時二十五分。
五十九秒。
あと一秒。
原都市全体から。
凄まじい力が針を押し戻す。
帰った者。
帰れない者。
忘れられた者。
九百万人の恐怖が。
最後の一秒を拒む。
冬真の右腕が。
肘から折れた。
真白の手の皮が裂ける。
久世の肩へ刺さった針が。
さらに深く入る。
小春の身体から。
白い腕が一本ずつ千切れる。
「動かない!」
律が叫ぶ。
地下。
赤い眼を追った。
原記録の冬真の声が響く。
「その一秒は」
暗闇から。
男が這い上がってくる。
右半身。
黒い根へ侵食されている。
赤い眼球は。
自分の胸へ押し込んでいた。
「俺が止めている」
現在の冬真が男を見る。
「まだ探すのか」
「終わらせれば」
原記録の冬真の両目から。
血が流れる。
「本当に九百万人が死ぬ」
「もう死んでいる」
「生きている!」
男が初めて叫んだ。
原都市全体が揺れる。
「話している!」
「笑っている!」
「帰ろうとしている!」
「これを死者と呼ぶのか!」
現在の冬真は。
針から手を離さない。
「呼ばない」
「なら!」
「だから連れていく」
「記録だけだ!」
「十分だ」
「足りない!」
「足りないから」
冬真は。
原記録の冬真へ右手を伸ばす。
「お前も押せ」
男の表情が止まった。
「何を」
「逃げるな」
「俺は――」
「一人で救える未来を探すな」
冬真の左目。
未来は映っていない。
原記録の冬真だけを見ている。
「今いる全員で」
欠けた刀を。
男の足元へ落とす。
「失敗しろ」
原記録の冬真は。
動かなかった。
一秒。
二秒。
外では。
南雲の七分が減っている。
やがて。
男は。
赤い眼球を胸へ抱えたまま。
時計へ歩いた。
「お前が失敗したら」
「次を考える」
「次がなければ」
「今考える」
「理屈になっていない」
「知っている」
原記録の冬真が。
透明な針へ手を置いた。
二人の冬真。
同じ名前。
異なる現在。
初めて。
同じ方向へ力をかける。
針が。
一秒進んだ。
午後二時二十六分。
原都市全体の時計が。
一斉に鳴った。
九百万人の声。
悲鳴ではない。
「ただいま」
その言葉を最後に。
最初の東京から。
すべての音が消えた。




