第29話 ただいまのあと
午後二時二十六分。
最初の東京から。
音が消えた。
電車の走行音も。
信号機の電子音も。
学校のチャイムも。
九百万人の「ただいま」も。
すべて。
一瞬で。
深い水底へ沈んだように遠ざかった。
「……終わった?」
真白が呟く。
返事はない。
巨大な母床時計。
長針は。
二十六分を指したまま動かない。
冬真は右手を離した。
指が開かない。
折れた骨が。
皮膚の下で歪んでいる。
左腕はない。
心臓も。
まだ動いていなかった。
「冬真」
真白が胸へ手を当てる。
数秒。
「脈、ない」
「ああ」
「何で普通に喋ってるの」
「分からない」
「それで済ませないで」
真白の声が。
初めて少し震えた。
「戻って」
「戻っている」
「そういう意味じゃない」
冬真が答えようとした瞬間。
母床の文字盤に。
細い亀裂が走った。
一つ。
百。
千。
東京の道路に沿うように。
巨大時計が割れていく。
「離れろ!」
久世が叫んだ。
全員が後退する。
透明な床の下。
九百万人が暮らしていた街が。
光の粒へ変わっていく。
家。
学校。
病院。
駅。
小さな公園。
開きかけの店。
食卓。
机の上に置かれた宿題。
飲みかけのコーヒー。
一つずつ。
形を失う。
「個体反応減少」
澪が端末を見る。
九百八十二万。
八百万。
五百万。
百三十万。
「待って」
真白が言う。
「本当に消えてる」
小春が。
兄の腕の中で目を見開いた。
「みんな」
白い腕を伸ばす。
「待って!」
掴めない。
人々は。
眠りへ落ちるのではなく。
形そのものを失っていく。
「嫌!」
「小春」
律が抱き締める。
「離して!」
「駄目だ!」
「覚えてないと!」
小春の胸から。
何百本もの白い腕が噴き出した。
消えていく記録を。
一つでも多く掴もうとする。
腕へ。
顔。
名前。
人生が流れ込む。
小春の皮膚の下へ。
老人の顔が浮かんだ。
子供。
女。
男。
何千もの人格。
「止めろ」
冬真が言った。
「でも!」
「お前一人には持てない」
「じゃあ消える!」
「消さない」
「どうやって!」
冬真は。
消えていく街を見る。
最初から答えはあった。
九百万人を保存していたのは。
人間ではない。
東京そのもの。
「戻す」
「どこへ」
「いた場所へ」
◇
冬真が右手を伸ばす。
動かない指を。
無理やり開く。
骨が擦れる。
血が滴る。
九百万人の記録。
すべてを掴む必要はない。
誰が。
どこにいたか。
それだけ。
「澪」
「はい」
「住所記録」
「残っています」
「最終位置」
「あります」
「生活圏」
「照合可能」
澪が。
即座に理解した。
「人物ではなく、場所を固定点にする?」
「ああ」
「現在側の同座標には、別の建物があります」
「構わない」
「記録同士が混線する可能性があります」
「名前だけでいい」
冬真は。
最初の一つを手繰った。
深町。
小さなパン屋。
店主。
名前は。
分からない。
だが。
焼きたてのパンを。
誰かへ渡した。
その場所へ。
記憶の欠片を返す。
光が。
冬真の指先を離れた。
次。
病室。
妻へ「またな」と言った老人。
病院へ。
次。
娘の誕生日へ帰った男。
杉並の住宅街へ。
一つずつではない。
同じ場所。
同じ道。
同じ駅。
同じ生活圏。
束ねる。
「東京全域へ拡散します!」
澪が叫ぶ。
母床時計から。
無数の光が噴き上がった。
天井を抜け。
原都市を抜け。
現在の東京へ。
駅。
道路。
家。
土地。
壁。
街路樹。
人がいた場所へ。
名前だけが戻っていく。
「こんなの」
原記録の冬真が。
赤い眼を胸へ抱えたまま見ていた。
「保存とは呼べない」
「分かっている」
「会話もできない」
「ああ」
「復元もできないかもしれない」
「ああ」
「それでも救ったと言うのか」
「言わない」
現在の冬真は。
男を見る。
「忘れないだけだ」
原記録の冬真の顔が歪む。
「足りない」
「知っている」
「足りなさすぎる」
「ああ」
「俺は」
男の声が震えた。
「それが嫌だった」
だから。
十三分を繰り返した。
何度も。
何度も。
一人も捨てずに済む答えが出るまで。
「分かっている」
冬真が言った。
「だから、お前は終われなかった」
原記録の冬真は。
しばらく何も言わなかった。
やがて。
小さく笑った。
「本当に」
赤い眼球が。
胸の中で脈打つ。
「俺じゃないな」
「同じにするな」
「安心した」
次の瞬間。
原記録の冬真の右半身から。
黒い根が噴き出した。
「冬真!」
真白が銃を向ける。
「撃つな」
現在の冬真が止める。
原記録の男は。
自分の胸へ両手を突っ込んだ。
肋骨を割る。
肉を裂く。
赤い眼球を。
自分の心臓ごと掴み出した。
血が床へ落ちる。
「何をしてる!」
「所有者を空席にしたのは、お前だ」
「……」
「なら」
男は。
赤い眼と心臓を握ったまま。
母床の底へ開き始めた黒い穴を見る。
「俺が持っていく」
「外へ?」
「外じゃない」
黒い穴の奥。
無数の銀色の瞳。
こちらを見ている。
「もっと手前だ」
「何がある」
「最初に」
原記録の冬真は。
現在の自分を振り返った。
「俺が眼を盗んだ場所」
床が裂ける。
黒い指。
原記録の冬真の脚を掴んだ。
真白が撃つ。
残弾は。
もうない。
引き金だけが落ちた。
「くそっ」
冬真は刀を手繰る。
だが。
原記録の男が首を振った。
「来るな」
「眼を渡せ」
「駄目だ」
「なぜ」
「お前が持てば」
赤い眼が。
現在の冬真を見た。
右眼窩。
空洞。
そこへ。
透明な血管のような糸が伸びかける。
原記録の冬真が。
自分の指を眼球へ突き立てた。
潰す。
赤い液体が飛び散った。
糸が切れた。
「次は」
男が。
穴へ引かれながら言う。
「盗むな」
「……」
「作れ」
「何を」
原記録の冬真は。
最後に笑った。
「お前の眼を」
黒い穴が閉じた。
原記録の瀬名冬真。
赤い眼。
外側へ続く経路。
すべて。
母床から消えた。
◇
「個体数」
澪が端末を見る。
原都市。
九百八十二万六千四百十一。
表示が。
ゼロになる。
代わりに。
《記憶固定地点》。
一。
百。
一万。
百三十万。
増えていく。
現在の東京全域へ。
人々の名前だけが散らばった。
「完全な保存ではありません」
澪が言う。
「人格再構築可能性、推定一パーセント未満」
「それでいい」
冬真が答える。
「よくない」
小春が泣いていた。
「全然よくない」
「ああ」
「みんな、もう喋れない」
「ああ」
「笑わない」
「ああ」
「だったら」
小春が冬真を睨む。
「何が残ったの」
冬真は。
すぐには答えなかった。
母床の上。
一つの光が残っている。
《雨宮小春》。
次。
《島田孝介》。
原都市へ統合された護衛隊員。
家族写真へ変わった男。
その名前も。
現在へ戻ってきていた。
「探せる」
冬真が言う。
「何を」
「残ったものを」
「見つからなかったら?」
「探し続ける」
小春が。
泣きながら鼻を啜った。
「お兄ちゃんと同じこと言う」
律が困った顔をする。
「俺?」
「忘れてるけど」
「そうか」
「馬鹿」
「たぶん」
律は。
小春の頭へ手を置いた。
ぎこちない。
兄妹だったことを。
身体だけが少し覚えている。
「小春」
「何」
「帰ろう」
「どこに?」
律は詰まった。
現在に。
家はない。
戸籍も。
生活も。
何もない。
冬真が言う。
「立川」
「それ家?」
小春が聞く。
「今は避難所だ」
「家じゃないじゃん」
「カレーはある」
澪が言った。
全員が澪を見る。
「あります」
澪は真顔だった。
「確認済みです」
真白が。
少しだけ笑った。
「じゃあ、とりあえず帰れるね」
◇
母床が崩れ始めた。
「帰還経路発生!」
澪が端末を見る。
「三分以内に原都市全体が閉鎖します!」
「全員、上へ!」
久世が叫ぶ。
護衛隊員たちが負傷者を担ぐ。
脚を失った一人。
意識のない二人。
死亡。
三人。
原都市へ統合された島田を含め。
所在不明、四人。
全員では戻れない。
それでも。
久世は最後まで人数を数えた。
「十二!」
「います!」
「十三!」
返事なし。
「十三!」
崩れる廊下。
向こう側。
一人の護衛隊員が。
家族写真を抱えていた。
島田。
原都市で妻と子供を選んだ男。
「これ!」
隊員が叫ぶ。
「持って帰っていいですか!」
「持て!」
写真を胸へ入れる。
「十四!」
「いる!」
「走れ!」
小学校。
病院。
駅。
住宅街。
重なった景色が。
次々に消えていく。
冬真の脚が。
一度止まった。
「冬真?」
真白が振り返る。
「行け」
「何言ってるの」
「身体が」
言い切る前に。
冬真の膝が落ちた。
心臓。
止まったままだった身体が。
限界を迎える。
「冬真!」
真白が抱える。
「先に行け」
「嫌」
「真白」
「嫌だって言ってる!」
久世が戻る。
「担ぐぞ」
「班長」
「命令するな」
久世が冬真の右肩を担ぐ。
真白が左側。
ない腕へ触れないよう。
身体を支える。
「俺は歩ける」
「歩けてから言え」
「重い?」
真白が聞く。
「普通だ」
「よかった」
「何が」
「もっと重かったら置いてた」
「嘘をつけ」
「ばれた?」
背後。
原都市が。
完全に崩れた。
三人が。
最後の階段へ飛び込む。
◇
光。
次に。
コンクリートの床。
冬真の身体が叩きつけられた。
「っ……」
音がある。
警報。
無線。
車両。
人間の叫び声。
現在。
深町二丁目地下。
地上へ続く非常通路。
壁の時計。
午前十一時十九分。
数分しか経っていなかった。
「戻った……」
護衛隊員の一人が。
その場へ座り込む。
泣いていた。
「戻った」
何度も。
同じ言葉を繰り返す。
雨宮律。
小春。
久世。
澪。
真白。
生き残った者たち。
全員。
現在側にいる。
「冬真!」
真白が。
冬真の頬を叩く。
「起きて」
返事がない。
「冬真」
胸へ手を当てる。
脈。
なし。
「澪!」
「死亡記録が残っています!」
「解除は!」
「原都市が消えたため、参照元がありません!」
「それって」
「戻せません」
真白の顔から。
血の気が引いた。
「帆村に繋いで!」
「通信復旧中!」
「冬真!」
何度呼んでも。
目が開かない。
「瀬名冬真!」
真白が。
胸骨へ手を置く。
圧迫。
一度。
二度。
三度。
「戻って」
四度。
「右側、見えないんでしょ」
五度。
「私がいるって言ったじゃん」
六度。
返事はない。
「冬真!」
七度目。
冬真の右眼窩。
空洞の奥で。
何かが脈打った。
一瞬。
白い光。
未来残響ではない。
赤い眼でもない。
真白の顔。
久世。
澪。
律。
小春。
今。
自分を見ている人間の現在。
それだけが。
右眼窩へ集まる。
心臓が。
一度。
動いた。
「……っ」
冬真が空気を吸い込む。
真白の身体から。
力が抜けた。
「遅い」
「何が」
「三秒くらい本気で嫌いになった」
「短いな」
「今ので延長した」
冬真は。
左目を開く。
右側。
見えないはずの場所に。
真白がいる。
だが。
輪郭だけ。
分かる。
「真白」
「何」
「右にいるな」
「いるよ」
「見える」
真白が固まる。
「……右目、ないよ」
「ああ」
眼球はない。
それでも。
今。
真白が見ている冬真自身の姿が。
冬真の右側の視界として返ってきていた。
澪が端末を向ける。
「観測共有反応」
「未来視?」
真白が尋ねる。
冬真は首を振る。
「違う」
今しか。
見えない。
だが。
他人の今を借りられる。
「十分だ」
◇
地上へ出た。
昼だった。
眩しいほどの。
青空。
消防車。
救急車。
避難誘導。
壊れた道路。
遠く。
高層ビルへ絡んでいた緑葬圏の巨木が。
ゆっくり動きを止めている。
十二の消失区。
消えてはいない。
だが。
境界の拡大が止まっていた。
東京湾。
帰還連合艦隊。
砲身を下げる。
海底都市から溢れていた海水も。
現在側への流入を止める。
「十二区域すべて、侵食停止!」
無線。
『切除作戦、全面中止!』
『繰り返す、全面中止!』
『柴崎執行官が統合指揮権を回復!』
別の通信。
『南雲適応官、意識不明! 生命反応あり!』
七分。
守った。
冬真は。
空を見る。
「終わった?」
真白が尋ねる。
「十二個残っている」
「そうだった」
「帰還連合もいる」
「うん」
「御厨も逃げた」
「うん」
「外にも見つかった」
「うん」
「政府とも揉めてる」
「……いっぱいあるね」
「ああ」
真白が。
長く息を吐いた。
「じゃあ」
「何だ」
「今日はお昼ご飯くらい食べられる?」
冬真は答えようとした。
そのとき。
腹が鳴った。
真白が目を丸くする。
少し離れた場所で。
澪も聞いていた。
「生体反応、正常化の兆候です」
「聞かなかったことにしろ」
「記録しました」
「消せ」
「嫌です」
小春が。
初めて声を上げて笑った。
ほんの少しだけ。
普通の七歳の子供みたいに。
◇
同時刻。
東京湾。
帰還連合旗艦。
暗い艦橋で。
御厨玲央が。
奪った端末を見ていた。
深町座標。
十二パーセントしかコピーできなかった原記録。
その最深部に。
今まで存在しなかった一行が増えている。
――原都市、終了。
――第一観測眼、消失。
――現観測者、未登録。
御厨の口元が。
僅かに歪んだ。
「やったのか」
背後。
帰還連合の兵士が尋ねる。
「何がです」
「十三番目が消えた」
「なら我々は」
「帰れない」
御厨が答える。
兵士の顔が強張る。
「ですが」
「帰還路は、原都市を経由する前提だった」
「では」
「奪うしかない」
「何を」
御厨は。
端末に表示された。
新しい観測者候補を見る。
名前。
瀬名冬真。
「今度は」
生きた槍が。
御厨の背後で。
何本もの口を開いた。
「殺すな」
槍が。
嬉しそうに歯を鳴らす。
「連れて帰る」




