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第26話 終わらなかった十三分

 教室の床が沈んだ。


 亀裂から伸びた黒い指が。


 鉄筋。


 机。


 児童の脚をまとめて掴み、暗闇へ引きずり込んでいく。


 落ちた児童は悲鳴を上げなかった。


 次の瞬間には。


 何事もなかったように、自分の席へ座り直している。


 同じ児童が。


 床の上と。


 穴の中。


 二箇所に存在していた。


「原都市の記録が分裂しています」


 澪が端末を抱える。


「観測された生活と、外側へ落ちた記録が同時に残っている」


「このままだと?」


 真白が、雨宮小春へ伸びる白い腕を撃ち落とす。


「九百万人が複製された状態で《外》へ流入します」


「人数が倍になるってこと?」


「身体ではなく、人生がです」


 澪の端末に表示される個体数。


 九百八十二万六千四百十一。


 千九百六十五万。


 三千万。


 増加は止まらない。


「同じ人間が」


 澪が言う。


「死ぬ直前の十三分間を、別々の選択で生き始めています」


 教室の窓。


 九百万人の瞳に宿った銀色の光が強くなる。


 外側の存在は。


 増殖する人生を一つずつ見ている。


 何度も。


 異なる終わり方で。


「原記録の冬真を追う」


 雨宮律が、妹を抱えたまま床の穴へ近づく。


 身体は薄い。


 能力を使った影響で。


 肩の輪郭が、背後の黒板へ透けていた。


「待て」


 冬真が止める。


「赤い眼を持っていかれます」


「あいつは逃げない」


「なぜ分かるんですか」


「俺だからだ」


「それ、信用できる理由?」


 真白が言う。


「できない」


「じゃあ」


「だが、目的は分かる」


 帰還前の冬真は。


 赤い眼を完全に盗むため。


 母床中枢へ落ちた。


 現在の冬真たちを追い払うためではない。


「眼は、あいつに任せる」


 冬真は教室の壁に掛かった時計を見る。


 二時十四分。


 秒針は逆方向へ進み。


 十三へ戻ろうとしていた。


「俺たちは街を止める」


 ◇


 地下への階段は。


 教室の床下にあった。


 小学校の非常階段。


 白い壁。


 黄色と黒の滑り止め。


 だが。


 一階下りるごとに。


 異なる東京の地下へ繋がった。


 駅のホーム。


 病院の霊安室。


 商業施設の食品売場。


 共同住宅の駐車場。


 九百万人が最後の十三分間に立っていた場所が。


 一つの階段へ重なっている。


「止まるな」


 久世が先頭を進む。


 散弾銃は。


 原都市から《退職》の記録を与えられた影響で、時折その形を失った。


 銃身が細くなり。


 古い杖へ変わる。


 久世は構わず握り続けている。


「隊長」


 後方の護衛隊員が声を上げた。


「誰かいます」


 階段の踊り場。


 一人の女が立っている。


 エプロン姿。


 手に。


 温かそうな弁当箱を持っていた。


「康介」


 女が護衛隊員を見る。


「忘れ物」


「俺は……」


 隊員が足を止める。


 手袋へ書かれた名前。


 血と汗で滲み。


 読めなくなっている。


「誰だ」


「妻でしょう」


 女が笑う。


「朝、喧嘩したまま出ていった」


「妻……」


「ごめんなさいって、まだ言ってない」


 弁当箱の蓋が開く。


 白い米。


 卵焼き。


 焼いた鮭。


 普通の朝食。


 湯気まで上がっている。


 隊員の目に涙が浮かんだ。


「俺にも」


 声が震える。


「こういう家があったのか」


「来い」


 久世が言う。


「でも」


「違う人生だ」


「分かっています」


 隊員は。


 女から目を離さない。


「分かってるけど……少しだけ」


 女が手を伸ばす。


「行ってらっしゃいって、言わせて」


 指先が。


 隊員の頬へ触れる直前。


 真白が弁当箱を撃ち抜いた。


 米と卵焼きが宙へ散る。


 女の身体が。


 何百枚もの婚姻届へ変わった。


「何するんですか!」


 隊員が真白を睨む。


「帰る場所は自分で作って」


「俺にあるか分からない!」


「だから生きて確認するの」


 隊員の口が止まる。


 真白は銃口を下げた。


「ごめん。食べ物撃ったのは悪かった」


 冬真が横を見る。


「そこか」


「大事でしょ」


 床へ落ちた卵焼きは。


 紙へ変わる前。


 一瞬だけ。


 甘い匂いを残していた。


 ◇


 階段の最下層。


 深町第二小学校の地下には。


 巨大な駅の改札口があった。


 数百本の自動改札。


 すべての時計が。


 二時十三分を示している。


 改札の向こう。


 暗いホーム。


 電車は来ない。


 代わりに。


 人間の顔を貼りつけた巨大なものが、線路の上を這ってきた。


 頭部は。


 学校の時計。


 直径三メートル。


 文字盤の周囲から。


 会社員。


 学生。


 老人。


 幼児。


 何百もの上半身が生えている。


 腕時計。


 目覚まし時計。


 携帯端末。


 台所のタイマー。


 人々が最後に見ていた時刻が。


 肉の中へ埋め込まれていた。


「時象反応、母床中枢と直結」


 澪が端末を向ける。


「原都市の防衛個体です」


 巨大な時計の針が動く。


 二時十三分。


 十二秒。


 十三秒。


 肉塊から生えた顔が。


 一斉に口を開いた。


「まだ、終わってない」


「娘に連絡していない」


「電車に乗らないと」


「夕飯の支度が」


「謝ってない」


「帰ってない」


「死にたくない」


 人間の声が。


 重なる。


「終刻を拒否しています」


 澪の声が掠れた。


「九百万人が、消える直前に残した未完了行動の集合体」


 久世が散弾銃を構える。


「通らせてもらう」


 引き金。


 散弾が。


 巨大な時計の文字盤へ集中する。


 ガラスが砕ける。


 針が折れる。


 肉が飛び散る。


 道が開いた。


「進め!」


 全員が改札へ走る。


 十三秒後。


 世界が反転した。


 ◇


 冬真は。


 同じ場所に立っていた。


 久世はまだ引き金へ指をかけている。


 時計のガラスに傷はない。


 弾丸も銃の中へ戻っていた。


「今のは」


 真白が息を呑む。


「十三秒前へ戻された」


 澪の端末だけが。


 処理負荷の警告を残していた。


「肉体と物質は戻っています」


「記憶は?」


「維持されています」


 久世が再び撃つ。


「なら、同じだ」


 散弾。


 今度は。


 文字盤ではなく、肉塊の脚へ。


 冬真が刀を遠隔で走らせる。


 根元を断つ。


 真白が。


 壁へ埋め込まれた時計を狙う。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 十三秒。


 再び。


 すべてが戻った。


 久世の散弾銃。


 冬真の刀。


 真白の残弾。


 防衛個体の傷。


 全快。


「攻撃が成立しません」


 澪が言う。


「十三秒ごとに、自身と観測範囲を発生前へ再登録している」


「範囲は」


「駅構内全域」


「抜けるまで十三秒もかかる」


 真白がホームの奥を見る。


 百メートル以上。


 さらに。


 床へ白い腕が広がっている。


「御影さんがいれば」


 護衛隊員が呟く。


「御影でも八秒だ」


 久世が答える。


「ないものを数えるな」


 三度目。


 全員が別方向へ散る。


 冬真はホーム。


 真白は壁際。


 久世たちは改札。


 澪と雨宮兄妹は後方。


 巨大な時計から。


 人間の腕が何百本も伸びた。


 護衛隊員の一人が掴まれる。


 腹へ。


 腕時計の長針が突き刺さった。


「うあっ!」


 短針。


 秒針。


 背中から腹へ。


 何十本も貫通する。


 十三秒。


 世界が戻る。


 隊員の傷は消えた。


「たすか――」


 声が止まる。


 身体に傷はない。


 それでも。


 痛みは残っている。


「今、俺……」


 自分の腹へ触れる。


「刺された」


 四度目。


 巨大な腕が。


 再び同じ男を掴んだ。


「嫌だ!」


 隊員が叫ぶ。


「俺じゃない奴を――!」


 針が腹へ入る。


 骨を擦り。


 内臓を貫く。


「やめろ! やめろ!」


 十三秒。


 傷が消える。


 隊員は。


 床へ膝をついた。


「もう嫌だ」


 血は出ていない。


 臓器も無事。


 だが。


 身体が嘔吐した。


 胃の中のものを吐き。


 何度も腹を押さえる。


「まだ刺さってる」


「傷はない」


 隣の隊員が肩を掴む。


「分かってる!」


 男は泣きながら叫ぶ。


「分かってるけど、痛いんだよ!」


 五度目。


 時計の針が。


 また彼へ向く。


 久世が前へ入った。


 散弾銃で針を受ける。


 金属同士が激突。


 久世の肩が外れる。


 針が胸の防護板を割る。


 十三秒。


 戻る。


 久世は無傷。


 だが。


 呼吸が僅かに乱れている。


「負傷した隊員を後ろへ」


「戻る場所がありません」


「小春の後ろに置け」


 雨宮律が妹を見る。


「小春」


 白い腕が。


 震える隊員を包む。


 家族を抱くように。


 優しく。


「ごめんなさい」


 小春が言う。


「何が」


「その痛み」


 少女の胸から。


 別の腕が生える。


 同じ位置。


 腹部へ。


 赤い痕が浮かぶ。


「小春?」


「少しだけ、もらえる」


 隊員の震えが弱まる。


 代わりに。


 小春の口から血が垂れた。


 律が白い腕を掴む。


「やめろ」


「お兄ちゃんたちが進めない」


「お前が痛がる必要はない」


「じゃあ」


 小春は。


 律を見上げる。


「家族じゃないの?」


 律は答えられなかった。


 ◇


 六度目。


 七度目。


 十度目。


 攻撃方法を変えても。


 通路を変えても。


 十三秒で戻される。


 防衛個体は。


 冬真たちの動きを学んでいた。


 戻るたび。


 腕の位置。


 針の狙い。


 攻撃の順番が変わる。


 こちらは疲労と痛みだけを蓄積し。


 敵だけが。


 無傷の現在へ戻り続ける。


「敵のほうが適応しています」


 澪が端末を握る。


 鼻血が一筋。


 何度も同じ十三秒を観測した負荷。


「あと三回以内に」


「どうなる」


「こちらの行動が完全に予測されます」


「未来視と同じか」


「違います」


 澪は巨大時計を見る。


「私たちが選べる行動を、潰しています」


 次の十三秒。


 針が動く。


 冬真は走らなかった。


「冬真?」


 真白も。


 彼の右側へ立ったまま動かない。


「何かあるの」


「刀を見ろ」


 黒い刀は。


 冬真の正面。


 床へ浮いている。


「見てる」


「最後まで目を離すな」


 久世が。


 意図を察する。


「何をする」


「十三秒、斬る」


 冬真は刀を前へ飛ばした。


 一秒。


 巨大時計の右腕を断つ。


 真白が見ている。


 二秒。


 刀が別の角度へ。


 文字盤を縦に斬る。


 久世が見る。


 三秒。


 床へ。


 肉塊の下を走る。


 澪が端末で観測する。


 四秒。


 白い腕を断つ。


 雨宮律。


 五秒。


 時計の内部へ。


 小春。


 六秒。


 天井。


 護衛隊員。


 七秒。


 左側。


 八秒。


 背後。


 九秒。


 改札上。


 十秒。


 線路。


 十一秒。


 文字盤の中心。


 十二秒。


 冬真の前。


 十三秒。


 世界が戻る。


 刀も。


 冬真の前へ戻った。


 巨大時計は無傷。


「失敗?」


 真白が尋ねる。


「見ていたか」


「全部」


「なら残ってる」


 冬真の失われた右眼窩から。


 透明な糸が伸びる。


 十三秒の間。


 刀が存在した場所。


 誰かが見た。


 十三の現在。


 防衛個体が戻したのは。


 物質と身体。


 見たという事実までは。


 消えていない。


「過去ではありません」


 澪が。


 冬真の意図を理解する。


「私たちの中では、すべてが現在の観測記録として残っている」


 冬真は右手を握った。


「戻すなら」


 十三箇所。


 同じ一本の刀を。


 同時に手繰る。


「全部戻せ」


 黒い刃が。


 十三本に増えたのではない。


 一本の刀が。


 十三の場所へ同時に存在した。


 右腕。


 文字盤。


 床下。


 白い腕。


 内部。


 天井。


 背後。


 改札。


 線路。


 中心。


 あらゆる方向から。


 巨大時計を貫く。


 肉塊から。


 九百万人分の悲鳴が噴き出した。


 時計の針が。


 十三秒前へ戻ろうとする。


 だが。


 戻った場所にも。


 刀がある。


「なぜ」


 肉の顔たちが叫ぶ。


「終わってない」


「まだ伝えてない」


「帰ってない」


「生きていたい」


 黒い刀が。


 文字盤の中心を押し開く。


 冬真の左目から血が流れた。


 脳へ。


 十三個分の現在が同時に入る。


「俺たちもだ」


 冬真は言う。


「まだ終わってない」


 刃を。


 さらに深く手繰る。


「だから通せ」


 巨大時計が完全に砕けた。


 肉塊。


 人間の腕。


 何千もの時計。


 線路へ散らばる。


 十三秒。


 針が回る。


 世界が戻り始める。


 冬真は右手を握ったまま離さない。


 真白が。


 動かない左肩を支える。


「冬真」


「あと少し」


「血、出すぎ」


「見れば分かる」


「そういうのいいから」


 真白が冬真の身体を支え。


 久世が散弾銃を。


 砕けた文字盤の奥へ押し込んだ。


「今だ!」


 発砲。


 母床へ繋がる中心核が。


 散弾で吹き飛ぶ。


 巻き戻しが止まった。


 時計の長針。


 二時十三分から。


 十四分へ進む。


 防衛個体は倒れていない。


 砕けた肉が。


 再び集まり始める。


 十三の刀も。


 一つずつ消えていく。


「進め!」


 久世が怒鳴る。


「倒したんじゃない! 十三秒奪っただけだ!」


 全員がホームへ走る。


 冬真は。


 真白に肩を預けながら進む。


「格好よかったって言ったら、また否定する?」


「喋る余裕があるなら走れ」


「あるように見える?」


「俺よりは」


「左腕ない人と比べないで」


 背後。


 時計の肉塊が。


 再生を終える。


 文字盤。


 今度は。


 二時十四分。


 巨大な針が。


 逃げる冬真たちへ振り下ろされた。


 ◇


 ホームの先。


 鉄製の扉を。


 久世が肩から突き破った。


 全員が中へ転がり込む。


 直後。


 巨大な針が扉を貫通した。


 護衛隊員の一人の脚へ刺さる。


 膝から下が。


 扉の外へ引きずられた。


「切れ!」


 隊員が叫ぶ。


 久世が散弾銃の銃床を。


 膝関節へ叩き込む。


 一度。


 二度。


 骨が砕ける。


 真白が銃で残った肉を撃ち切った。


 扉を閉じる。


 外から。


 巨大時計が扉を叩き続ける。


 鉄板が大きく凹む。


 十秒も持たない。


 だが。


 部屋の中央には。


 巨大な円形時計があった。


 直径、百メートル。


 床そのものが文字盤。


 透明な針の下に。


 東京の道路。


 家。


 駅。


 学校。


 九百万人分の生活が重なっている。


 時計は。


 二時十四分。


 秒針は。


 また十三分へ戻ろうとしていた。


 時計の中央。


 原記録の冬真が。


 片膝をついている。


 赤い眼球を。


 両手で押さえ込んでいた。


 眼球から伸びた黒い根が。


 男の腕。


 首。


 顔へ入り込んでいる。


「遅い」


 原記録の冬真が血を吐く。


「十三秒しか稼げなかった」


「十分だ」


「十分ではない」


「今はな」


 現在の冬真は。


 巨大時計を見る。


「街を眠らせる方法は」


「二時二十六分まで進めろ」


 原記録の冬真が答える。


「最初の切除が完了した時刻だ」


「なぜ止まっている」


 真白が尋ねる。


 原記録の冬真は。


 現在の冬真だけを見る。


「こいつが止めた」


「誰が」


「俺だ」


 九百万人の最期。


 切除が完了する瞬間。


 全員が。


 本当に捨てられる時刻。


「何度やっても」


 原記録の冬真が。


 赤い眼を押さえる指へ力を込める。


「二時二十六分まで進められなかった」


「なぜ」


「十三分あれば」


 男の両目に。


 無数の東京が映る。


「まだ別の未来を探せる」


 時計が。


 十四分から十三分へ戻る。


「この十三分を繰り返していたのか」


「最初は、一度だけのつもりだった」


「それが二百十三回?」


「もっとだ」


 原記録の冬真が笑う。


「二百十三は、残った世界の数にすぎない」


 真白の顔が強張る。


「じゃあ、実際には」


「数えていない」


 何千。


 何万。


 同じ十三分。


 冬真は。


 全員が助かる未来を探し続けた。


 見つからないたび。


 時刻を戻し。


 別の選択を観測した。


「お前には進められない」


 現在の冬真が言った。


 原記録の男の表情から。


 笑みが消える。


「何?」


「今も眼を盗もうとしている」


「外を止めるためだ」


「それも本当だろう」


「なら」


「だが、お前はまだ探している」


 赤い眼。


 無数の未来。


 存在しなかった結果。


「九百万人を消さずに済む選択肢を」


 原記録の冬真は答えない。


「お前は」


 現在の冬真が、透明な時計の中心へ立つ。


「終わらせられない」


 背後の扉が。


 大きく裂けた。


 巨大時計の防衛個体が。


 部屋へ入ろうとしている。


 原記録の冬真が叫ぶ。


「なら、お前がやれ!」


「ああ」


「九百万人が消えるぞ」


「消さない」


「二十六分へ進めれば、記録は停止する!」


「眠らせる」


「同じだ!」


「違う」


 冬真は小春を見る。


 白い腕に支えられ。


 雨宮律へ抱かれている。


「覚えている人間が残る」


「九百万人全員を?」


「できる範囲で」


「不可能だ」


「一人ではな」


 現在の冬真は。


 真白。


 久世。


 澪。


 雨宮兄妹。


 生き残った護衛隊員たちを見る。


「外にもいる」


 緑葬圏の六万人。


 灰海から逃げた四十七人。


 立川の避難民。


 現在の東京。


「名前を持って帰る人間を増やす」


「記録を現在へ持ち出せば、また《外》に見つかる」


「もう見つかっている」


「重さに耐えられない」


「分ける」


「拒む者もいる」


「頼む」


「それでも拒まれたら」


 冬真は。


 僅かに黙った。


「忘れない」


「それだけか」


「ああ」


 原記録の冬真は。


 目の前の十九歳を見つめた。


 自分よりも傷だらけ。


 右目を失い。


 左腕を失い。


 心臓さえ正常に動いていない。


 未来も見えない。


 それでも。


 時計の針へ右手を伸ばしている。


「理屈になっていない」


「お前の理屈で失敗した」


 現在の冬真は。


 透明な長針を掴んだ。


「次は俺のやり方で失敗する」


 真白が隣へ来る。


「失敗する前提?」


「可能性はある」


「そこは成功するって言って」


「嘘になる」


「じゃあ」


 真白も。


 長針へ手を置いた。


「失敗しても、次を一緒に考える」


 久世。


 澪。


 律。


 小春。


 全員が。


 時計の針へ手を伸ばす。


 原記録の冬真は。


 動かなかった。


 赤い眼を押さえたまま。


 現在の冬真たちを見る。


 針が動く。


 二時十四分。


 十三分へ戻ろうとする力。


 九百万人の未練。


 外側の観測。


 原記録の冬真が繰り返した時間。


 すべてが。


 針を押し戻す。


「動かない!」


 真白が歯を食いしばる。


「澪!」


「原都市全域から、反対方向へ時象圧が集中!」


「誰が止めている」


 澪の端末へ。


 九百万人の光点。


 すべて。


 時計の針へ繋がっている。


「住民全員です」


 街の人々は。


 二時二十六分に到達すれば。


 自分たちが終わると知っている。


「なら」


 冬真は。


 小春を見る。


「聞け」


「何を」


「家族に」


 小春の顔が強張る。


「嫌」


「進んでいいか聞け」


「嫌!」


 白い腕が暴れる。


「みんな消えちゃう!」


「消えない」


「嘘!」


「お前が覚えている」


「小春だけじゃ足りない!」


「俺たちもいる」


「忘れる!」


「そのときは」


 雨宮律が。


 小春を抱く腕へ力を込めた。


「もう一度、名前を教えてもらう」


 小春が兄を見る。


「お兄ちゃんは、小春を忘れた」


「うん」


「顔も」


「覚えてない」


「声も」


「忘れた」


「それなのに」


「探した」


 律は。


 自分でも分からない涙を流していた。


「名前しかなかった」


「……」


「それでも、来られた」


 小春の白い腕が。


 少しずつ止まる。


「お兄ちゃん」


「何」


「また忘れる?」


「たぶん」


「嫌」


「俺も嫌だ」


 律は答える。


「でも、探す」


 小春は。


 九百万人を見る。


 時計の下に重なる街。


 家族として。


 自分を忘れずにいてくれた人々。


 白い腕が。


 時計の文字盤へ広がる。


 一人。


 一人へ。


 最後の十三分を生きる住民たちへ繋がる。


「聞くね」


 小春が目を閉じる。


「終わってもいい?」


 ◇


 原都市全体で。


 時計が止まった。


 会社員が足を止める。


 母親が包丁を置く。


 教師が黒板から手を離す。


 電車の運転手が。


 前方の信号を見る。


 九百万人が。


 同じ問いを聞いていた。


 すぐに。


 答えは返らない。


 一人の男が。


 携帯端末を握る。


 娘へ送っていない文面。


 ――今日は早く帰る。


 送信する。


 届かない。


 それでも。


 男は笑った。


 一人の母親が。


 食卓へ皿を並べる。


 帰らない家族の分まで。


「おかえり」


 誰もいない玄関へ言う。


 学生が。


 告白できなかった相手へ。


 短い文章を書く。


 消して。


 もう一度書く。


 送信する。


 届かない。


 病室。


 老人が。


 妻の手を握る。


 どちらも。


 十三分後には消える。


「またな」


 妻が笑う。


 街の中。


 一人ずつ。


 止まっていた行動を終わらせる。


 冬真たちの手の中。


 時計の針が。


 僅かに動いた。


 二時十五分。


 原記録の冬真が。


 赤い眼を押さえながら顔を上げる。


「進んだ」


「ああ」


 十三分間のうち。


 最初の一分。


 背後。


 防衛個体が。


 鉄扉を完全に押し破った。


 巨大な時計の顔。


 文字盤は。


 二時十五分。


「終わらせない」


 何百もの人間の口が開く。


「まだ帰っていない」


「まだ伝えていない」


「まだ生きている」


 原都市の道路。


 家。


 駅。


 学校。


 九百万人が。


 一斉に母床中枢へ顔を向けた。


 すべての扉が開く。


 すべての人間が。


 時計を止めるため。


 深町第二小学校へ歩き始める。


 九百万人。


 敵ではない。


 滅ぼせない。


 だが。


 一人でも時計へ触れれば。


 針は二時十三分へ戻る。


 正午まで。


 残り四十八分。


 進めるべき時刻。


 残り十一分。


 冬真は。


 迫る九百万人分の足音を聞いた。


 そして。


 折れた右腕だけで。


 欠けた刀を持ち上げた。


「誰も斬るな」


 久世が冬真を見る。


「九百万人を相手に?」


「ああ」


「無茶だな」


「知っている」


 真白が。


 冬真の右側で銃を構えた。


「じゃあ、どうするの」


 冬真は。


 原都市の時計を見る。


「全員」


 九百万人の現在へ。


 透明な糸を伸ばす。


「家に帰す」


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