第25話 殺さない理由
『九百万人を眠らせたいなら』
二階の教室。
両目を持つ瀬名冬真は、赤い眼球を右手に載せていた。
『まず、俺を殺せ』
校内放送が切れる。
代わりに。
教室から、教師の声が聞こえた。
「では、二十七ページを開いてください」
児童たちが一斉に教科書を開く。
紙の擦れる音。
鉛筆の走る音。
窓から差し込む昼の光。
先ほどまで。
女教師の身体から腕が生え。
校舎全体が冬真たちを殺そうとしていたとは思えない。
廊下には。
学校給食の匂いまで漂っていた。
煮込まれた野菜。
薄いカレー。
現在の立川で澪が食べたものより、少し甘い匂い。
「カレー」
水城澪が小さく呟いた。
名前は戻り始めている。
だが。
年齢。
家族。
所属。
細部には、まだ穴があった。
「食べたいの?」
真白が尋ねる。
「匂いを確認しました」
「好きなんでしょ」
「おそらく」
「そこは断定してたよ」
澪は数秒考える。
「好きです」
久世玲司が散弾銃を持ち直した。
「食事の話は戻ってからにしろ」
「戻れた場合ですね」
「澪」
「事実です」
その言い方に。
久世が僅かに眉を寄せた。
覚えている。
完全ではなくても。
彼女が第六封鎖班の観測手であることを。
冬真は。
切断された左肩を見る。
傷口は黒く乾き。
血は出ていない。
右腕は動く。
骨折の痛みは残っているが。
名前を取り戻すたび、現在の身体が少しずつ戻ってきていた。
「行く」
冬真は階段へ向かう。
真白が右側へ並ぶ。
「その身体で?」
「あいつも俺だ」
「だから?」
「傷の使い方を知っている」
「それ、相手も同じじゃない?」
「ああ」
「不利じゃん」
「今気づいたのか」
「最初から気づいてる」
真白は狙撃銃を構え直した。
「だから右にいる」
◇
二階へ上がる。
一段ごとに。
廊下の景色が変わった。
最初は小学校。
次の段では。
病院。
白い廊下を患者が歩いている。
さらに一段。
駅。
改札を会社員が抜けていく。
もう一段。
住宅街。
夕食の支度をする母親。
風呂場から子供の声。
九百万人の生活が。
同じ建物の中へ重ねられている。
「見るな」
久世が言った。
「今いる場所だけを見ろ」
護衛隊員の一人が。
食卓の前で足を止めた。
若い女が。
湯気の立つ味噌汁を並べている。
「おかえり」
女が隊員へ笑いかけた。
「遅かったね」
隊員の呼吸が止まる。
「奈緒……」
久世が振り返る。
「知っているのか」
「妻です」
「お前の記録に配偶者はいない」
「でも」
食卓。
女の隣には。
幼い男の子。
「パパ」
子供が椅子から降りる。
隊員へ走ってくる。
「帰ってきた」
「違う!」
同僚が隊員の腕を掴む。
「お前は独身だ!」
「離せ!」
「昨日、聞いた!」
「嘘だ!」
隊員は同僚を殴った。
「俺は、この家に帰るんだ!」
子供が両腕を広げる。
「パパ」
隊員が一歩。
生活記録の中へ入る。
身体が透け始めた。
「島田!」
久世が名前を呼ぶ。
隊員は振り返らない。
「島田孝介!」
「違う!」
男は泣いていた。
「俺は、ここに家族がいる!」
女と子供が。
男を抱き締める。
三人の身体が重なり。
一枚の古い家族写真へ変わった。
廊下の壁へ。
額縁として掛けられる。
写真の中。
島田は笑っていた。
現在で一度も見せなかった。
満ち足りた表情で。
「戻せるか」
久世が澪へ尋ねる。
澪は端末を向ける。
「個体記録が原都市住民へ統合されました」
「戻せるかと聞いている」
澪の指が止まる。
「現時点では不明です」
久世は写真を見る。
殴られた同僚が。
鼻血を拭いながら立ち上がった。
「俺が名前を呼ぶのが遅かった」
「違う」
久世が言う。
「本人が選んだ」
「でも」
「覚えておけ」
声は冷静だった。
だが。
散弾銃を握る指へ。
強く力が入っている。
「戻る道を作るまで、勝手に死んだことにするな」
「……はい」
◇
二年二組。
教室の扉には。
児童の描いた絵が飾られていた。
家。
家族。
青い空。
赤い太陽。
その中に一枚だけ。
真っ黒に塗り潰された絵がある。
中央。
赤い眼。
周囲に。
二百十三本の白い腕。
絵の下。
名前。
雨宮小春。
白髪の男。
雨宮律が。
指先で文字へ触れた。
「俺の妹」
「思い出したのか」
冬真が尋ねる。
「分かりません」
律は文字をなぞる。
「でも、俺が書いた気がする」
「妹の名前を?」
「何度も」
名前を失うたび。
消える前に。
律は小春と書き続けた。
自分の記憶からなくなっても。
どこかに残すために。
「入るぞ」
久世が扉へ手をかける。
開かない。
鍵ではない。
廊下と教室の間に。
見えない時象壁がある。
澪が観測する。
「教室内は、午前二時十三分で固定されています」
窓の外。
太陽は昼の位置。
教室の時計だけが。
二時十三分を示している。
「外から見えているのに?」
真白がガラスへ触れる。
「観測は可能。侵入は不可能です」
「割る」
久世が散弾銃を向ける。
「待て」
冬真が止める。
教室の中。
両目を持つ冬真が。
赤い眼球を机へ置いた。
右手で。
教卓の上にあった紙を一枚持ち上げる。
白い紙。
黒い文字。
――瀬名冬真。
その名前を。
横線で消した。
時象壁が開く。
「名前が鍵?」
真白が言う。
「管理者を一人に絞っている」
冬真は教室へ入った。
真白。
久世。
澪。
律。
残った護衛隊員たちも続く。
児童は三十二人。
全員。
何事もないように授業を受けている。
冬真たちを見ない。
小春だけが。
窓際で律を見つめていた。
「お兄ちゃん」
今度は。
九百万人の声ではない。
一人の少女の声だった。
律の膝が揺れる。
「小春」
「遅かったね」
「……ごめん」
「何に謝ってるの?」
律は答えられない。
忘れている。
どれほど待たせたのか。
なぜ置いていったのか。
「覚えてない」
「うん」
小春は笑った。
「だから、帰ってきたんだよ」
白い腕が。
律へ伸びる。
冬真の刀が。
腕の前へ入った。
「待て」
小春が冬真を見る。
「邪魔しないで」
「こいつは外へ戻る」
「外には、律を覚えてる人がいない」
「いる」
「誰?」
冬真は答える。
「俺たちだ」
「昨日会っただけで?」
「十分だ」
「お兄ちゃんの小さい頃を知らない」
「知らない」
「好きな食べ物も」
「知らない」
「眠れないとき、どんな歌を歌うかも」
「知らない」
小春の白い腕が。
少しずつ太くなる。
「それで家族?」
「家族とは言っていない」
冬真は律を見ない。
小春だけを見る。
「今、一緒に戻る相手だ」
律の目が僅かに揺れた。
小春の笑顔が消える。
「お兄ちゃんは小春のもの」
「人間は物じゃない」
両目を持つ冬真が。
初めて口を開いた。
「お前が言うのか」
現在の冬真と。
原記録の冬真。
同じ声。
同じ顔。
だが。
両目を持つ男の身体には。
傷が一つもなかった。
「人間を固定点にした」
原記録の冬真が言う。
「六万人を、現在住民へ分散した」
「捨てるよりはましだ」
「現在の住民が死ねば?」
「次を探す」
「全員が拒否したら?」
「別の方法を探す」
「そのたびに人が死ぬ」
「ああ」
「いつまで続ける」
「止めるまでだ」
原記録の冬真は。
僅かに笑った。
「俺と同じだ」
「違う」
「どこが」
「お前は」
現在の冬真が。
欠けた黒い刀を構える。
「先に、捨てる数を決める」
教室の空気が重くなる。
児童たちの鉛筆が。
一斉に止まった。
原記録の冬真は。
赤い眼球を持ち上げる。
「それでも、俺を殺すしかない」
「理由を言え」
「俺は原都市の覚醒核だ」
「殺せば眠る?」
「九百万人の生体化が停止する」
「殺した人間は」
「新しい管理者になる」
真白の銃口が。
原記録の冬真へ向く。
「それ、聞いてないけど」
「今言った」
「冬真に管理者を押しつける気?」
「瀬名冬真以外には継承できない」
原記録の冬真の視線。
現在の冬真の失われた右目へ。
「俺を殺せば、赤い眼はお前へ戻る」
「未来残響も?」
「それ以上だ」
「九百万人の記録」
澪が言う。
「十二の消失区」
「外側の観測」
原記録の冬真が続ける。
「すべてを見られる」
「冬真の人格は維持されますか」
「保証できない」
真白の指が。
引き金へ力を込める。
「やっぱり罠じゃん」
「罠ではない」
「冬真が冬真じゃなくなるなら同じでしょ」
「現在の一個体と、二千万人の生存」
「数の話をするな」
真白の声が低くなる。
「それで何回失敗したの」
原記録の冬真が。
真白を見る。
「柊真白」
真白の目が細くなる。
「俺のことも知ってる?」
「百八十七回死んだ」
教室の空気が止まる。
「冬真の前で七十二回」
「黙れ」
現在の冬真が言った。
「残りは、冬真が間に合わなかった」
「黙れ」
「最後に言う言葉も」
原記録の冬真は。
淡々と続ける。
「ほとんど同じだった」
真白の顔色が。
僅かに失われる。
「何て?」
「聞くな」
冬真が一歩前へ出る。
「お前を忘れたくない」
原記録の冬真が答えた。
真白の呼吸が止まった。
現在の冬真の刀が。
床を断った。
原記録の冬真が立っていた場所。
机ごと。
深く裂ける。
だが。
男はすでに。
教室の反対側へ移動していた。
「未来を見た」
真白が銃を向け直す。
「違う」
冬真だけが理解する。
原記録の男は。
攻撃される前から。
そこにいなかった。
赤い眼が見ている。
選ばれなかった無数の現在。
そこから。
自分が立つ場所を選び直した。
「俺が使っていた未来残響より上だ」
「正確には」
原記録の冬真が。
赤い眼を自分の右目へ重ねる。
「これが本来の使い方だ」
透明な糸が。
教室中へ広がった。
真白が撃つ。
弾丸。
原記録の冬真の額へ。
命中する直前。
男の位置が変わる。
弾丸は。
空の椅子を撃ち抜いた。
二発目。
三発目。
撃つたびに。
原記録の冬真は。
最初から別の場所にいたことになる。
「撃つ前に移動してる」
真白が歯を食いしばる。
「移動ではありません」
澪が端末を見る。
「自身の現在位置を、観測済みの別記録へ差し替えています」
久世が散弾を放つ。
教室全体。
逃げ場を潰す。
机。
窓。
壁。
児童たちまで射線へ入る。
久世は撃つ直前。
銃身を天井へ逸らした。
撃てない。
原記録の冬真は。
それも知っていた。
「仲間を守る」
男が言う。
「民間人を撃たない」
「負傷者を捨てない」
「正しい」
赤い眼が開く。
「だから遅い」
児童たちの身体から。
白い腕が伸びた。
護衛隊員の一人。
腕。
脚。
首を掴まれる。
「助け――」
引かれた。
身体が。
三方向へ裂ける。
腕。
両脚。
胴。
制服を着た児童たちへ。
血と臓器が降りかかる。
児童は。
顔色一つ変えずに授業を続けた。
別の隊員。
白い腕が口へ入る。
喉を通り。
腹の内側から指が広がる。
胃。
腸。
肝臓。
臓器を掴んだ腕が。
口から一気に引き抜いた。
隊員が崩れる。
真白が銃を撃つ。
白い腕を断つ。
だが。
児童の身体から。
次々に生える。
「生徒を撃たなければ止まらない」
原記録の冬真が言う。
「選べ」
「お前を斬る」
冬真の刀が。
空中へ浮く。
右手を離れ。
原記録の冬真へ飛ぶ。
男の位置が変わる。
刀が外れる。
再び向きを変える。
また外れる。
「現在を手繰る力」
原記録の冬真は。
少し興味を示した。
「だが、俺には届かない」
「そうか」
冬真は。
原記録の男を見ていなかった。
赤い眼。
そこから伸びる透明な糸。
十二の消失区。
九百万人。
小春。
原記録の冬真。
すべての中心。
未来を見ているのは。
男ではない。
赤い眼だ。
「真白」
「何」
「窓を撃て」
「どこ」
「全部」
真白は迷わなかった。
教室の窓へ。
残弾を撃ち込む。
一枚。
二枚。
全窓が砕ける。
昼の光。
外の校庭。
街を歩く九百万人。
教室を見ている。
無数の眼。
赤い眼の観測へ。
別の現在が流れ込む。
「澪」
「はい」
「全員の視界を繋げ」
「九百万人です」
「一秒でいい」
「処理できません」
「俺へ寄越せ」
澪は。
一瞬だけ躊躇した。
「冬真の脳が耐えません」
「今は心臓も止まってる」
「関係ありません」
「急げ」
澪が端末を床へ接続する。
原都市。
九百万人の視界。
会社員。
子供。
母親。
老人。
教師。
人間一人ずつが。
教室の中を見る。
原記録の冬真。
無数の角度。
無数の現在。
赤い眼は。
未来を選ぶため。
観測されていない位置を探す。
だが。
九百万人が。
あらゆる場所を見ている。
「逃げる現在がない」
原記録の冬真の表情が。
初めて変わった。
「お前――」
冬真は。
宙に浮いた黒い刀を手繰る。
原記録の冬真ではない。
赤い眼へ。
刃が走る。
男が右手で守る。
刀が手のひらを貫く。
赤い眼球の直前で止まる。
「久世さん!」
散弾銃。
原記録の冬真の脚へ。
今度は避けられない。
右膝が砕ける。
真白の銃。
左肩。
血が飛ぶ。
原記録の冬真が。
初めて床へ膝をついた。
それでも。
赤い眼球は離さない。
「殺せ」
男が言う。
「今ならできる」
冬真は。
原記録の冬真の前へ立つ。
刀は。
男の手を貫いたまま。
「殺せば、お前が継ぐ」
「ああ」
「九百万人は眠る」
「ああ」
「外側も見える」
「ああ」
「なら」
「殺さない」
原記録の冬真が。
冬真を見る。
「なぜ」
「お前が」
冬真は刀を横へ引いた。
原記録の右手が裂ける。
赤い眼球が宙へ落ちた。
「殺してほしがっている」
黒い刃が。
赤い眼球から伸びる。
透明な糸だけを断つ。
一本。
十二。
百。
九百万人。
すべてではない。
だが。
原記録の冬真と赤い眼を繋いでいた線が切れる。
「継承の条件は」
冬真が言う。
「俺がお前を殺すことじゃない」
赤い眼球を。
床へ落ちる前に。
真白が撃った。
弾丸は眼球を外し。
その下の床だけを砕く。
眼球が。
地下へ落下する。
「俺が、殺したと思うことだ」
原記録の冬真の顔から。
初めて。
余裕が消えた。
「管理者を自分で選ばせる」
冬真は男を見下ろす。
「また同じことをさせる気だった」
教室の時計。
針が動く。
二時十三分から。
一分だけ進んだ。
二時十四分。
原都市全体が。
大きく揺れた。
児童たちの身体から伸びていた白い腕が止まる。
小春が。
窓際の席で胸を押さえた。
「痛い」
律が駆け寄る。
「小春!」
「来ないで!」
少女の口から。
白い指が一本出る。
次に。
黒い指。
白い腕ではない。
巨大な眼の向こうにいた。
別の何か。
「切れたから」
小春が泣きながら言う。
「見つけた」
床。
赤い眼球が落ちた穴の底から。
声が響く。
『十三番目の観測者を確認』
原記録の冬真が。
血に濡れた手で立ち上がる。
「遅かった」
「何が」
「俺を殺さなければ」
男は。
地下へ開いた穴を見る。
「眼の所有者が空席になる」
校舎中の窓へ。
銀色の瞳孔が現れた。
一つ。
百。
九百万人全員の瞳へ。
外側の眼が宿る。
「次の管理者を」
原記録の冬真が言う。
「原都市が選ぶ」
校内放送。
九百万人の声。
『管理者候補を照合』
冬真。
原記録の冬真。
雨宮律。
雨宮小春。
四人の名前が。
黒板へ浮かぶ。
そして。
一つずつ消えていく。
原記録の冬真。
不適合。
雨宮律。
記録不足。
瀬名冬真。
死亡済。
最後に。
一人だけ残った。
雨宮小春。
『十三番目の管理者を決定』
小春の胸から。
白い腕が一斉に伸びる。
兄の律を。
冬真を。
真白を。
教室中の人間を押し退ける。
少女の身体が。
宙へ持ち上がった。
「小春!」
律が手を伸ばす。
あと少し。
届かない。
冬真が。
律の腕を掴む。
「引け」
「何を」
「妹を」
「届かない!」
「お前だけじゃない」
冬真は右手を伸ばす。
真白。
久世。
澪。
律。
名前を取り戻した者たち。
現在の糸を束ねる。
白い腕に囲まれた。
雨宮小春へ。
「全員で引く」
律の指先が。
小春の手へ触れた。
同時に。
地下から伸びた黒い指が。
少女の足首を掴む。
上。
現在。
下。
外側。
二つの力が。
七歳の身体を引き合う。
小春が絶叫した。
肩関節が外れる。
片脚の皮膚が裂ける。
細い骨が。
白い服を突き破る。
それでも。
黒い指は離さない。
「お兄ちゃん!」
「離さない!」
律の腕が。
透明になり始める。
能力。
自分自身を記録から消し。
外側の手をすり抜けようとしている。
「使うな!」
冬真が叫ぶ。
「これしかない!」
「小春からも忘れられる!」
律の動きが止まる。
「それでも!」
少女の脚が。
さらに裂ける。
血ではなく。
白い紙。
九百万人の家族記録が溢れ出す。
「連れて帰る!」
律の身体が消える。
腕。
肩。
顔。
存在が薄くなる。
黒い指が。
律を認識できなくなる。
力が緩んだ。
冬真は。
その一瞬を手繰り寄せる。
「真白!」
銃声。
黒い指の関節。
弾丸が貫く。
久世の散弾。
澪が示した亀裂へ集中する。
指が千切れた。
「引け!」
小春の身体が。
教室側へ飛ぶ。
律が受け止める。
二人で床へ転がった。
黒い指は。
地下へ戻らない。
切断面から。
さらに細い指を何十本も生やす。
校舎の床を掴む。
教室全体を。
穴の中へ引きずり込もうとする。
原記録の冬真が。
赤い眼の落ちた穴へ飛び込んだ。
「待て!」
現在の冬真が叫ぶ。
男は振り返らない。
「眼は俺が戻す」
「外側へ返すのか」
「違う」
原記録の冬真は。
暗闇へ落ちながら答えた。
「今度こそ、盗みきる」
その姿が消える。
地下。
母床中枢から。
九百万人分の悲鳴が上がった。
教室の時計。
午前ではない。
午後でもない。
二時十四分。
秒針だけが。
逆向きに動き始める。
正午まで。
残り五十三分。
九百万人を眠らせる前に。
原都市そのものが。
外側へ落ち始めていた。




