第23話 誰でもない街
階段を下りた先には。
昼の東京があった。
太陽。
青い空。
信号待ちの車。
歩道を埋める会社員と学生。
店先から漂う、焼きたてのパンの匂い。
駅前の大型画面では、午後の天気予報が流れている。
『本日の東京都心は、夜にかけて穏やかな天候が続くでしょう』
穏やかな。
あまりにも普通の声だった。
昨夜から続く消失区も。
空に浮かぶ未来都市も。
武装した帰還連合も存在しない。
誰も空を警戒せず。
誰も銃を持っていない。
笑いながら歩く人間。
信号を無視して走る自転車。
店先で値段を貼り替える従業員。
九百万人が暮らしていた。
切除される前の東京で。
「……本当にいた」
名前を失った白髪の男が呟いた。
自分が誰なのかは覚えていない。
それでも。
誰かを探していることだけは、身体の奥に残っている。
「記録です」
端末を持った少女が答える。
彼女も自分の名前を思い出せない。
「生体反応はありません」
端末に表示される数字。
九百八十二万六千四百十一。
だが。
目の前を歩く人々には。
体温も。
呼吸も。
影もある。
歩道の端。
幼い子供が転んだ。
膝を擦りむき。
赤い血を流して泣き出す。
母親が駆け寄り。
傷へハンカチを当てる。
それすら。
死者の記録が再現しているだけだった。
「触れるな」
散弾銃を背負った男が言った。
彼が指揮官だったことは分かる。
名前は出てこない。
互いの所属も。
階級も。
すべて消えている。
「ここの住民に認識されれば、空いている記録へ入れられる可能性がある」
黒い刀を持つ青年が。
自分の左手を見る。
手袋には。
誰かが書いたはずの文字が残っていた。
だが。
読めない。
ただの黒い線。
「あなたは」
長い銃を持った少女が、青年の右側へ立つ。
「私の近くにいて」
「なぜ」
「分からない」
少女は少し困った顔をした。
「でも、この位置にいないと落ち着かない」
青年も。
同じだった。
右側に彼女がいる。
それが自然に感じられる。
「離れるな」
「そっちも」
名前はない。
それでも。
関係まで完全には消えていなかった。
◇
商店街の時計は。
午前十時三十二分を示していた。
外の東京と。
一分しか違わない。
携帯端末は通じない。
地図には現在地が表示されず。
道路名もすべて空欄。
それでも街は。
何事もないように動き続ける。
「正午まで、残り一時間二十八分」
端末の少女が言った。
「どうして正午だと分かる」
指揮官の男が尋ねる。
「端末に記録しています」
「俺たちが何をする予定だったかは」
「十三番目を眠らせる」
「方法は」
「不明です」
「お前、以前からそういう答え方だった気がするな」
「おそらく」
長銃の少女が小さく笑った。
「それも言ってそう」
「あなたも、よく話す人だったと思います」
「褒めてる?」
「事実です」
「褒めてないね」
黒い刀の青年は。
上着の内側へ手を入れた。
固いものが指に触れる。
取り出す。
パンだった。
少し潰れている。
地下へ入る前。
どこかで受け取ったもの。
まだ。
僅かに温かい。
「それ、どこで買ったの」
長銃の少女が尋ねる。
「分からない」
「食べる?」
「金を払っていない気がする」
「覚えてないなら無料じゃない?」
「後で払うと約束した」
「それは覚えてるんだ」
店も。
相手の顔も思い出せない。
だが。
約束した感覚だけがある。
青年はパンをしまった。
「戻る」
「うん」
少女は。
その答えを聞いて、少し安心したようだった。
◇
最初に声をかけてきたのは。
買い物籠を持った老女だった。
「あら」
老女が長銃の少女を見る。
「美紀ちゃんじゃない」
少女の足が止まった。
「……私?」
「どうしたの、その格好」
老女は笑いながら近づく。
「お母さん、心配してたわよ」
「母……」
少女の瞳に。
知らない家が映った。
小さな食卓。
魚の焼ける匂い。
台所に立つ女。
制服姿の自分。
玄関で靴を脱ぎ。
母親へ「ただいま」と言う記憶。
「美紀ちゃん」
老女がもう一度呼ぶ。
少女の長銃が。
僅かに下がった。
「家に帰りましょう」
老女が手を伸ばす。
黒い刀の青年が。
その手首を掴んだ。
「触るな」
「あら?」
老女が青年を見る。
「あなたは誰?」
「分からない」
「名前もないの?」
「ああ」
「可哀想に」
老女の口元が。
不自然に横へ広がった。
「では、付けてあげないと」
皮膚が裂ける。
口の中から。
赤い紙片が何枚も伸びた。
紙には。
人間の名前が書かれている。
「下がれ!」
指揮官が散弾銃を向ける。
老女の腕が。
黒い刀の青年の影へ触れた。
足元に。
赤い文字が浮かぶ。
――遠山修一。
知らない名前。
同時に。
青年の頭の中へ人生が流れ込む。
三十八歳。
妻。
二人の子供。
建設会社。
借金。
事故。
午前十時三十二分。
仕事を抜け出し、愛人に会う途中。
「遠山さん」
老女が三度目の名を呼ぼうとする。
刃が走った。
老女の顎から上が。
斜めに断たれる。
紙片が宙へ散る。
「その名前は」
青年は頭へ流れ込む人生を。
噛み殺すように息を吐いた。
「俺のものじゃない」
老女の身体が倒れる。
血は出ない。
肉の中には。
何千枚もの住民票が詰まっていた。
一枚ずつ。
道路へ舞い落ちる。
周囲の人々が立ち止まった。
会社員。
学生。
店員。
母親。
全員が。
同時に青年たちを見る。
「住民登録の不一致を確認」
何十人もの口が。
同じ声で動く。
「訂正を開始します」
◇
人々は。
叫びもせずに襲ってきた。
会社員が鞄から赤い印鑑を抜く。
学生が定規を刃物のように構える。
自転車に乗った男が、速度を落とさず突っ込んでくる。
動きは普通の人間。
だが。
街全体が一つの意志で動いていた。
「殺すな!」
指揮官が叫ぶ。
「記録でも、無関係な住民を巻き込むな!」
「向こうは殺しに来てるよ!」
長銃の少女が。
自転車の前輪だけを撃ち抜く。
男が道路へ投げ出される。
首が不自然に折れた。
それでも。
頭を背中へ垂らしたまま立ち上がる。
「訂正対象」
折れた首から声がする。
「氏名、相原美紀」
「違う!」
少女が撃つ。
肩。
膝。
撃たれた男は倒れない。
「相原美紀」
二度目。
少女の銃身に。
赤い文字が浮かんだ。
――陸上競技用具。
「何これ」
引き金を引く。
銃声はしない。
長銃が。
金属製の棒へ変わっていた。
「武器の記録を書き換えられた!」
端末の少女が叫ぶ。
自分の機器を見る。
画面には。
端末ではなく《児童用計算機》と表示されている。
観測機能が消える。
「相原美紀」
三度目。
住民たちが。
一斉に少女の名を呼ぶ。
少女の戦闘装備が。
制服へ変わり始める。
長い髪。
見知らぬ学校の校章。
肩の傷も。
鍛えた指も薄れていく。
「おい」
黒い刀の青年が。
少女の手を掴んだ。
「こっちを見ろ」
「私、学校に……」
「違う」
「遅刻する」
「お前は」
名前が出ない。
何者だったか。
自分も覚えていない。
それでも。
知っている。
「俺の右側に立つ」
少女の目が揺れた。
「右……」
「武器は長い銃」
「銃?」
「俺が見えない場所を撃つ」
少女の制服が止まる。
「私は……」
「美紀じゃない」
青年は。
彼女の手袋に残った。
読めない文字を指でなぞる。
「誰かが、ここに書いた」
少女の目に。
見知らぬ母親ではなく。
片目を失った青年の横顔が映る。
「あなたの名前も」
「読めない」
「私が書いた気がする」
「ああ」
「字、綺麗だった?」
「たぶん」
「嘘」
少女は。
金属棒へ変わった銃を構え直した。
「私、そんなに自信ない」
引き金へ指を置く。
武器としての名前は失われている。
だが。
指は。
撃ち方を覚えていた。
銃声。
弾丸が出た。
住民の一人が持つ印鑑を。
正確に砕く。
「出た」
「当然だ」
「さっき撃てなかったんだけど」
「今は撃てた」
「雑な励まし方」
「効いた」
少女は。
僅かに笑った。
「右、任せて」
「ああ」
◇
街の奥から。
黒い車が現れた。
側面には。
《東京都住民記録訂正課》と書かれている。
扉が開く。
灰色の制服を着た女が降りた。
三十代ほど。
手には。
赤い印鑑を取り付けた長い杖。
胸元の名札。
《主任校正官・篠宮朋子》。
「不正侵入者、五名」
篠宮が言う。
「うち一名は既存記録との重複が多数」
視線が。
黒い刀の青年へ向く。
「管理者記録を照合します」
青年の足元へ。
複数の名前が現れた。
瀬名冬真。
第一帰還者。
時象切除管理者。
原記録。
第六封鎖班班長。
数字。
年齢。
所属。
異なる人生。
「該当記録、二百十三件」
篠宮が杖を構える。
「重複個体を抹消します」
名前を失っているはずの青年へ。
赤い印鑑が押された。
空中。
彼の胸の正面へ。
――死亡済。
心臓が止まった。
青年の身体が。
前へ倒れる。
「冬――」
長銃の少女の口から。
名前の一部が漏れた。
思い出せない。
それでも。
身体が動く。
倒れる青年を抱える。
「起きて!」
返事はない。
脈も。
呼吸もない。
「死亡記録の適用を確認」
篠宮が次の印鑑を向ける。
「残る不正個体を訂正します」
指揮官の男が前へ出る。
散弾銃を撃つ。
弾丸は。
篠宮の直前で停止した。
空中に。
《処理済》の赤い印が浮かんでいる。
「同一攻撃は登録済みです」
篠宮が杖を振る。
赤い印が指揮官の胸へ。
――退職。
男の装備が消える。
散弾銃が手から落ちる。
身体から。
戦闘の経験が薄れていく。
「何年も前に現場を離れた」
篠宮が告げる。
「あなたは、ここで戦えない」
男の膝が揺れる。
構え方を忘れる。
端末の少女へ。
――未就学。
文字。
数字。
言葉。
観測能力が消えていく。
少女は端末を落とし。
幼児のような目で周囲を見た。
白髪の男へ。
――存在記録なし。
身体が透け始める。
「強い……」
長銃の少女が。
動かない青年を支えながら呟いた。
一人。
たった一人の校正官に。
部隊全体が書き換えられていく。
「訂正を完了します」
篠宮が。
少女へ杖を向けた。
「相原美紀」
「違う」
「母親が待っています」
「知らない」
「家へ戻りなさい」
少女の服が。
再び制服へ変わる。
長銃が消える。
指先から。
銃創の痕も。
訓練の硬さもなくなる。
「違う……」
声が弱くなる。
「私は」
腕の中。
死んだ青年の胸元。
服の内側から。
紙に包まれたパンが落ちた。
道路へ転がる。
包装が開く。
焼いた小麦と。
バターの匂い。
「後で……」
少女の口が動く。
「何?」
篠宮が尋ねる。
「後で払うって」
青年は言っていた。
戻ると。
誰かと約束した。
「この人は」
少女は動かない青年を見る。
「まだ、戻ってない」
篠宮の杖が落ちる。
少女の肩へ。
その直前。
死んでいた青年の左手が。
赤い杖を掴んだ。
「なぜ」
篠宮の表情が。
初めて変わる。
「死亡済みです」
青年は。
顔を上げた。
呼吸はない。
心臓も動いていない。
それでも。
左目だけが。
篠宮を見ている。
「名前を消して入った」
掴んだ杖を引き寄せる。
「誰を殺した」
篠宮の身体が前へ崩れる。
青年の額が。
女の鼻へ叩き込まれた。
骨が砕ける。
「死亡記録を適用しました!」
「記録の俺は死んだ」
青年は刀を抜く。
「今の俺じゃない」
刃が。
篠宮の杖を根元から断つ。
赤い印鑑が宙へ飛ぶ。
篠宮は即座に後退。
制服の袖から。
何十枚もの死亡届を放つ。
紙が刃となり。
青年の首。
胸。
脚へ迫る。
「右!」
長銃の少女が叫ぶ。
青年は身体を沈める。
右側から来た紙刃が。
髪を数本断った。
前へ。
二歩。
篠宮の懐。
女は新しい印鑑を抜く。
――存在不明。
印が青年の額へ触れる。
だが。
発動しない。
「なぜ……」
「最初から」
青年の黒い刃が。
篠宮の右腕を杖ごと断つ。
「誰でもない」
切断された腕が。
道路へ落ちる。
傷口から血ではなく。
大量の戸籍用紙が噴き出した。
篠宮が左手を伸ばす。
青年の顔へ触れる。
「あなたは」
指が。
失われた右目の包帯へ触れた。
「瀬名――」
長銃の少女が。
名前を言わせる前に撃った。
弾丸が篠宮の顎を砕く。
女の口が飛ぶ。
青年の刃が。
胸元の名札へ入る。
《篠宮朋子》。
名前だけを。
断つ。
女の身体が止まった。
表情が消える。
自分が誰か分からなくなったまま。
道路へ崩れ落ちた。
周囲の住民たちも。
一斉に動きを止める。
数秒後。
何事もなかったように。
会社へ。
学校へ。
買い物へ戻っていく。
道路には。
戸籍用紙でできた死体だけが残った。
◇
「心臓」
長銃の少女が青年の胸へ手を当てる。
「動いてない」
「そうか」
「そうかじゃない」
「だが動ける」
「何で」
「分からない」
端末の少女が。
幼い状態のまま青年へ近づく。
手を胸へ当てる。
「死亡という記録だけが適用されています」
言葉は拙い。
それでも。
観測能力の残滓で理解したらしい。
「身体機能は、まだ生存時のものです」
「いつまで」
「分かりません」
「お前、本当にその答えが多いな」
指揮官の男が。
失った戦闘経験を少しずつ取り戻しながら立ち上がる。
「名前は思い出せなくても、そこは覚えてる」
「おそらく、以前からです」
白髪の男は。
半透明の身体で膝をついていた。
「小春」
その一言だけを。
何度も繰り返している。
存在記録が薄れ。
声も小さくなっていく。
「急ぐぞ」
青年が言う。
「死亡記録は」
長銃の少女が尋ねる。
「中枢へ行けば外せるかもしれない」
「外せなかったら」
「そのとき考える」
「あなた、そういう人だった?」
「お前に言われた気がする」
少女は。
少しだけ笑った。
「たぶん、そう」
◇
住民記録訂正課の車内には。
一枚の地図が残されていた。
深町第二小学校。
地下母床管理口。
現在地から。
徒歩十二分。
街の中心にある。
ごく普通の小学校だった。
校庭では。
子供たちが体育の授業を受けている。
笛。
笑い声。
白線。
鉄棒。
校舎の窓から。
授業中の児童たちが見える。
正門の時計。
午前十時四十四分。
外の東京より。
十三分進んでいた。
「中枢反応」
端末の少女が。
少しずつ戻り始めた知識で告げる。
「校舎地下です」
「生体反応は」
「九百八十二万六千四百十一」
「さっきはゼロだった」
「全個体が、同時に生体化しています」
校庭の子供たちが。
一斉に動きを止めた。
教師の笛も止まる。
校舎。
廊下。
教室。
九百万人が。
同じ瞬間に。
小学校の正門へ顔を向けた。
放送設備から。
女教師の声が流れる。
『転入生の皆さん』
正門が。
ゆっくりと開く。
『お待ちしていました』
校舎中央。
二階の教室。
一人の少女が。
窓際の席へ座っている。
七歳ほど。
肩までの黒髪。
白い服。
顔に。
黒い仮面はない。
白髪の男が。
少女を見上げた。
名前を失い。
記憶もほとんど消えている。
それでも。
唇が動いた。
「小春」
少女は。
嬉しそうに笑った。
だが。
その胸からは。
何十本もの白い腕が伸びていた。
『お兄ちゃん』
校内放送を通して。
九百万人の声が重なる。
『やっと、忘れてくれたね』




