第22話 名前のない道
午前十時四分。
深町へ向かう装甲車の窓から、昼の東京が見えた。
歩道では。
作業服姿の男たちが、道路へ散らばったガラスを箒で集めている。
半壊した喫茶店は。
窓へ板を打ちつけたまま、紙の看板を出していた。
――コーヒーあります。
その隣。
未来の高架橋が、現在のビルを貫いている。
錆びた線路の上には。
頭部のない人影が並び。
通過する車列を見下ろしていた。
人々は。
もう立ち止まって見上げてはいなかった。
「慣れるの、早いね」
柊真白が窓の外を見ていた。
「慣れたわけじゃない」
久世玲司が前方を確認しながら答える。
「見ている余裕がないだけだ」
信号が青へ変わる。
一般車両は一台もいない。
それでも。
横断歩道を。
ランドセルを背負った少年が渡っていく。
母親らしき女が手を引いていた。
「学校へ行くのか」
冬真が呟く。
「避難所の臨時教室じゃない?」
真白が答える。
「ランドセル持って逃げたんだね」
「重いだろ」
「そこ気にするんだ」
「必要なものなのか」
「人によるんじゃない」
冬真は少年の背中を見る。
ランドセルの横へ。
小さな熊の飾りが揺れている。
何の役にも立たない。
だが。
少年にとっては。
持ってくる必要があったのかもしれない。
「冬真は、避難するとき何持ってく?」
「刀」
「そういう質問じゃない」
「ほかにない」
「本当に?」
「ああ」
真白は少し考える。
「じゃあ、私は砂糖持つ」
「自分の分だけか」
「冬真の分も」
「いらない」
「二本入れてたくせに」
向かいの席。
雨宮律が。
会話を聞きながら、小さな飴を指先で転がしていた。
統合本部の女性隊員が。
出発前に渡したものだった。
「食べないのか」
冬真が尋ねる。
「好きか分からない」
「食べれば分かる」
「嫌いだった場合は」
「次から食べなければいい」
雨宮は包装を開けた。
透明な飴を口へ入れる。
数秒。
「甘い」
「見れば分かる」
真白が言う。
「その言い方、冬真に似てる」
「誰?」
雨宮が聞き返した。
真白の表情が止まる。
雨宮は。
冬真を正面から見ている。
「……瀬名冬真」
名を口にして。
眉を寄せた。
「今、一瞬分からなかった」
水城澪が端末を見る。
「記録欠損を確認」
「能力を使ったのか」
久世が問う。
「使っていません」
雨宮の顔色が悪くなる。
「勝手に消えた」
車載端末。
地図から。
《深町》の文字が消えていた。
◇
「全車停止」
久世の命令で。
車列が道路脇へ止まった。
深町まで。
残り一・八キロ。
表示上は。
そうなっていた。
だが。
前方標識には。
地名が一つもない。
白い板。
矢印だけが。
何も指さずに並んでいる。
店の看板。
病院。
銀行。
コンビニ。
すべて。
文字だけが抜け落ちていた。
建物はある。
人もいる。
それなのに。
何のための場所か分からない。
「ここ、さっき通った?」
真白が窓の外を見る。
「通っていない」
冬真が答える。
「本当に?」
「同じ景色ではなかった」
「でも、あの自転車」
歩道脇。
倒れた青い自転車。
前籠には。
割れた卵が入っている。
その横に。
一人の女が立っていた。
三十代ほど。
買い物袋を持ったまま。
道路を見回している。
「すみません」
女が車列へ近づいてきた。
「ここ、どこでしょうか」
警備員が答える。
「深町です」
「深町?」
「はい」
「何県ですか」
警備員の顔が強張る。
「東京都です」
「東京……」
女は自分の手を見る。
「私は、どうしてここにいるんでしょう」
「お名前は」
「名前……」
女の口が動く。
声が出ない。
買い物袋が落ちる。
牛乳。
豆腐。
子供用の菓子。
舗装された道路へ散らばる。
「誰の買い物だろう」
女は。
泣いていることにも気づいていなかった。
「保護しろ」
久世が警備員へ命じる。
「深町へ入ってからの記憶が欠落しています」
澪が周辺を観測する。
「範囲は不明。文字情報だけではなく、個人識別記録も低下中」
「無名帯」
雨宮が呟いた。
「知っているのか」
「知らない」
「今、名前を」
「でも」
雨宮は自分の胸へ手を置く。
「身体が知ってる」
首の周囲。
黒い固定具を外した跡が。
赤く浮き上がっている。
「俺の能力は」
雨宮が白い標識を見る。
「ここから切り取ったものだ」
◇
車列は。
それ以上進めなかった。
エンジンは動く。
タイヤも回る。
しかし。
前へ進んだはずの車両が。
数分後には同じ交差点へ戻ってくる。
道を間違えたのではない。
どの道を選んだか。
記録できない。
「車両を置く」
久世が決めた。
「徒歩で深町へ入る」
「統合本部の指示は車列維持です」
護衛隊長が言う。
「ならここで待て」
「調査隊の監視任務があります」
「ついてこい」
「道が分かりません」
「俺たちもだ」
「それでは作戦にならない」
「止まっていても正午になる」
残り時間。
一時間三十七分。
久世の声に。
護衛隊長は黙った。
冬真たちは。
必要な装備だけを持ち。
車外へ降りる。
真白が。
細い油性ペンを取り出した。
「手、出して」
「何だ」
「名前書く」
「子供じゃない」
「忘れた人が言いそう」
冬真は左手を差し出した。
真白が手袋の甲へ。
ゆっくり文字を書く。
瀬名冬真。
「お前も書け」
「私は自分で書ける」
「右手に書くと撃てない」
「じゃあお願い」
真白が左手を出す。
冬真はペンを受け取り。
柊真白。
少し歪んだ文字。
「下手」
「読める」
「もう少し丁寧に」
「時間がない」
「こういうところ雑だよね」
澪は端末から。
識別帯を印刷している。
久世は自分の腕へ。
名前と所属を直接書いた。
雨宮だけが。
何もしていない。
「書かないのか」
冬真が尋ねる。
「消える」
「文字が?」
「俺の名前を書いたものは」
雨宮が手首を見せる。
古い傷。
何度も文字を刻んだ痕。
「少しすると、読めなくなる」
冬真は雨宮の腕を掴む。
「雨宮律」
「何を」
「俺が覚える」
「あなたも忘れる」
「そのときは、真白が呼ぶ」
真白が雨宮を見る。
「私?」
「得意だろ」
「何が」
「名前を呼ぶのが」
真白は数秒黙る。
冬真の手袋に書かれた名前を。
指先で軽くなぞった。
「……まあね」
◇
深町へ続く道は。
普通の住宅街だった。
二階建ての家。
公園。
小さなパン屋。
軒先に植木鉢。
洗濯物。
昨夜の戦闘が。
嘘のように静かだった。
パン屋の扉は開いている。
焼きたての匂いが。
道路まで流れている。
「営業してる?」
真白が店内を見る。
カウンターの奥。
白い服の男が。
パンを並べていた。
「いらっしゃいませ」
声は穏やか。
表情も普通だった。
「すみません」
真白が尋ねる。
「ここって、何ていうお店ですか」
男の手が止まる。
「店……」
自分の周囲を見る。
パン。
棚。
釜。
「これは、何でしょう」
「パンです」
「パン」
男は。
焼きたてのパンを一つ持ち上げる。
指で押す。
「温かいですね」
「毎朝焼いてるんじゃないですか」
「毎朝」
男の目から涙が落ちた。
「誰に食べさせていたんでしょう」
店の奥。
小さな椅子が二つ。
子供用の食器。
壁には。
家族写真が飾られている。
だが。
全員の顔が白く抜けていた。
「連れていくか」
護衛隊員が問う。
久世は首を振る。
「戻る道を固定できない」
「置いていくんですか」
「目印を残す」
店の前へ。
発信器を設置する。
光は点滅している。
表示名は。
すぐに消えた。
男は。
パンを冬真へ差し出した。
「食べますか」
「金を持っている」
「金?」
「代金だ」
「分かりません」
「では後で払う」
冬真はパンを受け取った。
「後で」
男が繰り返す。
「後というものは、来ますか」
冬真は答えなかった。
パンは。
まだ温かかった。
◇
最初の襲撃は。
公園の前で起きた。
護衛隊員が。
突然。
自分の銃を見下ろした。
「これは何だ」
「銃だ」
隣の隊員が答える。
「銃?」
引き金へ触れる。
「何のために」
「下ろせ」
「俺は」
隊員が周囲を見る。
「誰を守ってる」
公園の砂場。
遊具の影から。
人が出てきた。
背広姿。
制服。
主婦。
老人。
見た目は。
どこにでもいる人間。
だが。
全員の顔に。
目も。
鼻も。
口もなかった。
平らな皮膚。
首から上が。
人間の形だけを残している。
「接近反応、二十七」
澪が端末を向ける。
「識別不能」
「欠落体か」
「違います」
端末から。
敵を示す赤い点が消える。
「名称を取得できません」
顔のない一体が。
護衛隊員へ近づく。
手を伸ばし。
男の影へ触れた。
「触らせるな!」
久世が散弾銃を撃つ。
命中。
するはずだった。
引き金が落ちる。
音がしない。
散弾銃が。
ただの金属と木の塊に変わっていた。
「武器記録が消えた」
久世が即座に銃を捨てる。
顔のないものが。
隊員の影を掴む。
男の防護服から。
名前が消えた。
認識票が白くなる。
「俺は……」
隊員の声が震える。
「所属は」
次の瞬間。
周囲の護衛隊員たちが。
彼へ銃を向けた。
「誰だ!」
「侵入者!」
「違う、俺は――」
銃声。
胸へ三発。
隊員が倒れる。
撃った側は。
自分たちが仲間を殺したことに気づいていない。
「撃つな!」
久世が怒鳴る。
「識別できない相手へ発砲するな!」
顔のない人々が。
一斉に走り出した。
速い。
異形の動きではない。
訓練された兵士のように。
道路。
塀。
車体の陰を使い。
正確に距離を詰めてくる。
真白が狙撃銃を構える。
照準器。
倍率。
風向き。
すべての表示が消える。
「銃の名前が消えても」
真白は左目だけで銃身の先を見る。
「弾は出るでしょ」
撃つ。
顔のない人間の膝が砕けた。
倒れない。
痛みを知らないのではない。
脚という名称を失い。
損傷した意味を理解していない。
折れた骨を引きずりながら。
前へ進む。
「頭部を!」
澪が叫ぶ。
真白が撃つ。
首から上が消し飛ぶ。
それでも。
身体は走り続けた。
「中枢がない!」
一体が冬真へ迫る。
刀を抜く。
黒い刃に。
刻まれていた製造番号が消えた。
柄の意味。
刃の役割。
武器としての記録が。
薄れていく。
冬真は。
そのまま振った。
刃が。
顔のない人間の胴を斜めに断つ。
上半身が道路へ落ちる。
「使えるの?」
真白が右側の敵を撃ちながら尋ねる。
「名前がなくても」
冬真は刀を返す。
「斬れる」
右から。
三体。
「右、三!」
真白の声。
冬真は振り向かない。
一歩踏み込み。
最初の喉を断つ。
二体目の腕を落とす。
三体目。
胸元へ。
何も書かれていない認識票。
冬真の刃が触れる直前。
そいつが。
初めて声を出した。
「瀬名冬真」
刀が止まる。
顔のない頭部に。
細い裂け目が開いた。
「お前は、ここで名前を捨てた」
久世が背後から。
金属塊になった散弾銃で頭部を殴り潰した。
「聞くな」
久世の手には。
骨と皮膚が付着している。
「今のは」
「記録を揺らすための声だ」
「知っている名前だった」
「だからだ」
顔のないものたちが。
冬真だけを向く。
一斉に。
口のない顔へ裂け目を作る。
「瀬名冬真」
「管理者」
「第一帰還者」
「切除者」
「原記録」
「外への扉」
複数の呼び名。
異なる冬真。
どれが現在か。
分からなくなる。
左目の景色が揺れた。
「冬真」
真白の声。
近い。
右側。
「今はどれ」
冬真は息を吸う。
「十九歳」
「所属」
「第六封鎖班」
「右目」
「ない」
「私の名前」
「柊真白」
「よし」
真白の銃声。
冬真へ伸びていた腕が弾ける。
「それだけ覚えてればいい」
「ああ」
冬真の刀が。
次の一体を横へ断った。
◇
顔のない人々は。
倒しても増え続けた。
住宅の中から。
車の下から。
普通の服を着て。
次々に現れる。
「前進不能!」
護衛隊長が叫ぶ。
「残弾、半分!」
「撤退路は」
「記録できません!」
隊員の一人が。
自分の腕へ書いた名前を見た。
文字が滲んでいる。
「俺の名前、何だ」
隣の隊員が答えようとする。
口が動かない。
思い出せない。
「誰か……」
男の呼吸が速くなる。
「俺を知ってる奴は」
顔のないものが近づく。
隊員は銃を自分の顎へ当てた。
「知らない人間になる前に――」
久世が銃身を蹴り上げる。
弾丸が空へ抜ける。
「生きてから決めろ」
「でも、俺は」
「腕を見せろ」
久世が滲んだ文字を読む。
「島田孝介」
「本当に?」
「俺が決めた」
「そんな」
「不満なら戻って確認しろ」
島田の目に。
僅かに意識が戻る。
だが。
顔のない群れは止まらない。
「雨宮」
冬真が呼ぶ。
返事がない。
雨宮は。
道路の中央に立っていた。
周囲の顔のない人々が。
彼だけを避けている。
「律!」
真白が叫ぶ。
雨宮の身体が震える。
「……俺?」
「そう!」
「名前は」
「雨宮律!」
雨宮が自分の手を見る。
「ここは」
「深町!」
「何をしに」
「妹を探しに来た!」
雨宮の目が開く。
「小春」
名前を口にした瞬間。
顔のない群れが。
一斉に雨宮へ向いた。
今まで避けていたのではない。
識別できていなかった。
名前を持ったことで。
標的になった。
「俺の能力と同じなら」
雨宮が群れを見る。
「消せる」
「数が多い」
澪が言う。
「一体ずつでは間に合いません」
「一体じゃない」
雨宮は地面へ手を置いた。
「この道を消す」
「何を言っている」
冬真が一歩近づく。
「道がなくなれば」
雨宮の指先から。
銀色の線が広がる。
「こいつらも、追えない」
「俺たちも戻れない」
「戻るつもりで来たんですか」
冬真は答えない。
雨宮が僅かに笑う。
「七秒」
「代償は」
「分からない」
「何を失う」
「まだ残っているもの」
「やめろ」
「時間がない」
雨宮の声は。
初めて強かった。
「俺は妹の顔も、声も忘れた」
銀色の線が。
道路。
家。
公園。
交差点へ広がる。
「でも、探していたことは覚えている」
「それまで消えたら」
「あなたたちが言ってください」
「自分で覚えろ」
「できないから頼んでる」
顔のない人々が迫る。
真白の残弾。
残り六。
久世は武器を失っている。
護衛隊は半数が負傷。
雨宮は。
冬真を見る。
「瀬名冬真」
「何だ」
「俺を戻してください」
冬真は左手を伸ばす。
雨宮の腕を掴む。
「自分で戻れ」
「厳しいな」
「戻る道だけは繋ぐ」
雨宮が地面を見る。
「十分です」
能力が発動した。
七秒間。
道が世界から消えた。
◇
住宅街が消える。
家も。
公園も。
顔のない人々も。
冬真たちは。
何もない白い場所へ立っていた。
上下も。
距離もない。
隣にいるはずの真白さえ見えない。
「冬真!」
声だけ。
「ここだ」
「どこ!」
「分からない」
「返事になってない!」
一秒。
雨宮律という名前が。
冬真の中から薄れる。
二秒。
妹を探していた男。
それだけが残る。
三秒。
小春という名前が。
消えようとする。
「小春」
冬真が口にする。
「雨宮小春」
四秒。
見えない場所から。
雨宮の声。
「誰ですか」
「お前の妹だ」
「俺に妹が?」
「いる」
「どこに」
「深町」
五秒。
白い空間の先。
一点だけ。
黒い穴が現れる。
道を消したことで。
隠されていた目的地だけが残った。
地下へ続く。
階段。
入り口の上には。
何も書かれていない。
六秒。
冬真は。
真白の声を手繰る。
澪。
久世。
雨宮。
現在の音。
呼吸。
心臓。
離れた人間を。
黒い入口の前へ引き寄せる。
七秒。
世界が戻った。
住宅街は消えていない。
ただ。
冬真たちだけが。
別の場所へ移動していた。
古い商店街。
閉じた薬局。
錆びた街灯。
道路の中央に。
地下へ続く階段がある。
深町二丁目。
十三番目の座標。
護衛隊は。
十二人しか残っていなかった。
ほかの者は。
消された道の途中へ取り残された。
雨宮律が。
冬真の隣で膝をつく。
「名前は」
冬真が尋ねる。
雨宮は顔を上げる。
「雨宮……」
続きが出ない。
「律」
真白が言う。
「雨宮律」
雨宮は彼女を見る。
「あなたは」
「柊真白」
「俺たちは」
「妹を探しに来た」
「妹」
雨宮の目に。
何も浮かばない。
「名前は」
「小春」
冬真が答える。
雨宮は。
何度か口を動かした。
「小春」
それだけは。
残った。
◇
階段の前。
一枚の紙が落ちていた。
新しい。
誰かが。
つい先ほど置いたように。
白い紙へ。
黒い文字。
――名前を持ったまま入るな。
その下。
赤い文字。
――原都市は、覚えている者を住民へ戻す。
澪が地下を観測する。
「内部に、九百八十二万を超える個体記録」
「生体反応は」
「ゼロです」
「でも」
真白が暗い階段を見る。
「声がする」
下から。
朝の街の音が聞こえていた。
電車。
車。
信号機。
学校のチャイム。
店員の呼び込み。
人々の会話。
二十年前。
最初に切除された東京の日常。
「名前を持って入れば」
久世が紙を拾う。
「その中の誰かに上書きされる」
「消せば入れる」
雨宮が言った。
「何分」
冬真が尋ねる。
「全員分なら」
雨宮は地下を見つめる。
「十三分」
「能力限界は七秒だろ」
「ここなら違う」
「なぜ」
「俺の能力が生まれた場所だから」
雨宮が階段へ一歩近づく。
地下から。
少女の声が聞こえた。
「お兄ちゃん」
雨宮の身体が止まる。
幼い。
明るい声。
彼が昨夜失ったはずの。
妹の声。
「小春……?」
雨宮が階段へ駆け出そうとする。
冬真が肩を掴んだ。
「待て」
「いる!」
「そう聞こえるだけかもしれない」
「声を知ってる!」
「忘れたんだろ」
雨宮の表情が崩れる。
「じゃあ、誰の声ですか」
「分からない」
「放してください」
「駄目だ」
「妹がいる!」
雨宮の身体から。
銀色の光が溢れる。
冬真の指が。
肩を掴んだまま透け始める。
「冬真!」
真白が雨宮へ銃を向ける。
「撃つな」
「でも」
「こいつは敵じゃない」
雨宮が冬真を見る。
泣いていた。
「妹を探すことまで、奪わないでください」
冬真は。
掴んだ手を離さない。
「奪わない」
「なら」
「一緒に行く」
雨宮の光が止まる。
冬真は階段を見る。
九百万人の声。
最初の東京。
十三番目。
「名前を消す」
真白が冬真を見る。
「戻せるの?」
「分からない」
「またそれ」
「だが」
冬真は。
手袋に書かれた文字を見る。
瀬名冬真。
真白が書いた名前。
「消える前に覚えろ」
「誰を」
「俺を」
真白の目が。
僅かに見開かれる。
「それ、責任重くない?」
「得意なんだろ」
「忘れたら?」
「もう一度呼べ」
真白は数秒。
冬真の顔を見つめた。
「瀬名冬真」
ゆっくり。
確かめるように呼ぶ。
「十九歳。第六封鎖班。右目なし。砂糖二本」
「最後はいらない」
「大事」
雨宮が。
冬真たちへ手を伸ばす。
「始めます」
銀色の光が。
全員を包む。
名前。
所属。
過去。
現在。
少しずつ消えていく。
階段の下から。
学校のチャイムが鳴った。
午前十時三十一分。
最初の東京では。
何の変哲もない。
授業の途中だった。
冬真たちは。
名前を失ったまま。
九百万人が生きている街へ。
足を踏み入れた。




