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第20話 朝食のあとで

 午前八時を過ぎても。


 東京の空には、十二の消失区が残っていた。


 それでも。


 立川第三時象収容壕の地上では、朝食が配られている。


 紙皿。


 薄いスープ。


 固いパン。


 昨日まで会社員だった男が鍋を運び。


 制服姿の少女が、幼い子供へ牛乳を渡していた。


 遠くでは。


 巨大な樹木が新宿の高層ビルへ絡みつき。


 空中に浮かぶ錆びた鉄道橋の上を、翼のない鳥のような欠落体が歩いている。


 空は青い。


 雲も流れている。


 終末だけが。


 普段通りの朝へ、居座っていた。


「青いんですね」


 八雲凪が空を見上げていた。


 胸へ埋め込まれていた鐘は摘出され。


 傷口には厚い包帯が巻かれている。


 灰色の布を外した顔は。


 年齢よりも幼く見えた。


「何が」


 瀬名冬真が尋ねる。


「空です」


「灰海にはなかったのか」


「白か、灰色でした」


 凪は目を細める。


 眩しいのだろう。


「青い空は、もっと音がすると思っていました」


「音?」


「鐘がないから」


 凪は自分の胸へ触れた。


「静かすぎて、少し怖いです」


 近くの天幕から。


 子供たちの笑い声が上がった。


 現在側の子供と。


 灰海から来た子供。


 まだ互いの言葉を探るように。


 少し距離を空けて、ボールを転がしている。


 灰海の少年が受け損ねた。


 ボールが冬真の足元へ来る。


 冬真は左足で止め。


 蹴り返した。


 右へ逸れた。


 真白が横から足を出し、軌道を直す。


「片目だからって、そこまでずれる?」


「蹴るのは専門外だ」


「戦闘も右側は私が直してるよね」


「助かっている」


 真白が一瞬黙った。


「また急に素直」


「嫌か」


「嫌じゃないけど、準備がいる」


「何の」


「心の」


 凪が二人を見ていた。


「仲がいいんですね」


「違う」


「そうだよ」


 冬真と真白が同時に答えた。


 真白が冬真を見る。


「どっち」


「知らない」


 凪が僅かに笑った。


 笑った拍子に。


 胸の傷が痛んだのか、小さく顔をしかめる。


「医療区画へ戻れ」


「大丈夫です」


「今、痛がった」


「冬真も歩いています」


「俺は動ける」


「私もです」


 真白が冬真の脇腹を指で軽く押した。


「っ……」


「動ける?」


「お前は、そこを押すな」


「凪ちゃん、こうすれば大人しくなるよ」


「覚えました」


「教えるな」


 ◇


 荒牧岳は。


 集中治療区画で目を覚ましていた。


 透明な覆い。


 腹部から伸びる何本もの管。


 左肩と脇腹は厚く固定されている。


「腹減った」


 最初の言葉がそれだった。


 水城澪が、寝台の横で端末へ記録する。


「意識状態、正常ではない可能性があります」


「何でだよ」


「直前まで死にかけていました」


「死にかけても腹は減る」


「カレーを保存してあります」


 荒牧の目が動く。


「本当か」


「はい」


「食える?」


「医療食の許可が出れば」


「帆村呼べ」


 帆村修司は、隣の寝台で眠っていた。


 荒牧の傷を未決にした代償で。


 自分の左脇腹へ同じ損傷を負い。


 治癒を待っている。


 荒牧が顔を横へ向ける。


「先生」


 反応なし。


「帆村先生」


「……うるさい」


「カレー食っていい?」


「死にたいなら食え」


「食ったら死ぬ?」


「今は、水でも吐く」


「じゃあ水を吐かなかったらカレー?」


 帆村が目を開けた。


「誰か、こいつの麻酔増やせ」


 澪が端末を操作する。


「増量申請を送ります」


「冗談だ」


「取り消します」


「澪、お前ほんとに味方か?」


「はい」


「即答なのが怖いな」


 冬真たちが区画へ入る。


 荒牧が冬真を見る。


「目、戻ってねえな」


「ああ」


「俺が寝てる間に、もう一本くらい生えたかと思った」


「植物ではない」


「最近のお前なら分からん」


「岳さん、起きてすぐ失礼だね」


 真白が言う。


「見舞いの品は?」


「ない」


「帰れ」


 冬真が紙のカップを寝台横へ置いた。


「水だ」


「カレーは」


「まだ駄目らしい」


「役に立たねえな」


 冬真は荒牧の無傷な右肩を小さく小突いた。


「痛っ」


「そこは無傷だ」


「病人を小突くな!」


「生きているか確認した」


「脈を取れ!」


 荒牧の声に。


 帆村が隣から枕を投げた。


「静かにしろ!」


 枕は冬真の右側から飛んだ。


 真白が受け止める。


「ほら、右」


「助かった」


「追加装備ですから」


「根に持つな」


「ずっと言うよ」


 水城澪が。


 ほんの僅かに。


 口元を緩めていた。


 ◇


 八雲凪の胸から摘出された鐘は。


 検査台の上に置かれていた。


 拳ほどの大きさ。


 材質は金属ではない。


 灰海で死亡した人々の骨を。


 高圧で固めて作られている。


 表面には。


 三万を超える名前が、細かく刻まれていた。


「内側にも文字があります」


 澪が小型撮影機を鐘の内部へ入れる。


 画面に。


 掠れた文字が映った。


 ――十三を揃えるな。


 久世の表情が険しくなる。


「誰が刻んだ」


「両目のある瀬名冬真です」


 凪が答えた。


「兄を鐘へ入れたときに」


「軍を作らせながら、十三を揃えるな?」


 真白が腕を組む。


「矛盾してない?」


「本人は何と言っていた」


 冬真が尋ねる。


 凪は記憶を探すように目を伏せた。


「世界同士を近づけるな、と」


「なぜ」


「同じ東京を欲しがれば、必ず争う」


「それは自分で争わせたからだろ」


「はい」


 凪の声は冷たくなった。


「武器を渡しました」


「切除世界の位置も」


「軍を作る方法も」


「帰還連合にも?」


「おそらく」


 冬真は鐘を見る。


 最初の冬真は。


 二百を超える世界を争わせた。


 単なる破壊のためではなく。


 一つに集まらせないために。


「二百十三の世界が重なれば、《外》が入る」


 真白が言う。


「だから、ずっと戦わせてた?」


「可能性はある」


 久世が答える。


「全員が同じ場所を目指せば、そこが扉になる」


「なら最初の冬真は、外を止めようとしてる?」


 凪が首を振った。


「分かりません」


「でも十三を揃えるなって」


「私たちを助けようとした人が」


 凪は鐘を見つめる。


「兄を二百八十七回殺すでしょうか」


 誰も答えなかった。


 目的が正しくても。


 そのために人を使った事実は消えない。


 冬真には。


 よく分かった。


 最初の切除と同じだ。


「鐘の外側に、傷があります」


 澪が映像を拡大する。


 縦に並ぶ。


 十二本の傷。


 その下。


 刻まれていない空白が一つ。


「十二の消失区」


 冬真が呟く。


「残り一つが深町?」


 真白が問う。


「十三番目が開けば」


 澪の端末へ。


 東京全域の地図が表示される。


 十二の黒い円。


 時計の文字盤。


 中央。


 深町二丁目。


「十三の座標が揃います」


 久世が冬真を見る。


「原記録もそこだ」


「最初の冬真が起きれば、十三番目が開く?」


「逆かもしれない」


 冬真は鐘の内側を見る。


「十三番目が開けば、あいつが起きる」


 そのとき。


 検査室の外から。


 車両のブレーキ音が聞こえた。


 一台ではない。


 何十台もの重い車両。


 収容壕の滑走路へ、黒い車列が入ってくる。


 ◇


 車体に記された紋章は。


 時象災害対策局のものではなかった。


 円の中央を。


 縦に貫く銀色の線。


「内閣時象統合本部」


 榊宗一郎が。


 背中の治療を受けながら呟く。


「正式発足は正午の予定だった」


「早まったのか」


 久世が問う。


「おそらく、昨夜の件で」


 車列から。


 黒い制服の部隊が降りる。


 武器は局の装備より新しい。


 先頭に立つ女。


 四十代半ば。


 短い黒髪。


 化粧も装飾もない。


 銀縁の眼鏡。


 戦場には似つかわしくない、整った背広姿だった。


「内閣時象統合本部・臨時執行官、柴崎塔子」


 女は認識票を提示する。


「立川第三時象収容壕の指揮権を接収します」


 真壁総司が前へ出た。


「正式命令書を」


「すでに管理系統へ送信済みです」


 収容壕の表示が変わる。


 管理権限。


 真壁総司から。


 柴崎塔子へ。


「現在時刻をもって」


 柴崎は周囲を見る。


「切除世界由来の全個体を、国家時象危険物へ指定します」


 灰海の四十七人。


 緑葬圏の六万人。


 天幕にいた避難民たちがざわめく。


「人間だ」


 冬真が言った。


 柴崎が彼を見る。


「瀬名冬真」


「危険物ではない」


「法的な分類です」


「法律は、昨夜まで存在しなかった」


「だから今朝作られた」


 柴崎の口調は変わらない。


「緑葬圏の収容区画を封鎖。灰海避難民を再隔離。接触した現在住民も検査対象とします」


「拒否した場合は」


 久世が問う。


「強制執行します」


 黒い制服の部隊が。


 一斉に武器を構えた。


 銃口は。


 未来側の避難民だけではなく。


 第六封鎖班にも向いている。


「さらに」


 柴崎が端末を開く。


「時象切除装置の無断停止。政府施設への不正侵入。機密情報の流出。収容壕設備の無許可操作」


 名前が表示される。


 瀬名冬真。


 久世玲司。


 榊宗一郎。


「三名を拘束します」


 真白が冬真の右側へ立った。


 澪も端末を握る。


「抵抗するな」


 久世が低く言う。


「班長」


「相手は現在側だ」


「だから?」


 真白の声に。


 僅かな怒りが混じる。


「現在側なら、何をしてもいいの?」


「そうは言っていない」


「武器を下ろせ」


 柴崎が命じる。


「瀬名冬真は、六万を超える切除個体の固定点であり、十二の時象災害と接続した最重要危険個体です」


「固定点を拘束すれば」


 澪が言う。


「緑葬圏の仮設区画が不安定になります」


「代替固定装置を用意しています」


 黒い制服の隊員たちが。


 細長い銀色の棺を運んでくる。


 表面に。


 人間の名前はない。


 代わりに。


 《個体接続抹消器》と記されていた。


「冬真との接続を切り」


 柴崎が言う。


「六万人を装置側へ移します」


「成功率は」


 澪が問う。


「六十八パーセント」


「残り三十二パーセントは」


「許容損失です」


 凪の表情が強張る。


 現在側の避難民も。


 その言葉を聞いていた。


「許容って……」


「二万人近く死ぬかもしれないってこと?」


 ざわめきが広がる。


 柴崎は視線を動かさない。


「十八万の現在住民へ危険を残すより合理的です」


 また。


 数の話。


 冬真は銀色の棺を見る。


 装置の側面。


 細い窓。


 中に。


 一人の青年が横たわっていた。


 二十代前半。


 髪は白い。


 両腕へ何百本もの針を刺され。


 首へ黒い固定具を巻かれている。


「人間が入っている」


 冬真が言った。


 柴崎は答えない。


 棺の中の青年が目を開いた。


 左右の瞳に。


 名前がなかった。


 見ているのに。


 誰にも覚えられないような顔。


「《時象適応者》か」


 榊が掠れた声を漏らす。


「第二種抹消適応者、雨宮律」


「能力は」


「対象を、現在の記録から一時的に外す」


 雨宮が棺の中で。


 冬真へ手を伸ばした。


 指先が銀色の窓へ触れる。


「開始します」


 青年の声は。


 ひどく疲れていた。


「瀬名冬真を、七秒間忘れてください」


 ◇


 世界から。


 冬真の名前が消えた。


 真白の目が。


 一瞬、冬真を通り過ぎた。


「……誰?」


 久世の散弾銃が冬真へ向く。


「所属を名乗れ」


 澪の端末から。


 瀬名冬真の登録が消える。


 第六封鎖班。


 該当者なし。


 認識票。


 所有者不明。


 三台の時象収容区画との接続線が。


 一斉に切れた。


「収容人数、急減!」


 澪が叫ぶ。


 六万七百五。


 六万六千。


 六万四千。


 数字が落ちていく。


 緑葬圏の人々が。


 現在から滑り始める。


 天幕の近く。


 灰海の子供が冬真を見る。


「お兄さん……?」


 名前は知らない。


 それでも。


 昨日。


 自分を亀裂から引いた手を覚えている。


 真白も。


 冬真の顔を見ている。


 誰か分からない。


 だが。


 胸の奥に。


 強い違和感が残っている。


「私……」


 一秒。


 冬真は自分の名前を思い出せない。


 二秒。


 六万人の視界が消える。


 三秒。


 身体から力が抜ける。


 現在に固定されていた自分自身まで。


 薄くなる。


 雨宮律が。


 銀色の棺の中で、涙を流していた。


「ごめんなさい」


 誰に謝っているのか。


 本人にも分からない。


 能力を使うたび。


 雨宮は自分の記憶を一つ失う。


「今度は」


 雨宮が呟く。


「妹の声か」


 棺の横に立つ女性隊員が。


 小さく頷いた。


「はい」


「どんな声だった」


「明るい声でした」


「そうか」


 雨宮は目を閉じる。


「もう、思い出せない」


 四秒。


 冬真の耳に。


 誰かの声が届いた。


「冬真」


 真白。


 名前を忘れている。


 それでも。


 口が勝手に動いていた。


「冬真」


 久世も。


 銃口を下げる。


「瀬名冬真」


 澪が端末へ手入力する。


 登録にはない。


 記録にもない。


 けれど。


 今ここで。


 仲間が呼んでいる。


 五秒。


 灰海の凪が言う。


「瀬名冬真」


 御影千景が。


 聞こえづらくなった耳で、その声を拾う。


「冬真」


 荒牧岳が。


 医療区画の寝台から。


 通信へ怒鳴った。


『冬真! 俺のカレー食ったら殺すぞ!』


 冬真の左目が開く。


 名前が。


 現在へ戻ってくる。


 記録ではない。


 装置でも。


 認識票でもない。


 人の声。


 自分を知る者たちが。


 今ここで呼んでいる。


「瀬名冬真」


 冬真自身が呟く。


 六秒。


 切れた接続線が。


 地面へ落ちる前に止まった。


 冬真は左手を伸ばす。


 機械の線ではない。


 緑葬圏の少女。


 凪。


 真白。


 久世。


 澪。


 現在側の避難民。


 名前を呼んだ人間たちの間にある糸を。


 掴む。


「記録を消しても」


 冬真は雨宮を見る。


「今ここで呼ばれた名前までは消せない」


 七秒。


 抹消が解除される。


 瀬名冬真の記録が。


 現在へ戻った。


 その前に。


 冬真は人から人へ繋いだ糸を。


 六万人の固定点へ変えていた。


 収容人数。


 六万二千。


 減少が止まる。


 失われた約四千人。


 戻らない。


 それでも。


 残る者たちは。


 冬真一人へ繋がっていない。


 収容壕にいる。


 何千もの人間の名前へ。


 分散して固定されていた。


 澪が息を呑む。


「固定点が増えています」


「何基」


 久世が問う。


「人です」


 澪の端末へ。


 無数の光点が現れる。


「六千四百二十一名が、緑葬圏の住民を観測しています」


 柴崎塔子が。


 初めて表情を変えた。


「そんな固定方法は存在しない」


 冬真は銀色の棺へ近づく。


 黒い制服の部隊が銃を向ける。


 立ち止まらない。


「俺を止めるなら」


 冬真の左目は。


 雨宮だけを見ていた。


「先に、この人たちを落とさない方法を持ってこい」


 声は大きくない。


 刀も抜いていない。


 だが。


 誰も引き金を引けなかった。


 冬真は棺の前へ立つ。


 雨宮律を見る。


「お前は」


 雨宮が掠れた声で言う。


「なぜ、消えなかった」


「消えた」


「なら」


「戻された」


 冬真は真白たちを見る。


「一人じゃなかったからだ」


 雨宮の目から。


 また涙が落ちる。


「羨ましいな」


 冬真は答えない。


 銀色の窓へ。


 左手を置いた。


「お前の名前は」


「雨宮律」


「今、何を失った」


「妹の声」


「妹の名前は」


 雨宮の口が止まる。


 思い出せない。


 棺の横の女性隊員が答えようとする。


 柴崎が視線で制した。


 冬真は女を見る。


「呼べ」


「命令違反です」


「忘れたままにするのか」


 女性隊員の指が震える。


 やがて。


 小さく。


 名前を口にした。


「雨宮、小春」


 雨宮の瞳が揺れる。


「小春」


 声までは戻らない。


 それでも。


 名前だけは。


 現在へ繋ぎ止められた。


 柴崎が右手を上げる。


「拘束を一時停止します」


 黒い制服の部隊は。


 銃を下ろさない。


「正午までに、瀬名冬真は統合本部へ出頭してください」


「拒否したら」


「国家反逆行為として扱います」


「分かった」


 真白が冬真を見る。


「行くの?」


「ああ」


「罠だよ」


「たぶん」


「そこは断定して」


 柴崎は端末を閉じる。


「もう一つ通告があります」


 東京の地図が。


 滑走路上へ投影された。


 十二の消失区。


 東京湾の軍艦。


 帰還連合。


 灰海。


 緑葬圏。


「政府は」


 柴崎が言う。


「本日午後二時十三分」


 十二の黒い円が。


 一斉に赤く表示される。


「全消失区への同時時象攻撃を実施します」


 凪の顔色が変わる。


「中には、何百万人もの人間がいます」


「現在への定着が完了する前に切除します」


「それをやれば」


 冬真が地図を見る。


 十二の座標。


 すべてが。


 同時に切り離される。


「十三番目が開く」


 柴崎の眉が動く。


「根拠は」


 検査室から。


 小さな鐘の音が響いた。


 摘出され。


 舌もないはずの鐘。


 一度。


 二度。


 十二回。


 そして。


 最後の一度だけ。


 音が鳴らなかった。


 冬真の右眼窩が。


 強く疼く。


 鐘の内側。


 新しい文字が浮かんでいた。


 ――正午までに、十三番目を眠らせろ。


 その下。


 さらに小さな文字。


 ――起きるのは、俺ではない。


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