第19話 朝のある終末
瀬名冬真が目を覚ましたとき。
窓の外は、明るかった。
白い天井。
簡易医療区画。
腕へ繋がれた輸液管。
右目を覆う厚い包帯。
遠くから。
鳥の鳴き声が聞こえる。
冬真はしばらく動かなかった。
夜が終わったことを。
すぐには理解できなかった。
「午前六時十二分」
窓際から声がした。
柊真白が、紙のカップを両手で持っている。
防護服ではない。
血の染みた戦闘装備を脱ぎ、薄い灰色の局内着へ着替えていた。
「二時十三分じゃないよ」
「見れば分かる」
「右目なくても?」
「窓が明るい」
「そういう返しができるなら大丈夫そう」
真白が近づき。
紙カップを冬真の手元へ置いた。
「何だ」
「コーヒー」
「飲めるのか」
「収容壕の売店が開いた」
「この状況で?」
「避難民が十八万人いるからね。閉めたら、店員さんのほうが怒られるって」
冬真は身体を起こした。
胸と脇腹へ痛みが走る。
「っ……」
「ゆっくり」
「荒牧は」
「生きてる」
「状態は」
「集中治療区画。手術は成功した」
「成功?」
「帆村先生が『今すぐ死ぬ理由は減った』って」
「成功とは言っていないな」
「でも、あの人なりにはかなり良い言い方らしいよ」
冬真は紙カップを持つ。
温かい。
一口飲んだ。
苦い。
「砂糖は」
「ない」
「そうか」
「欲しかった?」
「いや」
「今、少し残念そうだった」
「気のせいだ」
真白が自分のカップを傾ける。
「私のは二個入ってる」
「聞いていない」
「半分あげようか」
「いらない」
「じゃあ言わないで」
「何も言っていない」
扉が開いた。
久世玲司が入ってくる。
彼も防護外套を脱いでいるが、散弾銃だけは背負ったままだった。
「起きたか」
「ああ」
「頭痛は」
「ある」
「吐き気」
「少し」
「知らない記憶は」
冬真は目を閉じる。
海底へ沈む街。
灰の中で死ぬ人々。
植物へ変わる子供。
巨大な眼に見つめられた無数の東京。
「ある」
「自分の名前は」
「瀬名冬真」
「所属」
「第六封鎖班」
「年齢」
「十九」
真白が横から言う。
「好きな飲み物は、砂糖入りのコーヒー」
「違う」
「即答できるなら平気だな」
久世は端末へ記録する。
「三十分後に検査だ。それまでは休め」
「今の状況は」
「十二の消失区は残留中。東京湾の帰還連合艦隊は動きを止めた。現在側も大規模攻撃は保留している」
「停戦か」
「互いに民間人を抱えすぎている」
久世は窓の外を見る。
「朝になったからといって、戦争が終わるわけじゃない」
◇
収容壕の地上には。
朝の景色があった。
滑走路の上。
避難民用の天幕。
炊き出しの列。
毛布を干す人々。
スマートフォンを充電するために、発電車の前へ並ぶ若者たち。
泣く子供へ。
誰かが菓子を渡している。
制服姿の学生もいた。
避難中も鞄を離さなかったのか。
教科書を開き。
折り畳み椅子の上で問題を解いている。
その背後。
東京の空には。
巨大な樹木が浮かんでいた。
幹へ食い込んだ高層ビル。
枝から吊り下げられた未来の建物。
遠くの防壁には。
人間ほどの虫が何匹も張りついている。
日差しを受け。
夜よりも鮮明に見えた。
終末は。
暗闇の中だけにあるものではなかった。
「本当に外へ出ていいの?」
真白が冬真の右側を歩く。
「検査まで二十分ある」
「休めって言われたよね」
「歩くなとは言われていない」
「子供みたいな抜け道探さないで」
冬真は答えない。
右側から。
小さな子供が走ってきた。
真白が冬真の腕を引く。
「右」
冬真が半歩ずれる。
子供が二人の間を抜けていった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「今のは助かった」
真白が一瞬、黙る。
「素直だね」
「事実だ」
「……そういうの急に言われると困る」
「なぜ」
「別に」
炊き出しの前。
紙皿へカレーが盛られている。
水城澪が列の最後尾に立っていた。
局内着。
端末を胸へ抱え。
前方の鍋を見つめている。
「何をしている」
冬真が尋ねる。
「並んでいます」
「見れば分かる」
「荒牧さんに誘われました」
「荒牧は集中治療区画だ」
「起きたら食べる約束をしていました」
「一人で先に食べるのか」
澪が考える。
「保存しておくべきでしょうか」
「冷めるよ」
真白が言う。
「では、二皿食べます」
「どういう結論?」
「荒牧さんの分も確認します」
「味見で一皿全部食べないで」
配給係の女が。
澪の紙皿へカレーを盛る。
湯気。
香辛料の匂い。
澪は椅子へ座り。
スプーンで一口食べた。
数秒。
表情は変わらない。
「どう?」
真白が尋ねる。
「温かいです」
「味は?」
「カレーです」
「それは知ってる」
澪はもう一口食べる。
「好きです」
「よかったね」
「はい」
普通の会話。
普通の食事。
けれど。
隣の天幕では。
夜の記憶返還で、自分の名前を思い出せなくなった男が。
壁へ何度も文字を書いていた。
松田修一。
松田修一。
松田修一。
爪が割れ。
指先から血が出ても。
書くのをやめなかった。
◇
警報が鳴ったのは。
午前六時二十七分だった。
『滑走路北端に時象亀裂発生』
『規模、小』
『人型反応、四十七』
避難民の空気が変わる。
紙皿を落とす者。
子供を抱き上げる者。
警備員たちが走る。
「冬真」
真白が短銃へ手を伸ばした。
「行く」
「検査は」
「あとだ」
「帆村先生に殺されるよ」
「生きていればな」
「縁起悪いこと言わないで!」
三人が北端へ向かう。
久世から通信が入る。
『第六班は待機しろ』
「現場に近い」
『お前は患者だ』
「動ける」
『命令だ』
「了解」
冬真は走る速度を落とさなかった。
通信の向こう。
久世が短く息を吐く。
『せめて戦闘へ入る前に報告しろ』
「了解」
「それ了解って言わないからね」
真白が隣で言った。
◇
滑走路の北端。
空間が。
薄く裂けていた。
向こう側に見えるのは。
灰色の空。
地平線まで広がる白い砂。
切除歴四十七号《灰海》。
亀裂から。
人々が歩いてきていた。
兵士ではない。
老人。
女。
子供。
全員が灰色の布で口元を覆っている。
皮膚は乾燥し。
髪は白い粉に染まっていた。
荷物もほとんどない。
先頭の少女が。
棒へ白い布を結びつけて掲げている。
年齢は十五ほど。
胸元へ。
小さな鐘が埋め込まれていた。
一歩進むたび。
身体の中から。
かすかな音が鳴る。
収容壕側の警備隊が銃を向ける。
「停止しろ!」
「全員、その場へ座れ!」
「武器を捨てろ!」
灰海の人々は。
ゆっくりと膝をついた。
先頭の少女だけが立っている。
「武器はありません」
声は掠れていた。
「避難を求めます」
「所属は」
「灰海独立軍からの脱走者です」
「人数」
「四十七」
「感染および時象侵食の有無」
「分かりません」
警備隊長の顔が強張る。
「分からない?」
「調べる設備がありません」
少女は白旗を下ろさない。
「三日間、追われています」
「追跡部隊は」
「来ます」
警備隊長が即座に無線を取る。
「北端、戦闘準備! 避難民を後退させろ!」
現在側の避難民から。
怒声が上がった。
「入れるな!」
「昨日の連中だろ!」
「また記憶を奪われる!」
石が飛んだ。
灰海の子供へ当たる。
額が切れ。
血ではなく。
白い粉が傷口から零れた。
子供は泣かなかった。
隣の女が抱き寄せる。
「現在側住民を下げろ!」
警備員が群衆を押し戻す。
一人の男が叫んだ。
「そいつらを入れたら、また千人死ぬぞ!」
「未来人を捨てろ!」
「俺たちの場所だ!」
先頭の少女は。
何も言い返さなかった。
ただ。
白い布を掲げ続ける。
胸の鐘が。
小さく鳴る。
冬真が警備線へ近づく。
「第六封鎖班、瀬名冬真」
警備隊長が振り返る。
「現場は我々が対応する。患者は下がってください」
「検査を始めろ」
「収容許可がありません」
「検査だ」
「侵食が確認された場合、滑走路全体へ拡大する可能性があります」
「だから調べる」
「真壁管理官から、外部時象民の新規受け入れを停止する命令が出ています」
「理由は」
「昨夜の被害です」
正しい判断だった。
現在側では。
千人以上が死んだ。
六万人を入れたことで。
巨大な眼にも発見された。
これ以上。
危険を抱えられない。
それでも。
亀裂の向こうには。
灰の大地がある。
逃げ場はない。
「名前は」
冬真が少女へ尋ねた。
「八雲凪」
「お前たちは、なぜ軍から逃げた」
「都市中枢を破壊したからです」
警備員たちが一斉に銃を構え直す。
「何をした?」
「灰海軍は、死者の記録を鐘へ入れています」
凪は自分の胸を指した。
「兵士が死ねば、次の身体へ移す」
「それが、あの灰兵か」
「はい」
「お前も同じか」
「私は中枢の鐘を壊しました」
胸元。
皮膚へ埋め込まれた小さな鐘。
表面には。
何百もの亀裂が入っている。
「三万人分の兵士記録を、戻れなくした」
「味方を殺したのか」
「もう死んでいました」
少女の声が。
僅かに震えた。
「死んでいたのに、何度も起こされていた」
後ろの人々。
老人の中には。
腕のない者。
脚を灰の棒で補っている者。
顔の半分を布で隠している者もいる。
「私たちは」
凪が言う。
「死者を眠らせた罪で、処刑されます」
警備隊長は答えない。
収容する危険。
見捨てる責任。
また。
二つの選択肢。
冬真は左目を閉じた。
右眼窩の奥。
六万人の共有感覚を探す。
滑走路。
亀裂。
灰海の人々。
現在側の警備員。
複数の現在。
凪たちの身体へ。
灰の世界を繋ぐ細い糸が残っている。
現在へ完全には固定されていない。
「検査設備を外へ運べ」
冬真が言った。
「許可がない」
「収容しない」
「何?」
「亀裂の境界で調べる」
澪が冬真の意図を察する。
「灰海側の法則を一部残せば、現在侵食の速度を抑えられます」
「可能なのか」
警備隊長が問う。
「冬真が境界を維持できれば」
「何分」
「現状では不明です」
真白が小さく言う。
「最近、私たちまでそればっかりだね」
「正確な答えです」
「澪も前に言ってた」
亀裂の向こう。
白い灰が大きく舞った。
凪の顔色が変わる。
「来ます」
「何が」
「回収隊」
灰の地平線から。
黒い点が現れる。
一列。
百。
千。
人間の形をした軍勢。
頭部の中へ鐘を吊るした灰兵。
その中央。
巨大な鐘楼が歩いていた。
四本の脚。
建物ほどの高さ。
鐘楼の外壁へ。
何千体もの人間が塗り込められている。
鐘が鳴る。
音は。
亀裂を越え。
現在の滑走路まで届いた。
灰海の避難民たちが。
一斉に苦しみ始めた。
「うっ……!」
「頭が……!」
子供の胸から。
小さな鐘の音が鳴る。
身体が勝手に立ち上がろうとする。
凪が叫ぶ。
「耳を塞いでも駄目です!」
「記録を呼ばれています!」
老人の一人が。
灰海側へ歩き始めた。
家族が腕を掴む。
「お父さん!」
「戻らなきゃ」
老人の目は虚ろだった。
「俺は兵士だから」
「違う!」
「また死ななきゃ」
滑走路側の警備隊長が銃を上げる。
「亀裂を閉じろ!」
「中に四十七人います!」
「回収隊ごと現在へ入る!」
「閉じれば、あの人たちは灰海側に残されます!」
「十八万人を危険に晒せない!」
命令。
「時象亀裂を閉鎖!」
制御装置が作動する。
空間の裂け目が。
狭まり始めた。
凪たちは。
ちょうど境界の中央。
今閉じれば。
身体を両側の世界に引き裂かれる。
「止めろ」
冬真が制御装置へ手を伸ばす。
警備員が銃を向けた。
「下がってください!」
「閉じるな」
「命令です!」
「従うな」
「撃ちます!」
銃口。
距離、三メートル。
冬真には。
弾丸の未来は見えない。
警備員の指が。
引き金へ力を込める。
真白が冬真の右側へ立つ。
「撃つなら」
「真白」
「何」
「下がれ」
「嫌」
「撃たれるぞ」
「右、見えないでしょ」
冬真は警備員を見る。
「俺が止める」
制御装置へ左手を置く。
「撃てば命令違反だ!」
警備隊長が叫ぶ。
「分かっている」
「なら手を離せ!」
「四十七人が死ぬ」
「十八万人を守るためだ!」
「四十七人を殺さなければ守れないのか」
「ほかに方法がない!」
冬真は。
閉じていく亀裂を見る。
灰海。
滑走路。
二つの現在。
境界に立つ四十七人。
回収軍。
歩く鐘楼。
御影千景が。
杖をつきながら近づいてきた。
両目を失い。
第四班の若い隊員に肩を借りている。
「冬真」
「何だ」
「亀裂は見えてる?」
「ああ」
「私にも見せて」
真白が振り返る。
「千景さん、目は」
「ない」
「固定は」
「対象を観測できれば使える」
「でも」
「冬真は、私へ視界を渡した」
御影が笑う。
「一度できたなら、もう一度できるでしょ」
「代償は」
「今さら失う目がある?」
「別のものを失う」
「そのとき考える」
冬真は右眼窩へ意識を集める。
凪の目。
灰海の子供。
警備員。
滑走路の監視装置。
現在を見ている視界を。
手繰る。
一本に束ねる。
御影へ渡す。
彼女の閉じた瞼が。
僅かに震えた。
「見える」
御影が呟く。
自分の目ではない。
何十人もの現在。
その中心に。
閉じかけた亀裂。
「八秒」
御影が右手を上げる。
「固定する」
亀裂の閉鎖が止まった。
第一秒。
「検査設備を前へ!」
澪が叫ぶ。
医療班が動く。
第二秒。
凪たちを境界から現在側へ引き出す。
第三秒。
灰海の鐘楼が。
固定された空間へ突進する。
亀裂の向こう。
動いている。
「外側は止まっていません!」
「固定対象は亀裂だけ!」
第四秒。
鐘楼の正面が開く。
内部。
巨大な鐘。
鐘の舌には。
人間の身体が吊られている。
男。
若い。
全身の皮膚を剥がされ。
骨へ直接、金具を打たれている。
凪の表情が崩れた。
「兄さん」
鐘が鳴る。
吊られた男の身体が。
内壁へ叩きつけられる。
骨が砕ける。
音が。
四十七人の記録を呼び戻す。
第五秒。
避難民たちが暴れる。
現在側へ引く医療員。
灰海側へ戻ろうとする身体。
一人の女の肩が外れた。
それでも。
脚は灰海へ向かって進もうとする。
「間に合わない!」
真白が女を抱える。
「冬真!」
冬真は亀裂の前へ出た。
灰海側。
鐘楼。
何千の兵。
それらを。
左目で見る。
未来はない。
勝てる道も分からない。
「凪」
「何ですか」
「鐘を止められるか」
「中枢鐘がある限り無理です」
「壊せば」
「灰兵全体の記録が崩れます」
「何人分だ」
「三万以上」
「死ぬのか」
「もう死んでいます」
第六秒。
冬真は刀を抜いた。
亀裂は狭い。
鐘楼まで。
数百メートル。
届かない。
未来の長刀もない。
だが。
鐘楼を見ている目がある。
凪。
灰海兵。
吊られた兄。
何千もの現在。
冬真は。
自分の刀と。
鐘楼の内部にある一本の亀裂を。
同じ場所へ手繰った。
距離を消すのではない。
二つの現在を。
一瞬だけ。
隣り合わせる。
黒い刀身の先に。
巨大な鐘が現れた。
真白が息を呑む。
「冬真、それ……」
「第七秒!」
御影が叫ぶ。
冬真は刀を振った。
大きな技名も。
声もない。
ただ。
現在側の欠けた刃が。
数百メートル先の鐘へ届いた。
吊られた男の身体を避け。
鐘を支える金具だけを断つ。
巨大な鐘が傾いた。
鐘楼内部へ落下する。
轟音。
灰海の軍勢が。
一斉に動きを止めた。
頭部の鐘が割れる。
一体。
百。
千。
兵士たちは。
膝をつき。
白い灰へ戻っていく。
第八秒。
「解除!」
御影の固定が切れる。
亀裂が再び閉じ始める。
「全員引け!」
最後の子供を。
冬真が腕を掴み。
現在側へ引き込んだ。
裂け目が閉じる。
灰海。
鐘楼。
八雲凪の兄。
すべてが向こう側へ消えた。
滑走路へ。
朝の光が戻る。
四十七人。
全員が現在側にいた。
生きている。
警備隊長が。
冬真へ銃を向けたまま立っている。
「命令違反だ」
「ああ」
「時象避難民を、無許可で収容した」
「まだ収容していない」
「屁理屈を――」
「検査を始めろ」
警備隊長の指が震える。
怒り。
恐怖。
判断。
その後ろ。
現在側の避難民たちが。
灰海の人々を見ていた。
白い粉に覆われ。
痩せ。
子供を抱き。
震えている姿。
先ほど。
石を投げた男が。
ゆっくりと前へ出た。
警備員が止めようとする。
男は。
持っていた水のボトルを。
額を切られた子供の前へ置いた。
「毒じゃない」
子供は動かない。
「飲める」
男はそれだけ言い。
後ろへ下がった。
灰海の女が。
ボトルを拾う。
蓋を開け。
最初の一口を自分で飲んだ。
次に。
子供へ渡した。
子供が水を飲む。
白い粉に覆われた頬を。
透明な水が流れた。
泣いていた。
声を出さずに。
御影が冬真の近くへ来る。
杖の先で。
冬真の靴を軽く小突いた。
「痛い」
「右目ない人が、盲人を酷使するな」
「自分から言った」
「止めるのが班長候補の役目でしょ」
「俺は班長じゃない」
「みんな、そう思ってないみたいだけど」
御影は耳を澄ます。
医療員の足音。
泣く子供。
検査機器。
警備員たちの声。
「四十七人、全員いる?」
冬真が数える。
未来視ではなく。
現在の呼吸を。
一つずつ。
「いる」
「そう」
御影は小さく笑った。
次の瞬間。
膝から崩れた。
冬真が身体を支える。
「御影」
「平気」
「何が見えない」
「最初から何も」
「そういう意味じゃない」
御影は答えなかった。
右耳から。
細い血が流れていた。
「音が」
御影の声が小さくなる。
「少し、遠い」
視力の次に。
聴覚まで。
能力の代償が侵食し始めていた。
◇
午前七時。
八雲凪たち四十七人は。
収容壕の外部検疫区画へ入れられた。
現在側への正式な収容ではない。
それでも。
灰海へ戻されることはなかった。
凪は検査台へ座り。
胸の鐘を外す処置を受けていた。
麻酔針が皮膚へ入る。
少女の表情は変わらない。
「兄は」
冬真が尋ねた。
「灰海軍の中枢鐘です」
「助けられるか」
「鐘から外せば、もう動けません」
「生きているように見えた」
「音を出すために、生かされています」
「そうか」
「殺してくれますか」
凪は冬真を見る。
「次に会ったら」
「助けてではなく?」
「兄は、もう二百八十七回死んでいます」
胸の鐘を摘出する器具が入る。
皮膚が開かれ。
骨へ食い込んだ金属が見える。
「眠らせてください」
冬真は答えなかった。
簡単に約束できることではない。
それでも。
目を逸らさなかった。
「できる範囲で」
凪が僅かに笑う。
「聞いていた通りです」
「誰から」
「両目のある瀬名冬真」
冬真の表情が止まる。
「会ったのか」
「灰海に来ました」
「いつ」
「三年前」
凪の年齢は十五ほど。
三年前なら十二歳。
「何をした」
「兄を鐘へ入れました」
検査室の空気が凍る。
「最初の冬真が?」
「はい」
「なぜ」
「軍を作るために」
凪は静かに答える。
「切除世界同士が戦うように」
冬真の左目が細くなる。
「帰還連合も、灰海軍も、緑葬圏も」
凪の胸から。
小さな鐘が引き抜かれる。
骨と肉がこびりついている。
「全部、瀬名冬真が争うように仕向けた」
「目的は」
「分かりません」
凪は血の流れる胸へ手を当てた。
「でも、言っていました」
「何と」
「二百十三の世界が一つになれば」
摘出された鐘が。
器具の上で小さく鳴った。
「《外》が中へ入れる、と」




