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第18話 見返すな

 壁の向こうに、巨大な眼があった。


 白目はない。


 濡れた黒い球体の中心で、銀色の瞳孔だけがゆっくりと収縮している。


 大きさは。


 観測室の壁一面よりも、さらに大きい。


 壁に開いた亀裂は。


 眼のほんの一部を覗く、小さな穴にすぎなかった。


「見るな!」


 黒い容器の中。


 緑色の髪の少女が叫んだ。


『見返しちゃ駄目!』


 遅かった。


 観測室の警備員が、眼と正面から視線を合わせた。


「……何だ」


 男の瞳が開く。


「俺がいる」


 黒い眼球の表面に。


 一つの光景が映っていた。


 焼け落ちた収容壕。


 天井から吊り下げられた人間。


 その中央で。


 警備員自身が、何かを食べている。


「違う」


 男が後ずさる。


「俺じゃない」


 映像の中の男が、こちらを見た。


 口元は血に濡れている。


 噛み千切った人間の指を、歯の間に挟んだまま笑った。


「見るな!」


 冬真が警備員の肩を掴む。


 間に入る。


 だが。


 警備員の身体は動かなかった。


 首だけが。


 ゆっくりと冬真へ向く。


「腹が減った」


「目を閉じろ」


「三週間、何も食ってない」


「今のお前は食べている」


「妻が先に死んだ」


 警備員の腹部が膨らむ。


 防護服の下から。


 何かが動いた。


「子供は柔らかかった」


 腹が裂けた。


 内臓の代わりに。


 白く細い腕が、何十本も詰まっていた。


 指が傷口を押し広げる。


 肋骨が内側から一本ずつ折れ。


 皮膚を突き破った。


「離れろ!」


 真白が短銃を向ける。


 警備員の口が開く。


「お前も食べた」


 白い腕が真白へ伸びた。


 冬真の刀が走る。


 腕をまとめて断つ。


 床へ落ちた指が。


 真白の名前を呼びながら這った。


「柊真白」


「柊真白」


「柊真白」


 真白が撃つ。


 警備員の頭部が後方へ弾けた。


 身体が床へ倒れる。


 腹から溢れた腕は動き続けた。


「これは白い腕と同じ?」


 真白が冬真の隣へ下がる。


「違います」


 澪が観測端末を床へ伏せた。


「白い腕は切除記録を流入させます。これは――」


 観測室の監視画面が、一斉に点灯した。


 すべての画面に。


 巨大な眼が映る。


「現在の人間を、別の記録へ固定しています」


 廊下から悲鳴が聞こえた。


 一つではない。


 観測室。


 管理室。


 居住区画。


 収容壕のあらゆる場所で。


 監視画面。


 医療機器。


 携帯端末。


 磨かれた金属。


 窓ガラス。


 人間の瞳。


 光を反射するものすべてに、銀色の瞳孔が現れた。


『観測対象を確認』


 収容壕の放送設備から声が響く。


『分岐記録を照合』


『不一致を修正します』


 医療区画。


 担架へ寝かされていた老婆が目を開いた。


「水」


 看護師が駆け寄る。


「今、持ってきます」


「水が来る」


 老婆の声が若返る。


「海が来る」


 ベッドの下から。


 黒い海水が溢れた。


「下がって!」


 看護師の足首へ水が触れる。


 皮膚が青く変色した。


 次の瞬間。


 看護師の胸が陥没する。


 水圧に潰されたように肋骨が折れ。


 口から泡と血を噴き出した。


 老婆も。


 ベッドも。


 周囲の医療器具も。


 深海へ沈んだように圧し潰される。


 肉と金属が平たく重なり。


 床へ貼りついた。


 居住区画。


 一人の男の身体が、急速に老いていく。


 髪が抜け。


 皮膚が垂れ。


 歯が床へ落ちる。


「まだ三十だ!」


 男は自分の顔を掻きむしった。


「俺はまだ――」


 指が腐り。


 関節から折れる。


 数秒で。


 干からびた死体だけが残った。


 別の通路では。


 幼い少女が母親の腕の中から消えた。


 服だけが落ちる。


「美緒?」


 母親が空の服を抱き締める。


「美緒!」


 誰も。


 その名前を知らなかった。


 母親だけが叫び続ける。


「現在固定率、低下!」


 澪の端末に数字が並ぶ。


「収容壕内部で、毎秒二十から四十名が別記録へ上書きされています!」


「全画面を切れ!」


 久世玲司の声が通信から飛ぶ。


『管理電源を落とせ! 鏡と窓を覆え! 眼を見るな!』


 施設の照明が消える。


 非常灯も。


 監視装置も。


 医療区画から怒声が上がった。


『人工呼吸器まで止まった!』


『手動へ切り替えろ!』


『暗くて血管が見えません!』


『見えないほうがましだ!』


 観測室も暗闇に沈む。


 だが。


 壁の亀裂から。


 銀色の光が漏れ続けていた。


 巨大な眼は閉じない。


 冬真は左目を伏せる。


「真白」


「閉じてる」


「澪」


「視覚端末を停止しました」


「少女は」


『ここにいる』


 黒い容器の中から声。


 冬真の右眼窩へ直接届く。


『あれは眼を探してる』


「箱の中の眼か」


『うん』


「何者だ」


『知らない』


「嘘はやめろ」


『名前を知らない』


 少女の声が震える。


『私たちは、ずっと《外》って呼んでた』


「最初の外部事象」


『たぶん』


「たぶん?」


『外は一つじゃない』


 亀裂の向こう。


 巨大な眼の周囲で。


 別の何かが動いた。


 細長い影。


 指のようにも。


 脚のようにも見える。


『これは、見に来るもの』


「ほかにもいるのか」


『食べるもの』


『呼ぶもの』


『中へ入るもの』


 少女は小さく息を吸った。


『お兄ちゃんが最初に見たのは、全部』


 冬真の頭の中に。


 第一切除の記録が蘇る。


 赤い空。


 東京を覆う黒い影。


 世界存続率。


 零・零〇〇一パーセント。


 形を認識できなかった外部事象。


 一体ではない。


 複数の何かが。


 世界の外から東京を見ていた。


「眼を使えば何が見える」


『外が見ている未来』


「未来残響は」


『盗んだ視界』


 冬真は黙った。


 未来を見ていたのではない。


 外側にいる何かが。


 無数の世界を見比べ。


 選別していた視界。


 冬真は。


 その一部を借りていた。


『眼を返して』


 収容壕全体へ、巨大な声が響いた。


 壁が震える。


 人間の言葉ではない。


 それでも。


 意味だけが頭の中へ入ってくる。


『観測端末を返還せよ』


 冬真の潰れた右眼窩が焼ける。


 血が包帯へ広がる。


『返還せよ』


 床。


 壁。


 人々の皮膚。


 あらゆる場所に銀色の瞳孔が浮かぶ。


 見ていなくても。


 向こうから見られている。


「視線を切れません」


 澪が暗闇の中で言った。


「眼球や画面を介していない。収容壕そのものが観測されています」


「位置を変える」


「時象錨が固定されています」


「なら錨を外す」


「十八万人と六万人が現在から落ちます」


 逃げられない。


 戦う相手は。


 壁の向こうですらない。


 世界の外側。


「御影は」


『ここにいる』


 通信から御影千景の声。


 息が荒い。


『中央制御室。右目はまだ見える』


「亀裂を固定できるか」


『見えればね』


「見るな」


『無茶言うね』


「見れば別の記録に固定される」


『八秒以内なら耐える』


「保証は」


『ない』


「駄目だ」


『ほかに手は?』


 冬真は答えられない。


 眼は収容壕を観測している。


 その視線を止めなければ。


 人々は次々に別の世界の死者へ置き換えられる。


 しかし。


 眼を見た者も、観測される。


『冬真』


 御影の声が落ち着く。


『私の能力は、元々こういうときのために残ったんだと思う』


「違う」


『即答するんだ』


「能力に目的はない」


『そう?』


「消失区から戻った傷だ」


 御影が少し笑った。


『それ、帆村に言ったら怒られるよ』


「本人も似たことを言っていた」


『じゃあ使い方くらい、自分で決めさせて』


 通信が切れる。


「御影!」


 中央制御室の隔壁が開く音。


 御影は。


 黒い布で覆われていた監視窓の前に立った。


 右目の眼帯を外す。


 巨大な眼と。


 正面から視線を合わせた。


「見つけた」


 御影の声。


 銀色の瞳孔が。


 彼女一人へ向く。


 右目から血が流れた。


「固定する」


 世界が止まった。


 壁の亀裂。


 巨大な眼。


 収容壕へ伸びていた観測。


 別記録へ変わりかけていた人々。


 すべての変化が。


 八秒間だけ固定される。


『八秒!』


 御影が叫ぶ。


「澪!」


「時象錨の観測経路を切断します!」


 第一秒。


 澪が十二基の補助錨へ侵入する。


 白い腕の残留経路。


 巨大な眼へ繋がる線を検索する。


「経路が多すぎます!」


「収容壕内の目を全部切れ!」


 真白が暗闇の中を走る。


 第二秒。


 観測室の監視装置へ発砲。


 火花。


 レンズが割れる。


 第三秒。


 久世と第四班が、廊下の反射板を撃ち抜く。


 医療区画では。


 帆村修司が患者の目へ包帯を巻きながら怒鳴っていた。


「見るな! 見えたものも信じるな!」


「先生、娘が――」


「今隣にいる人間の名前を呼べ!」


 第四秒。


 御影の右目に亀裂が走る。


 透明な液体と血が頬を伝う。


「まだ……四秒」


 固定された巨大な眼の瞳孔が。


 僅かに動く。


 本来。


 変化できないはずの八秒の中で。


 御影を見ている。


「冬真!」


 真白が叫ぶ。


「止まってない!」


 眼は。


 この世界の時間に従っていない。


 第五秒。


 巨大な瞳孔が収縮する。


 御影の右腕が老いる。


 皮膚が皺だらけになり。


 指先が腐り始めた。


「御影、目を閉じろ!」


『まだ!』


「能力が効いていない!」


『効いてる!』


 御影の声が震える。


『あれじゃなくて――』


 中央制御室。


 彼女の右目には。


 巨大な眼の背後が見えていた。


『入口を固定してる!』


 壁の亀裂。


 外と現在を繋ぐ穴だけは。


 広がっていない。


 第六秒。


「観測経路を確認!」


 澪が叫ぶ。


「接続先は赤い眼球です!」


 緑葬圏。


 少女の抱える黒い箱。


 その中の赤い眼が。


 巨大な眼の瞳孔と繋がっている。


「眼を捨てろ!」


 真白が容器へ銃を向ける。


『駄目!』


 少女が箱を抱き締める。


『これがないと、お兄ちゃんは外を見られない!』


「見なくていい!」


『見ないと、最初には戻れない!』


 第七秒。


 御影の右目が潰れた。


 眼球が内側から萎み。


 血が鼻と口から溢れる。


 それでも。


 彼女は瞼を閉じなかった。


『あと一秒!』


 冬真は黒い容器へ手を置いた。


 少女。


 赤い眼。


 巨大な眼。


 三つの現在を繋ぐ線。


「眼を壊さない」


「冬真!」


 真白の声。


「俺へ繋げろ」


「右目がない!」


「だからいい」


 見る器官がなければ。


 見返せない。


 だが。


 観測経路だけを。


 冬真へ集めることはできる。


「澪」


「負荷を予測できません!」


「接続しろ」


「冬真の存在記録が外部へ露出します!」


「もう見られている」


 冬真は認識票を握る。


「収容壕から剥がせ」


 第八秒。


 御影の固定が解除される。


 止められていた変化が。


 一度に動いた。


 巨大な眼の瞳孔が開く。


 収容壕へ向かっていたすべての観測線が。


 冬真一人へ収束した。


 ◇


 音が消えた。


 冬真は。


 何もない場所に立っていた。


 東京はない。


 切除世界も。


 床も。


 空もない。


 暗闇の中。


 無数の世界が浮かんでいる。


 透明な球体。


 一つずつに。


 異なる東京。


 燃えている。


 沈んでいる。


 植物に覆われている。


 灰へ変わっている。


 まだ平穏な世界もある。


 何も起きていない朝。


 学校へ向かう子供。


 電車を待つ会社員。


 病院で生まれた赤ん坊。


 そのすべてを。


 巨大な何かが見下ろしていた。


 眼ではない。


 眼は。


 その表面に生えた器官の一つにすぎない。


 全体の形を認識しようとすると。


 冬真の頭蓋が軋んだ。


 鼻から血が流れる。


 視覚ではない。


 脳が。


 理解できないものを、無理やり形にしようとしている。


『観測端末』


 声が響く。


『返還せよ』


「断る」


『それは我々の器官』


「誰から奪った」


『お前』


「俺が?」


『最初のお前』


 暗闇に。


 一人の男が現れる。


 現在の冬真より年上。


 二十代後半。


 胸に切除核はない。


 両目もある。


 深町の地下。


 透明容器の中で眠っていた。


 帰還前の瀬名冬真。


 男は。


 巨大な存在の表面へ刀を突き立てていた。


 銀色の眼を抉り。


 赤く変色した器官を。


 自分の右眼窩へ押し込んでいる。


 男の絶叫。


 眼球の根から伸びる透明な糸が。


 無数の世界へ接続される。


『未来視ではない』


 外側の声。


『我々の観測を盗んだ』


「なぜ」


『お前は探した』


 世界存続率。


 死なない未来。


 全員を救える時間。


『存在しない結果を』


 冬真の前に。


 二百十二の東京が並ぶ。


 どれも滅びている。


『なかった』


「だから作ろうとした」


『違う』


 巨大な存在の奥で。


 別の何かが動く。


『見つからなかったから』


 外側の声が重なる。


『お前は、結果を切除して作った』


 冬真が世界をやり直した。


 全員を救うために。


 だが。


 その前。


 冬真は。


 外側の観測器官を奪い。


 無数の世界を覗いた。


 どこにも。


 全員が生き残る未来はなかった。


「最初の災害は」


『お前が呼んだ』


 巨大な存在たちが。


 無数の世界の向こうから、こちらを見ている。


『盗まれた眼を追って』


 冬真の喉が乾く。


 外部事象は。


 冬真が切除を始めた結果。


 切除世界の残響が逆流したもの。


 それだけではない。


 最初の冬真が。


 世界の外側へ手を伸ばし。


 眼を盗んだことで。


 外にいたものたちへ。


 この世界の位置を知らせた。


 冬真が。


 最初の災害を呼んだ。


 そして。


 その災害から逃れるために。


 世界を切除した。


『返還せよ』


 巨大な眼が近づく。


『そうすれば、観測を終了する』


「嘘だな」


『なぜ』


「眼を返せば」


 冬真は暗闇の中で刀を抜いた。


 欠けた黒い刃。


「今度は、直接見る」


 外側の声が止まる。


「世界を」


 何もない空間で。


 冬真は一歩前へ出た。


「見るなら」


 無数の東京と。


 巨大な存在の間へ立つ。


「俺だけを見ろ」


 外側の眼が。


 一斉に冬真へ向いた。


 頭の中へ。


 何億もの未来が流れ込む。


 死。


 滅亡。


 切除。


 冬真の身体が裂ける。


 腕。


 胸。


 頬。


 異なる未来の傷が、現在へ現れる。


 それでも。


 冬真は立っていた。


「今の俺を記録しろ」


 血を吐く。


「十九歳」


 一歩。


「右目はない」


 一歩。


「第六封鎖班」


 一歩。


「仲間がいる」


 巨大な眼の前へ。


 刀を届かせる距離まで進む。


「それ以外の俺は」


 黒い刃を振り上げた。


「もう使わない」


 未来の長刀は現れない。


 無数の世界の冬真も。


 誰も力を貸さない。


 現在の冬真だけが。


 巨大な瞳孔へ刃を突き立てた。


 ◇


 観測室。


 冬真の身体が大きく跳ねた。


 右眼窩から。


 黒い血が噴き出す。


 壁の亀裂。


 巨大な眼の表面に、細い傷が走った。


 傷は小さい。


 眼全体からすれば。


 針で突いたほどにも満たない。


 それでも。


 銀色の瞳孔が、初めて冬真から逸れた。


 収容壕を満たしていた観測線が途切れる。


「今!」


 澪が補助錨を遮断した。


 真白が黒い箱の赤い眼球へ弾丸を撃つ。


 眼球ではなく。


 箱と収容壕を繋いでいた透明な糸だけを断つ。


 久世の散弾銃が。


 壁の亀裂周辺を吹き飛ばす。


 コンクリート。


 金属。


 時象遮断材が崩れ。


 穴を埋める。


 巨大な眼が遠ざかる。


 閉じる直前。


 冬真の頭の中へ。


 一つの言葉が残った。


『発見した』


 亀裂が消えた。


 暗闇だけが残る。


 冬真は膝をついた。


「冬真!」


 真白が駆け寄る。


 冬真の身体には。


 今までなかった傷が無数に開いていた。


 銃創。


 火傷。


 切断痕。


 溺死した者のように青く変色した指。


 見せられた未来の死が。


 一部だけ現在へ残っている。


「帆村さんを呼んで!」


「ここにいる!」


 帆村が走り込んでくる。


 冬真の身体を見て。


 顔を引きつらせた。


「何個の世界で死んだ」


「数えてない」


「数えろ! 治療箇所が分からん!」


「多い」


「見れば分かる!」


 帆村が冬真の胸へ手を当てる。


「発生時刻!」


「分かりません」


 澪が答える。


「傷ごとに異なる時間の記録があります!」


「最悪だ!」


 帆村は叫びながら、冬真の身体へ端末を繋いだ。


 真白は冬真の肩を支え続ける。


「今の、かっこつけた?」


「何が」


「俺だけを見ろ、みたいなこと言った顔してる」


「聞こえたのか」


「聞こえてない」


「なら言ってない」


「絶対言った」


「治療の邪魔だ!」


 帆村に怒鳴られ。


 二人とも黙った。


 少し離れた場所。


 御影千景が壁へ座り込んでいる。


 両目を閉じたまま。


 第四班の若い隊員が、彼女の前へ手を振っていた。


「副班長」


「何」


「見えますか」


「見えない」


 隊員の顔が強張る。


 御影は続ける。


「でも、声は分かる」


「……はい」


「泣いてる?」


「泣いてません」


「ならよかった」


 彼女は。


 完全に視力を失っていた。


 巨大な眼を八秒間固定した代償。


 もう。


 右目も開かなかった。


 ◇


 収容壕の被害。


 記録上書きによる死者、千百四十二名。


 消失者、三百十九名。


 重傷者、三千以上。


 眼との接続は切断された。


 だが。


 消えた三百十九人が。


 どの世界へ固定されたのかは分からない。


 壁の亀裂があった場所には。


 黒い染みだけが残った。


 その中央に。


 銀色の点。


 針先ほどの小さな眼が。


 今も瞬きを続けている。


 何度削っても。


 壁を交換しても。


 別の場所へ現れた。


 収容壕は。


 すでに外側から発見されていた。


 そして。


 冬真も。


 ◇


 冬真が意識を失ったあと。


 緑葬圏の仮設区画。


 少女は黒い箱を抱え。


 根の奥へ座っていた。


 箱の中。


 赤い眼球には。


 細い傷が入っている。


 冬真が外側の眼へつけた傷と。


 同じ位置。


『やっぱり』


 少女が呟く。


『繋がってる』


 背後。


 六万人の眠る根のさらに奥で。


 巨大な影が動く。


「見つけた」


 少女ではない声。


 低い。


 男の声。


「ようやく」


 暗闇から。


 一人の男が歩いてきた。


 現在の冬真より年上。


 二十代後半。


 胸に切除核はない。


 両目も残っている。


 深町の容器で眠っているはずの。


 帰還前の瀬名冬真。


 少女は振り返らない。


『あなたは偽物』


「そうかもしれない」


 男は少女の隣へ立つ。


 黒い箱を見下ろす。


「だが」


 右手を伸ばす。


「眼を盗んだのは、俺だ」


 箱の中の赤い眼球が。


 男を見た。


「そして」


 帰還前の冬真は。


 現在の冬真と同じ顔で。


 静かに笑った。


「外へ扉を開いたのも、俺だ」


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