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第17話 十八万人の記憶

 榊宗一郎の背中から、白い指が生えていた。


 防護服の下。


 肩甲骨の間を内側から押し上げ。


 皮膚を裂かずに。


 布越しに、ゆっくりと形を作っている。


「榊」


 久世玲司が散弾銃を向けた。


「動くな」


「俺は動いていない」


「背中の話だ」


「見えない」


「見なくていい」


 榊の額から汗が流れる。


 白い指は一本。


 次に二本目。


 三本目。


 人間の手の形になった。


 手首から先だけが。


 榊の背中へ埋まったまま、何かを探るように指を曲げている。


 収容壕の警備員たちが銃を構えた。


「全員下がれ!」


 真壁総司が叫ぶ。


「避難民を内区画へ移動させろ!」


 防爆扉の奥には。


 十八万人を超える避難民がいた。


 通路。


 階段。


 簡易居住区。


 床へ敷かれた毛布の上まで、人で埋まっている。


 扉が開いたことで。


 彼らにも榊の背中が見えていた。


「何、あれ……」


「人の手?」


「欠落体が入ってきたのか?」


 ざわめきが広がる。


 親が子供の目を塞ぎ。


 老人が立ち上がり。


 警備員の列へ人々が押し寄せ始める。


「榊を外へ出せ!」


 真壁が命じた。


「六万人の収容を先に」


 瀬名冬真が言う。


「今はそれどころじゃない!」


「今入れなければ、また人数が減る」


 三台の時象収容車。


 内部人数。


 六万七百九。


 六万七百八。


 一人。


 また一人。


 固定が不安定になるたびに、緑葬圏の住民が消えていく。


「搬入を続けろ!」


 久世が第四封鎖班へ指示を出す。


「第六班は榊を隔離する!」


「待て」


 榊の声が掠れた。


「触るな」


 背中の白い手が。


 掌を開いた。


 中心に。


 小さな眼球があった。


 白目のない、赤い眼。


 眼球が一度動く。


 冬真を見た。


 次に。


 開かれた防爆扉の奥を見る。


『観測対象を確認』


 機械音ではない。


 榊の口から声が出た。


 だが。


 榊本人の声ではなかった。


 子供。


 女。


 老人。


 何百もの声が、喉の中で重なっている。


『現在固定個体、十八万四千二百十一』


「榊?」


 真壁が一歩近づいた。


『記憶返還を開始します』


「何を――」


 白い手の眼が。


 瞬きをした。


 ◇


 収容壕の照明が、一斉に消えた。


 暗闇。


 次の瞬間。


 十八万人が同時に叫んだ。


 泣き声。


 怒声。


 悲鳴。


 誰かを呼ぶ声。


 地下全体が、人間の声で揺れた。


 非常灯が点灯する。


 赤い光。


 冬真の前で。


 一人の老人が、自分の両手を見ていた。


「違う」


 皺の刻まれた手。


 震える指。


「俺の手じゃない」


 老人は自分の頬を触る。


「若かった」


「お父さん?」


 隣にいた娘らしき女が肩を掴む。


「俺は二十二だった」


「お父さん、何言ってるの」


「工場で働いてた。北区の地下工場。空が燃えて、出口が閉まって」


 老人の目から涙が流れる。


「俺は、二十二で死んだ」


 別の場所。


 幼い少年が、母親の首を絞めていた。


「返せ!」


「やめて! どうしたの!」


「お前が食べた!」


 十歳にも満たない腕。


 それでも。


 母親の喉へ食い込む指には、殺意があった。


「冬に、妹を食べた! 俺が見てた!」


「知らない! そんなことしてない!」


「返せよ!」


 警備員が少年を引き剥がす。


 少年は泣きながら暴れた。


「俺の妹を返せ!」


 通路の奥。


 若い女が、自分の腹を爪で裂いていた。


「出して」


 皮膚が破れる。


 血が流れる。


「ここに種がある」


「押さえろ!」


 救護員が腕を掴む。


「違う、まだ生えてる! 私の中に木がいる!」


 女は自分の傷へ指を入れた。


 脂肪。


 筋肉。


 内臓へ爪を立てる。


「取らなきゃ、また子供を産まされる!」


 救護員の一人が顔を背けた。


 耐えきれず。


 床へ吐いた。


 その背中へ。


 別の避難民が椅子を振り下ろした。


 頭部が割れる。


 救護員が血の中へ倒れた。


「俺を解剖した医者だ!」


 椅子を握る男が叫ぶ。


「顔を覚えてる! お前だった!」


 倒れた救護員は二十歳そこそこ。


 男よりも若い。


 それでも。


 男には別の世界の医者に見えている。


「記憶を流し込まれている」


 水城澪が端末を見る。


「十八万人全員へ、切除世界の死亡記録が接続されています」


「止められるか」


 久世が問う。


「発信源が多すぎます」


「榊の手じゃないのか」


「あれは入口です」


 澪の端末に、無数の線が表示される。


 榊。


 収容壕の補助錨。


 十八万人。


 さらに。


 収容車の六万人。


 すべてが繋がっている。


「十二基の補助錨を起動したことで、切除世界の観測記録まで収容壕へ引き込みました」


「俺が起動した」


 冬真が言った。


「はい」


 澪は否定しない。


「ですが、白い腕が接続路へ侵入したのは別です」


 人々の叫び声が近づく。


 収容壕の奥から。


 何百人もの避難民が防爆扉へ向かって走ってきた。


「外へ出せ!」


「ここは偽物だ!」


「元の世界に帰せ!」


 警備員が盾を並べる。


「止まってください!」


「押さないで!」


「後方へ戻れ!」


 群衆は止まらない。


 先頭の男が盾へぶつかる。


 後ろから押され。


 肋骨が軋む。


 子供が転ぶ。


 誰かの靴が、小さな背中を踏んだ。


 母親が叫ぶ。


「息子が! 下にいるの!」


 人の波は聞かない。


 倒れた子供の腕が。


 靴の下で折れた。


「発砲するな!」


 真壁が警備員へ叫ぶ。


「でも、このままでは突破されます!」


「撃てば止まる数じゃない!」


 白い手の眼球が。


 群衆を見ている。


 観測している。


 恐怖。


 怒り。


 混乱。


 別の世界で死んだ人間の記憶が、現在の身体を奪っていく。


「榊を殺せば止まるか」


 久世が散弾銃を向ける。


 澪が答える。


「分かりません」


「可能性は」


「入口が閉じる可能性、三十一パーセント」


「残りは」


「別の観測者へ移ります」


 白い手がゆっくり動く。


 冬真。


 真白。


 久世。


 真壁。


 次の器を選ぶように。


 掌の眼が、一人ずつ見ていく。


「撃て」


 榊が言った。


 自分の口で。


「俺を撃て、久世」


「黙っていろ」


「移る前に殺せ」


「それで止まる保証がない」


「俺の中にいる!」


 榊が自分の胸を掻きむしった。


「二十年前から……ずっと……!」


 爪が防護服を裂く。


「時々、記憶がない日があった」


 皮膚へ爪が食い込む。


「出した覚えのない命令書」


 血が滲む。


「会った覚えのない人間が、俺を知っていた」


 榊は笑った。


 乾いた。


 壊れかけた笑いだった。


「俺が隠していたんじゃない」


 背中の白い手が、榊の首へ指を回す。


「俺を使って、隠していた」


 手が締まる。


 榊の呼吸が止まる。


 膝をつく。


 真白が短銃を構える。


「手だけ撃つ」


「眼球を狙え」


 冬真が言った。


「榊にも当たる」


「外すな」


「簡単に言うね」


「できるだろ」


「……できるけど」


 真白が息を止めた。


 引き金。


 弾丸が白い掌へ向かう。


 眼球へ直撃する寸前。


 手が榊の背中へ沈んだ。


 弾丸は防護服を貫く。


 榊の肩を抉った。


「っ……!」


 血が飛ぶ。


 白い手は消えた。


 だが。


 群衆の混乱は止まらない。


「発信継続!」


 澪が叫ぶ。


「白い腕が補助錨側へ移動しました!」


 十二基。


 地下深くに埋められた時象錨。


 その一本ずつへ。


 白い手が生えていく。


 巨大な金属杭へ。


 人間の指。


 腕。


 眼球。


 地下施設全体が。


 一つの生き物へ変わり始める。


「補助錨を止めろ!」


 真壁が管理室へ命じる。


『停止命令、拒否されます!』


「手動切断!」


『地下区画が避難民で封鎖されています!』


 十八万人が。


 あらゆる通路へ溢れている。


 制御室へ行くには。


 群衆を押し退けなければならない。


「第六班、地下制御室へ向かう」


 久世が言った。


「澪、経路を」


「通常経路は通行不能です」


「別経路」


「整備用縦坑があります。ただし、時象錨の中央を通ります」


「白い腕の中か」


「はい」


「行くぞ」


 真白が冬真を見る。


「冬真は?」


「残る」


 冬真が答えた。


「何で」


「十八万人を止める」


「一人で?」


「一人じゃない」


 冬真は群衆を見る。


 泣き叫び。


 殴り合い。


 互いを過去の敵だと思い込んでいる人々。


「今ここにいる十八万人がいる」


「その十八万人が暴れてるんだけど」


「戻す」


「どうやって」


「名前を使う」


 真白が眉を寄せる。


「御厨の槍みたいに?」


「逆だ」


 御厨玲央の槍は。


 名前から過去の記録を引き出し。


 現在の身体を固定した。


 なら。


 現在の名前を。


 現在へ繋ぐこともできる。


「危険です」


 澪が言う。


「十八万人の個体情報を同時に処理すれば、冬真の認識が上書きされます」


「何分持つ」


「秒単位です」


「十分だ」


「十分じゃない」


 真白が冬真の胸を指で押した。


 折れた肋骨へ。


 冬真の顔が僅かに歪む。


「痛い」


「今の瀬名冬真は、肋骨が折れてて、右目がなくて、私に押されると痛がる十九歳」


「何の確認だ」


「名前だけじゃ足りないから」


 真白は冬真を見上げる。


「自分まで忘れないで」


 冬真は答えなかった。


 ほんの僅かに。


 左手で真白の額を押し返した。


「近い」


「今それやる?」


「確認だ」


「何の」


「柊真白。距離感がおかしい」


「最悪の覚え方」


 久世が散弾銃を肩へ掛ける。


「終わったら続けろ」


「続けないよ!」


「行くぞ」


 久世。


 真白。


 澪。


 第四班の隊員たちが、整備縦坑へ向かう。


 冬真だけが。


 防爆扉の前へ残った。


 ◇


 最初に繋いだのは。


 足元で倒れている少年だった。


 人の波に踏まれ。


 右腕が折れている。


 母親が身体へ覆い被さり。


 必死に守っていた。


「名前は」


 冬真が尋ねる。


 母親は冬真を見上げる。


「何?」


「子供の名前」


「悠斗……三枝悠斗」


 冬真は少年の肩へ触れた。


「三枝悠斗」


 現在の記録を探す。


 滑走路へ避難してきた。


 母親と二人。


 小学二年。


 右腕を踏まれた。


 今。


 ここにいる。


 別の世界で。


 妹を食べられた少年ではない。


「お前の妹は」


 少年が泣きながら冬真を見る。


「いない……」


「母親は」


「ここにいる」


「今は何歳だ」


「八歳……」


「死んだのはいつだ」


「死んでない」


 少年の目が。


 現在へ戻る。


「お母さん……?」


 母親が泣きながら抱き締める。


 一人。


 糸が繋がった。


 冬真の認識票が熱を持つ。


 次。


 自分の腹を裂いていた女。


 救護員に拘束され。


 血まみれの指を震わせている。


「名前は」


「嫌……中にいる……」


「名前を言え」


「木が……」


「今の名前だ」


 女の頬を掴む。


 左目を合わせる。


「誰だ」


「……藤崎」


「続けろ」


「藤崎、沙耶」


「腹に何がある」


「種が……」


「違う」


 冬真は傷へ手を当てる。


 皮膚。


 脂肪。


 裂けた筋肉。


 その奥。


 植物はない。


「傷だけだ」


「でも」


「今はない」


 藤崎沙耶。


 二十九歳。


 看護師。


 夫と避難。


 夫は別区画。


 腹の種は。


 切除歴百八十八号の誰かの記憶。


「お前の夫の名前は」


「隆志……」


「生きている」


「本当に?」


「現在の登録では」


 女の呼吸が戻る。


 また一人。


 現在へ繋がる。


 二人。


 十人。


 百人。


 冬真は名前を呼び続けた。


 全員へ直接触れられない。


 だから。


 収容壕の放送設備を手繰る。


 警備員の端末。


 避難登録。


 医療記録。


 家族情報。


 現在に存在するすべての記録を。


 一本ずつ。


 冬真の認識票へ集める。


『北区画、避難番号七万八千二百十一』


『氏名、佐伯正人』


「佐伯正人」


 冬真の声が、収容壕全体へ流れる。


「現在六十三歳。妻は佐伯由美。長男は北海道。お前は二十二歳で死んでいない」


 老人が顔を上げる。


『西区画、避難番号二万一千四百三』


「戸塚莉奈。現在十四歳。地下工場にはいなかった。昨日まで中学校へ通っていた」


『中央区画――』


 名前。


 年齢。


 家族。


 現在。


 無数の人間を。


 今ここへ固定する。


 白い腕も抵抗する。


 切除世界の記憶を強く流し込む。


 飢餓。


 殺人。


 解体。


 人間を土へ植えた感触。


 子供を食べた味。


 海底で肺が潰れた痛み。


 冬真の中へも。


 すべてが流れ込んでくる。


「っ……」


 膝が揺れる。


 口から血が落ちた。


 自分の名前が。


 遠くなる。


 瀬名冬真。


 十九歳。


 第六封鎖班。


 それだけでは。


 十八万人へ埋もれる。


『あなたは誰』


 白い腕の声が。


 頭の中で尋ねた。


『二十二歳で死んだ佐伯正人』


『娘を食べた宮原美咲』


『海底都市で溺れた柊真白』


『六万の子を土へ埋めた荒牧岳』


 名前が重なる。


『どれがお前だ』


 冬真の左目から血が流れる。


 自分が分からない。


 身体が。


 何十万人もの死へ引かれていく。


 そのとき。


 通信から真白の声が聞こえた。


『冬真』


「……」


『返事して』


「制御室へ行け」


『それは瀬名冬真の言い方』


 暗い縦坑。


 銃声。


 白い腕と戦いながら。


 真白は通信を切らない。


『私を追加装備みたいに扱う』


「事実だ」


『すぐ自分だけ残る』


「必要だった」


『怪我を隠す』


「聞かれなかった」


『小突く場所が雑』


「……」


『肋骨を押すと痛がる』


「やめろ」


『カレーの話には混ざらないのに、少し笑う』


 冬真の呼吸が戻る。


『十九歳。右目なし。今いる第六封鎖班の瀬名冬真』


 真白の声が強くなる。


『私が知ってる冬真は、それ』


 瀬名冬真。


 現在。


 一つの糸が。


 冬真自身へ繋がった。


「分かった」


『本当に?』


「ああ」


『じゃあ、私の名前は』


「柊真白」


『ほかは』


「うるさい」


『大丈夫そうだね』


 冬真は立ち上がった。


 十八万人の名前。


 現在の記録。


 すべてを。


 自分を中心にするのではなく。


 人と人の間へ繋ぎ直す。


「自分の隣を見ろ」


 冬真の声が。


 収容壕全体へ響く。


「知らない過去を見るな」


 母親。


 子供。


 夫婦。


 友人。


 隣にいる。


 現在の人間。


「今いる相手の名前を呼べ」


 最初は。


 誰も従わなかった。


 冬真が続ける。


「一人で思い出すな」


 泣いている老人の隣。


 娘が父親の手を握る。


「佐伯正人」


 老人が娘を見る。


「……由美?」


「違う。私は恵」


「恵」


 名前を呼ぶ。


 別の場所。


 腹を裂いた女の夫が駆け寄る。


「沙耶!」


「隆志……」


 少年の母親。


「悠斗」


「お母さん」


 一つ。


 十。


 百。


 十八万人が。


 隣にいる者の名前を呼び始める。


 白い腕が与えた過去ではない。


 現在を共有する相手の名前。


 声が広がる。


 誰かが間違える。


 泣く。


 殴られる。


 それでも。


 呼び直す。


 収容壕を満たしていた切除記憶が。


 少しずつ薄れていく。


『観測対象の固定率上昇』


 白い腕の声。


『記憶返還、失敗』


 冬真の前。


 空中に白い指が現れる。


 何もない場所を裂き。


 掌の眼が出てくる。


「なぜ拒む」


 白い手が問う。


「彼らの人生だ」


「同じ人間」


「違う」


「同じ名前」


「今が違う」


「捨てられた者は」


 白い指が冬真の喉へ近づく。


「誰が呼ぶ」


 冬真は刀を抜いた。


 未来の長刀はない。


 現在の欠けた刃だけ。


「俺が覚える」


「二百十二の世界を?」


「ああ」


「何億の名前を?」


「できる範囲で」


「できない」


「なら増やす」


「何を」


「覚える人間を」


 冬真は白い掌の眼へ刀を突き立てた。


 眼球が潰れる。


 白い手が指を震わせた。


「一人で全部を救うのはやめた」


 刃を捻る。


「今度は、全員で背負う」


 白い手が裂けた。


 人間の叫びが。


 何万もの声となって噴き出す。


 冬真は刃を離さない。


「榊!」


 肩を押さえていた榊が顔を上げる。


「何だ」


「お前も呼べ」


「誰を」


「二十年前のお前じゃない」


 冬真は榊を見る。


「今のお前の名前だ」


 榊の唇が震える。


「榊宗一郎」


「もう一度」


「榊宗一郎」


 背中。


 防護服の下で蠢いていた白い指が止まる。


「俺は」


 榊が胸へ手を置く。


「時象監理室主任、榊宗一郎」


 白い手が。


 榊の背中から引き剥がされる。


 皮膚を裂き。


 肉を何本もの指で掴みながら。


 外へ出ようとする。


 榊が絶叫した。


 肩甲骨の間が開く。


 血が噴く。


 白い腕。


 肘。


 肩。


 人間一人分の上半身が。


 榊の背中から生まれようとしている。


「押さえろ!」


 久世たちが縦坑から戻ってきた。


 真白が榊の身体を支える。


 澪が白い腕へ接続線を打ち込む。


「補助錨との接続を切断!」


 白い上半身が暴れる。


 顔はない。


 胸部には。


 赤い眼が一つ。


 久世が銃口を押しつけた。


「榊」


「撃て!」


 散弾銃が火を噴く。


 白い胸が吹き飛んだ。


 赤い眼球が露出する。


 冬真が踏み込む。


 一閃。


 眼球を。


 縦に断った。


 白い上半身が崩れる。


 肉ではなく。


 何千枚もの薄い紙となって。


 床へ散った。


 一枚ずつ。


 人間の名前が書かれている。


 切除された者たちの名簿。


 榊は血まみれのまま、床へ倒れた。


「榊!」


 真壁が駆け寄る。


 背中には。


 人間の上半身が抜けたほどの穴が開いている。


 脊柱が見え。


 片方の肺が潰れていた。


 帆村修司が救護車両から走ってくる。


「何で俺が休むと、すぐ増えるんだ!」


 榊の傷へ手を置く。


「発生時刻!」


「今です!」


「見れば分かる! 秒まで言え!」


 澪が答える。


「午前三時五十二分、十四秒!」


「《未決傷》開始!」


 榊の傷が。


 起きる直前へ戻り始める。


 帆村の背中が。


 同じ形に裂けた。


「ぐっ……!」


 膝をつく。


 医療員たちが二人を支える。


 帆村は血を吐きながら冬真を睨んだ。


「お前らの班、負傷者を増やす規則でもあるのか」


「榊は班員じゃない」


「そういう話じゃない!」


 真白が冬真の腕を引く。


「邪魔だから下がって」


「俺も負傷者だ」


「知ってる。だから」


 額を軽く小突かれる。


「座ってて」


 冬真は数秒黙り。


 壁際へ座った。


 久世が横を見る。


「素直だな」


「医療員に怒られた」


「俺の命令より効くのか」


「治す側のほうが怖いらしい」


 帆村が遠くから叫ぶ。


「聞こえてるぞ!」


 張り詰めていた第四班員の一人が。


 思わず。


 ほんの一瞬だけ笑った。


 すぐに口を押さえる。


 床には血。


 死者。


 散らばった名簿。


 それでも。


 笑えたことに。


 自分自身が驚いていた。


 ◇


 記憶返還による死者。


 二百七十一名。


 重傷者。


 千を超えた。


 白い腕との接続を切っても。


 流れ込んだ記憶は完全には消えなかった。


 別の世界で家族を殺した記憶。


 人間を食べた味。


 何十年も地下へ閉じ込められた恐怖。


 それを抱えたまま。


 現在へ戻れない者もいる。


 収容壕の隔離区画では。


 自分の名前を何度も繰り返す声が、夜明けまで続いた。


 三台の収容車は。


 地下第七区画へ搬入された。


 緑葬圏の住民。


 最終収容数。


 六万七百五名。


 新宿から。


 合計二百七十七人を失った。


 冬真は観測室のガラス越しに。


 三つの黒い容器を見下ろしていた。


 隣には真白。


「助けた数を数えてる?」


「失った数を」


「両方数えて」


「なぜ」


「片方だけだと、また変な方向に行くから」


 冬真は答えない。


 黒い容器の内部。


 緑色の髪の少女が。


 赤い眼球の入った箱を抱えている。


『使わなかったね』


「使わなくて済んだ」


『使えば、もっと簡単だった』


「簡単なものほど疑えと医療員に教わった」


『医療の話?』


「たぶん違う」


 少女が少し笑った。


 初めて。


 年齢相応に見えた。


『眼は、まだここにある』


「ああ」


『いつ取りに来る?』


「お前の名前を聞いてからだ」


 少女の笑みが消える。


『名前はない』


「なら付ける」


『お兄ちゃんが?』


「嫌か」


 少女は黒い箱へ顔を伏せた。


『前にも、付けてくれた』


「何と」


『忘れた』


「本当に?」


『今度は、本当』


 少女の背後。


 根の奥で。


 何かが動いた。


 六万人ではない。


 巨大な影。


 人間の形でも。


 植物でもない。


 少女は気づいていない。


 冬真の右眼窩だけが。


 強く疼いた。


『お兄ちゃん』


「何だ」


『その眼は』


 少女が箱の中の赤い眼球を見る。


『未来を見るために作られたんじゃない』


「何を見る」


『最初の外側』


「外部事象か」


 少女は答えなかった。


 代わりに。


 箱の眼球が。


 冬真ではない方向へ動いた。


 観測室の背後。


 誰もいない壁へ。


 赤い瞳が焦点を合わせる。


『今も』


 少女の声が震えた。


『そこから見てる』


 冬真が振り返る。


 白い壁。


 監視装置。


 何もない。


 真白も銃へ手を伸ばす。


「何がいるの」


「見えない」


 壁の中央。


 小さな亀裂が走った。


 内側からではない。


 収容壕の外からでもない。


 壁という平面の。


 さらに向こう側から。


 細い。


 黒い爪が差し込まれた。


 爪が壁を左右へ広げる。


 その隙間から。


 星のない空が見えた。


 東京でも。


 切除世界でもない。


 何も存在しない暗闇。


 そこに。


 巨大な眼が一つ。


 収容壕を。


 冬真を。


 少女の抱える赤い眼球を。


 じっと見ていた。


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