第16話 見られていた眼
立川第三時象収容壕は、旧飛行場の地下に造られていた。
地上から見えるのは、長く伸びた滑走路と、半壊した格納庫だけ。
滑走路の左右には避難民用の天幕が並び、毛布へ包まれた人々が身を寄せ合っている。
空はまだ夜だった。
時刻は午前三時四十一分。
午前二時十三分に出現した十二の消失区は、一つも消えていない。
東の空には、現在の東京を覆う黒煙。
南には、海面から突き出した未来の軍艦。
新宿方面では、停止した巨大樹木が高層ビルを抱いたまま、緑色の光を放っていた。
夜明けが来る気配はある。
だが。
朝になれば元へ戻るという保証はなかった。
「開門を申請する」
久世玲司が、地下収容壕の防爆扉へ認識票を当てた。
『所属を確認』
「時象災害対策局、第六封鎖班」
『同行者数を入力してください』
「局員二十七。負傷者十九。時象避難民、六万七百十一」
機械音声が止まった。
数秒。
扉の上にある監視装置が、三台の黒い収容車へ向く。
『再入力してください』
「六万七百十一人だ」
『当収容壕の残存受入可能人数は、一万八千二百名です』
「人間六万人分の空間を使うわけじゃない」
『時象質量は人数に比例します』
「仮設区画へ圧縮している」
『固定点が単独個体です』
監視装置が瀬名冬真へ向く。
潰れた右目。
欠けた刀。
胸元の認識票から伸びた三本の接続線。
『固定点の生命活動停止時、全収容対象が実体化します』
「だから収容壕へ移す」
『収容した場合、壕内時象密度が許容値を超過します』
扉は開かない。
天幕から避難民たちがこちらを見ている。
黒い車両。
内部へ詰め込まれた、別の終末の住民。
事情を知らなくても。
何か危険なものが運ばれてきたと分かる。
「外で待機させろってこと?」
柊真白が言った。
『時象避難民は現在座標外へ移送してください』
「現在座標外ってどこ」
水城澪が端末を操作する。
「壕周辺の地下には、切除領域廃棄孔があります」
「廃棄?」
真白の声が低くなる。
「仮設区画ごと現在から切り離す設備です」
「六万人を捨てろって?」
『収容壕内部には現在住民十八万四千二百十一名が避難しています』
扉の音声は変わらない。
『時象避難民の受け入れにより、全住民が消失する危険があります』
誰もすぐには言い返せなかった。
六万人を入れる。
失敗すれば、十八万人が巻き込まれる。
数だけなら。
答えは出ている。
「責任者と話す」
久世が言った。
『収容壕責任者は拒否しています』
「名前は」
『真壁総司収容管理官』
「繋げろ」
『拒否しています』
久世が散弾銃を持ち上げた。
「扉を撃っても開かないよ」
御影千景が言った。
開かなくなった左目へ黒い眼帯をつけ、先頭車両の側面へ背を預けている。
「地下三層まで隔壁。爆破したら、向こう側の避難民ごと埋まる」
「分かっている」
「顔が分かってない」
「これは生まれつきだ」
「それは悪かった」
久世の散弾銃は下がらなかった。
◇
収容車の後方。
救護車両の中では、荒牧岳の手術が続いていた。
「血圧、また落ちます!」
「帆村さん!」
「分かってる!」
手術台の横に立つ男が、荒牧の脇腹へ手を置いた。
三十二歳。
痩せた身体。
白衣の上から、防護装備を着ている。
名札には《第三時象医療班・帆村修司》。
「傷が生じた時刻を確認」
帆村が目を閉じる。
「午前二時五十七分、十七秒」
荒牧の開かれた腹部。
断裂した血管から噴き出していた血が止まった。
液体が固まったわけではない。
血そのものが。
傷を負う直前の位置へ戻ろうとするように、身体の中へ引いていく。
「《未決傷》、開始」
帆村の声が掠れる。
「二百十三秒だけ、この傷はまだ起きていない」
医療員たちが一斉に手を動かす。
「血管接合!」
「腎臓側、先に!」
「腸管は後回し!」
帆村の白衣に、赤い染みが浮かんだ。
荒牧と同じ位置。
自分の左脇腹から。
血が滲んでいる。
瀬名冬真が扉の外からそれを見ていた。
「傷を移しているのか」
帆村は目を開けない。
「違う」
「なら、なぜ血が出る」
「未決にした結果を、俺が観測してる」
「意味が分からない」
「俺にも分からない」
帆村が吐き捨てる。
「昔、病院が一つ消失区になった。中では、医者が診断するまで怪我が確定しなかった」
彼の腹部から流れる血が増える。
「骨が飛び出しても、死んでると判断されるまでは歩けた。首が半分切れても、まだ助かると思ってる間は喋れた」
「そこから戻った?」
「俺と患者二人だけ」
「患者は」
「今も死んでない」
「生きているのか」
「死んでいないだけだ」
帆村の口から血が垂れた。
「八年間、怪我が確定してない」
二百十三秒。
時計が減っていく。
荒牧の傷を縫う医療員の一人が、涙を流していた。
恐怖ではない。
集中を切らさないために、瞬きすら我慢している。
「百秒!」
「接合を続けろ!」
帆村の膝が揺れる。
冬真が身体を支えた。
「触るな」
「倒れる」
「倒れても能力は切れない」
「では支えても問題ない」
「理屈が雑だな」
「よく言われる」
帆村が片目だけを開け、冬真を見る。
「お前、自分の目を刺した奴か」
「ああ」
「患者としては最悪だ」
「医療員にも言われた」
「治す側の気持ちを考えろ」
「止まれば、ほかが死んだ」
「知るか」
帆村の額に汗が浮かぶ。
「治す側はな、そういう立派な理由ごと腹が立つんだよ」
「……そうか」
「素直に聞くな。余計に腹立つ」
車内の時計。
残り十秒。
「縫合完了!」
「血流を戻せ!」
「未決傷、解除します!」
帆村が荒牧から手を離した。
止まっていた二百十三秒が、傷へ戻る。
荒牧の身体が跳ねた。
血圧計が激しく鳴る。
「出血なし!」
「接合維持!」
「脈拍戻ります!」
帆村は同時に崩れ落ちた。
冬真が受け止める。
男の左脇腹には、刃物で刺されたような深い傷が開いていた。
「帆村さん!」
「放っとけ」
「あなたも治療を」
「四分で塞がる」
「なぜ」
「俺の傷じゃないからだ」
帆村は荒牧を見る。
麻酔下でも。
荒牧の眉間には深い皺が寄っている。
「そいつは、たぶん助かる」
「たぶん?」
「医者が絶対って言ったら疑え」
帆村は冬真の腕を借り、立ち上がった。
「ただし、次に同じ場所を刺されたら終わりだ」
「伝えておく」
「言って聞く顔か、あれ」
「聞かない」
「お前もだろ」
冬真は否定しなかった。
◇
『廃棄処理開始まで、残り十分』
収容壕の防爆扉に表示が出た。
地面から、低い振動が伝わる。
三台の収容車を中心に。
滑走路へ円形の亀裂が広がっていく。
「廃棄孔が開きます」
澪が言った。
「車両ごと地下の切除領域へ落とすつもりです」
「運転して離れる」
第四班の隊員が運転席へ乗り込む。
エンジンがかからない。
「制御を奪われています!」
「外部から固定された」
御影が車体へ触れる。
「タイヤだけじゃない。車両の位置そのものが登録されてる」
冬真が認識票へ手を置く。
六万七百十一人の感覚。
暗い根の内部。
重なり合う呼吸。
恐怖。
眠り。
その中から。
一人の少女が、冬真を見ている。
緑色の髪。
十歳ほどの身体。
黒い箱を抱えている。
箱の中には。
赤い虹彩を持つ右眼球。
『聞こえる?』
少女の声が。
耳ではなく、右眼窩の奥へ届いた。
「聞こえる」
真白が冬真を見る。
「誰と話してるの」
「中の少女だ」
「また急に怖いこと言うね」
『お兄ちゃん』
少女が黒い箱へ手を置く。
『この眼を使えば、扉を開けられる』
「収容壕の?」
『うん』
「代償は」
少女は答えない。
「何が起きる」
『見つかる』
「誰に」
『最初から、お兄ちゃんを見ていたもの』
黒い箱の中。
右眼球が動く。
赤い虹彩が、冬真を正面から捉えた。
「これは俺の目か」
『違う』
少女の返答は早かった。
『お兄ちゃんが最初に使った眼』
「同じじゃないの」
真白には少女の声が聞こえていない。
それでも冬真の問いから、内容を推測している。
「俺の身体にあった眼じゃない?」
『うん』
「誰のものだ」
少女は箱を抱き締めた。
『知らない』
「嘘だな」
少女の顔が僅かに歪む。
『知らないほうがいい』
「なら使わない」
『六万人が捨てられる』
「それでもだ」
少女の目に怒りが浮かんだ。
『また置いていくの?』
冬真は黙る。
『お兄ちゃんは、いつもそう言う』
暗い根の奥。
少女の背後へ。
何万人もの人影が立っている。
身体は根へ溶け。
顔も残っていない。
それでも。
冬真を見ている。
『危ないから』
『分からないから』
『次に救うから』
少女の声へ、六万人の声が重なる。
『そう言って、置いていく』
「冬真」
真白が肩へ触れた。
「今、何を言われてるの」
「昔の俺と同じだと」
「違うの?」
冬真が真白を見る。
「否定してほしかった」
「嘘ついても仕方ないでしょ」
『残り八分』
滑走路の亀裂が広がる。
収容車の後輪が沈み始めた。
避難民の天幕から。
悲鳴が上がる。
「車両の下に空間欠損!」
「固定具を外せ!」
「外せません!」
第四班の隊員たちが、収容車へワイヤーを繋ぐ。
装甲車で引く。
動かない。
位置そのものが。
現在から切り離され始めている。
「認識票の固定を解除すれば?」
真白が尋ねる。
澪が首を振る。
「六万人が即座に崩壊します」
「じゃあ眼を使うしかない?」
「何が起きるか不明です」
「分からないことばっかり」
真白は冬真を見た。
「どうするの」
「使わない」
「でも」
「その眼が何かを呼ぶなら、別の方法を探す」
『残り七分』
冬真は地面へ膝をつく。
左手を滑走路へ当てた。
現在を見る。
収容壕。
防爆扉。
避難民。
地下施設。
六万人。
十八万人。
それぞれが。
今ここに存在している。
「澪」
「はい」
「収容壕を固定しているものは」
「地下の時象錨です」
「数は」
「公開情報では一基」
「本当に一つか」
「確認します」
澪の端末が地下を走査する。
結果。
一基。
中央制御室の直下。
「それだけでは十八万人を固定できない」
「現在側の設備であれば、理論上は」
「六万人で限界を超える設備が、十八万人を支えている」
澪の指が止まった。
「地下施設自体が、現在人数より古い想定で設計されています」
「何人分だ」
「少なくとも、三十万人」
真白が防爆扉を見る。
「じゃあ入れるじゃん」
「時象質量は単純な人数ではありません」
「でも、管理音声は受入可能一万八千って」
「誰かが許容量を偽装しています」
冬真は目を閉じた。
右眼窩。
百八十八号の共有感覚。
地面へ伸びる細い根。
収容壕の外壁。
コンクリートの向こう。
地下へ埋められた金属構造。
一つ。
中央の時象錨。
その周囲に。
切断された十二本の接続路。
「十三基ある」
冬真が言った。
澪が端末を見直す。
「観測できません」
「切られている」
「誰に」
「収容壕側だ」
防爆扉の向こう。
管理室。
誰かが。
十二基の補助錨を停止している。
六万人を入れられないのではない。
入れないために。
収容能力を落としている。
「真壁管理官へ繋げろ」
冬真が防爆扉へ言った。
『拒否されています』
「十二基の補助錨を停止した記録を持っている」
数秒。
監視装置が動く。
『該当する記録はありません』
「今から全避難民へ共有する」
冬真の認識票が赤く光る。
六万人の感覚。
滑走路の監視設備。
避難民の端末。
収容壕の外部放送。
離れた現在同士を。
一本の線で繋ぐ。
澪が冬真を見る。
「何をしています」
「手繰っている」
まだ未来ではない。
現在に存在する観測経路。
それを掴み。
自分の近くへ引き寄せる。
防爆扉の向こうの音声が。
避難民の端末へ流れた。
『補助錨十二基、停止完了』
男の声。
『時象避難民の接近を確認次第、廃棄孔を起動しろ』
別の声。
『六万人ですよ』
『未来側の人間だ』
『しかし』
『現在の十八万人を守るためだ。記録上、収容不能にしておけ』
天幕の周囲がざわめく。
避難民たちが端末を見る。
防爆扉へ。
収容車へ。
視線が集まる。
「内部記録をどうやって……」
澪が呟く。
「見ていた人間がいた」
「管理室の職員?」
「一人でいい」
誰かが現在を見た。
聞いた。
記録した。
その観測が存在する限り。
冬真は糸を掴める。
『通信経路を遮断します!』
管理室から声。
現在の線が切られる。
だが。
遅い。
天幕にいた一人の老人が、防爆扉へ近づいた。
「開けてやれ」
警備員が止める。
「危険です。下がってください」
「俺たちも、三時間前までは都民だった」
老人は黒い収容車を見る。
「家を失って、ここへ逃げただけだ」
別の女が立ち上がる。
腕に幼い子供を抱いている。
「未来から来たら、人間じゃないの?」
避難民たちが。
一人ずつ立ち上がる。
「入れる場所があるなら入れろ」
「嘘ついて捨てるな」
「中の責任者を出せ!」
声が広がる。
警備員たちは武器を構えられない。
守るべき避難民が。
扉の前へ集まっている。
『残り四分』
防爆扉の上。
新しい通信回線が開いた。
『真壁だ』
五十代ほどの男の声。
「補助錨を起動しろ」
冬真が言う。
『六万人を入れれば、収容壕全体の安全を保証できない』
「止めたままでも保証できない」
『現在住民を危険へ晒すつもりか』
「違う」
冬真は防爆扉を見る。
「未来住民だけを危険へ晒すなと言っている」
『理想論だ』
「そうかもしれない」
『私は十八万人の生命へ責任を負っている』
「なら扉を開けろ」
『なぜだ』
「六万人を捨てたあとで、十八万人へ何と説明する」
真壁は答えない。
「知らなかったと言うのか」
『……』
「機械が決めたと?」
冬真の声は低い。
怒鳴らない。
脅しもしない。
「決めたのは、お前だ」
沈黙。
『残り三分』
滑走路がさらに沈む。
収容車の一台が傾く。
内部人数。
六万七百十一。
六万七百九。
二人減った。
「真壁管理官!」
澪が叫ぶ。
「補助錨を起動すれば、現在側の収容余力は確保できます!」
『計算上の安全率が不足する』
「停止状態より高いです!」
『しかし――』
冬真が防爆扉へ歩く。
胸元から伸びた接続線。
収容車を引きずるように、張り詰める。
「冬真」
真白が隣へ並ぶ。
「何する気」
「扉へ触れる」
「開くの?」
「分からない」
「最近そればっかり」
「前からだ」
扉へ左手を置く。
厚い金属。
向こう側。
十八万人の呼吸。
泣き声。
職員。
補助錨。
十二本の切断された現在。
すべてが見える。
「繋げる」
「どうやって」
「切られたなら」
冬真の左手へ力が入る。
右眼窩から血が流れる。
「手繰り戻す」
十二本の接続路。
地下へ沈んだ錨。
一つずつ。
現在へ引き戻す。
収容壕全体が揺れた。
『補助時象錨一号、起動』
『二号、起動』
『三号――』
機械音声が連続する。
地下から。
巨大な杭が動く音が響く。
扉の表面へ、赤い線が広がった。
『十二号、起動』
『収容許容量を再計算』
数字が変わる。
一万八千二百。
十万。
二十万。
三十一万二千。
『時象避難民の受け入れが可能です』
防爆扉が開き始めた。
隙間から。
地下施設の明かりが漏れる。
冬真の身体が揺れた。
真白が肩を支える。
「今の、かっこよかったって言ったら調子に乗る?」
「乗らない」
「じゃあ言わない」
「なぜ聞いた」
「少し悔しかったから」
御影が横を通る。
「仲いいね」
「千景さんまで言わないで」
「私は何も言ってない」
「今言った!」
扉の奥。
武装した警備員たちが並んでいる。
その中央。
収容管理官、真壁総司。
白髪混じりの男が立っていた。
顔色は悪い。
それでも。
逃げずに冬真を見ている。
「私を拘束するか」
真壁が問う。
久世が前へ出る。
「あとで監理室が判断する」
「榊主任は」
「今いる」
榊宗一郎が後方から歩いてくる。
真壁と視線が合う。
二人とも。
互いを知っている顔だった。
「なぜ補助錨の存在を隠した」
榊が尋ねる。
「お前に言われたからだ」
空気が止まった。
榊の眉が動く。
「俺が?」
「二十年前」
真壁は冬真を見る。
「第一帰還者が再び現れたとき、未来側の集団を収容するなと」
「何を言っている」
「命令書も残っている」
真壁が端末を取り出す。
古い記録。
二〇〇六年。
時象災害対策局が正式に設立される前。
署名。
榊宗一郎。
命令内容。
第一帰還者・瀬名冬真が大規模な時象避難民を伴って出現した場合。
補助錨を停止。
収容を拒否。
必要に応じて、避難民ごと切除すること。
「俺は、こんな命令を出していない」
榊の声が震える。
「署名は本物だ」
「二十年前の俺は、まだ監理室にいない」
「だから局設立前の記録なんだ」
真壁が答える。
冬真の右眼窩。
少女が抱える赤い眼球が。
遠くで動いた。
『見つけた』
少女の声。
『お兄ちゃんを見ていた人』
冬真は榊を見る。
現在の榊。
二十年前の若い榊。
未来で白い腕に操られていた榊。
複数の記録が。
一人の身体へ重なり始めている。
榊の背中。
防護服の下で。
何かが動いた。
肩甲骨の間から。
白い指先が一本だけ。
皮膚を押し上げていた。




