第2話 帰還者名簿
『区域崩壊まで、残り五十六秒』
水城澪の声が地下施設へ響いた。
瀬名冬真は、焼け焦げた認識票を握ったまま動けなかった。
第六封鎖班。
班長。
瀬名冬真。
見間違いではない。
煤を指で拭っても、刻まれた文字は変わらなかった。
「冬真!」
久世の怒声が意識を引き戻す。
地下施設の天井から砂埃が落ち始めていた。壁の亀裂は目に見える速度で広がり、遠くでは何か巨大なものが崩れる音が続いている。
世界そのものが、形を保てなくなっていた。
「それは後だ。今は帰るぞ」
久世の言葉に、冬真は認識票を胸元の収納部へ押し込んだ。
「荒牧、母親を運べ。真白は娘を頼む」
「了解」
荒牧が宮島綾子を抱え上げる。
「すみません……夫が、まだ」
「捜索は次の班に引き継ぐ」
久世が言った。
「今は、あなたと娘さんを現実へ戻す」
「次なんてあるんですか?」
綾子の声は震えていた。
「ここが消えたら、夫はどうなるんですか?」
誰も答えなかった。
消失区の内部に残された者が、次の出現時まで生きていた例は少ない。
そして、たとえ生きていても。
その人間が、以前と同じ状態で戻ってくるとは限らない。
「お母さん」
奈々が真白に抱き上げられたまま、手を伸ばした。
「お父さん、あの人と一緒だから大丈夫だよ」
「あの人って、仮面の?」
「うん。お父さんを連れて、地下の奥に行ったの」
冬真が振り返る。
「奥?」
「そっちじゃないよ」
奈々は、冬真たちが来た階段とは反対方向を指さした。
崩れた寝台の向こう。
壁に空いた、人一人がようやく通れるほどの亀裂。
「下に行ったの。もっとずっと下」
施設の床が、大きく揺れた。
『残り四十七秒。時象固定標との接続率が低下しています』
「何だと?」
『固定標周辺に複数の反応。欠落体です』
荒牧が舌打ちする。
「帰り道で待ち伏せかよ」
「数は」
『七。いえ、九体』
「真白、走れるか」
「子供一人なら余裕」
真白は奈々を片腕で抱え、狙撃銃を背中へ回した。
久世が先頭へ出る。
「来た道を戻る。交戦は最小限。止まるな」
「待って」
奈々が言った。
小さな手が、冬真の胸元を指していた。
「その札、持ってるの?」
「どうして知っている」
「お面の人が言ってたから」
奈々は不思議そうに首を傾げた。
「その人が来たら、返してあげてって」
「誰に返す」
「隊長さん」
冬真の足が止まる。
久世が奈々を見た。
「仮面の人は、そいつを隊長と呼んだのか」
「違うよ」
奈々は冬真を指した。
「お兄ちゃんが隊長さんだよ」
施設全体を揺らす轟音が、会話を断ち切った。
天井の一部が崩れ落ちる。
「走れ!」
久世の叫びと同時に、全員が駆け出した。
◇
『残り三十九秒』
階段へ続く通路は、先ほどまでとは別の形に変わっていた。
壁が内側へせり出し、床には黒い亀裂が何本も走っている。亀裂の奥には底がなく、青白い光だけが深い場所で揺れていた。
「行きと違うぞ!」
荒牧が叫ぶ。
「区域の崩壊に伴う空間変動です」
久世が立ち止まらず答える。
「標識を追え!」
壁に打ち込まれた誘導灯が、一定間隔で緑色に点滅している。
それが現実へ戻るための唯一の目印だった。
三つ目の誘導灯を通り過ぎた瞬間、冬真の視界に別の光景が重なった。
通路を走る自分たち。
五秒後。
先頭の久世が床を踏み抜く。
七秒後。
奈々を抱いた真白が崩落へ巻き込まれる。
十一秒後。
誰も帰還地点へ到達できない。
「止まれ!」
冬真が久世の装備を掴んだ。
「また見えたのか」
「床が落ちる」
「どこだ」
「ここから先、全部だ」
荒牧が足元を見る。
「全部って、おい」
『残り三十四秒』
背後から、獣のような咆哮が響いた。
欠落体が近づいている。
「別の道は?」
久世が問う。
冬真は左右の壁を見た。
初めて見る地下施設。
だが、頭の中には古い地図があった。
この壁の向こうに、保守用の昇降路がある。
その先には地下鉄の構内。
階段を上れば、固定標のある交差点へ出られる。
「右の壁を抜く」
「ただの壁に見えるぞ」
「奥に通路がある」
久世は一秒も迷わなかった。
「荒牧」
「やるしかねえな!」
荒牧が綾子を一度床へ下ろし、大型盾を両手で構える。
盾の後部から杭が展開し、装備と腕を固定した。
「三人とも離れろ!」
荒牧が踏み込む。
全身の補助駆動が唸りを上げ、盾が壁へ激突した。
コンクリートが陥没する。
だが、貫けない。
「もう一発!」
「時間がない」
冬真は刀を抜いた。
視界の端で、まだ存在しない刃が揺れる。
先ほど縫合型を断ったときに現れた、長い刀。
今の武器では壁の奥まで届かない。
ならば、届く自分を引き出す。
冬真は目を閉じた。
灰色の空。
崩壊した駅。
十数人の部下が、自分の指示を待っている。
その中心に立つ大人の自分が、長い刀を振り上げた。
誰かが、その背中を見ていた。
黒い仮面。
白い防護服。
――また、あなたが先に行くの?
「冬真!」
意識が戻る。
右目の奥に、焼けるような痛みが走った。
鼻から血が流れ落ちる。
それでも、刀を構える。
黒い刃の輪郭へ、もう一本の刃が重なった。
今より長く。
今より薄く。
何百回も振るわれ、研ぎ澄まされた刀。
「荒牧、下がれ」
「お前、何する気だ」
「開ける」
冬真は一歩踏み込んだ。
刃を横へ振るう。
轟音はなかった。
ただ、分厚い壁に一本の黒い線が走った。
次の瞬間。
荒牧が盾で破砕した壁面だけではなく、その奥の補強材までが一斉にずれ落ちた。
切断されたコンクリートの塊が、重い音を立てて床へ落ちる。
壁の向こうに、錆びた金属通路が現れた。
「……何だ、今の」
真白が息を呑む。
冬真は答えず、刀を鞘へ戻した。
重なっていた長い刃は、すでに消えている。
右腕の感覚も、指先までほとんど残っていなかった。
「行け」
久世が最初に通路へ飛び込む。
「冬真は最後だ。荒牧、民間人を運べ!」
背後の角から、欠落体が姿を現した。
三体。
四体。
次々に通路へ雪崩れ込んでくる。
『残り二十七秒』
「先に行け」
冬真は振り返った。
「一人で止める気?」
真白が奈々を抱いたまま問いかける。
「追いつく」
「それ、帰ってこない人が言う台詞なんだけど」
「なら、戻ってきたときに文句を言え」
「絶対だからね」
真白は唇を噛み、久世たちの後を追った。
欠落体が走る。
一体目は、四足で天井を這っている。
二体目は人間に近い姿。
三体目には腕がなく、胸部から黒い触手が伸びていた。
冬真の右腕は動かない。
左手で刀を抜く。
天井の個体が飛びかかった。
未来が見える。
爪は首へ。
着地後に反転し、背中を狙う。
冬真は半歩踏み出し、刀の柄頭を欠落体の顎へ打ち込んだ。
首が跳ね上がる。
左手を返し、刃を喉へ滑らせた。
核の位置は頭部ではない。
腹部。
知っている。
なぜ知っているのかを考える時間はなかった。
刀を引き抜き、下から斬り上げる。
赤い核が二つに割れた。
二体目が灰の向こうから突進してくる。
冬真は避けない。
腕を掴まれる直前に、身体を沈める。
相手の勢いを利用し、肩へ担ぎ上げるようにして壁へ投げた。
背中から衝突した欠落体へ、一歩で迫る。
刃を心臓部へ突き込んだ。
手応えがない。
核はそこではない。
「外れか」
胸部から触手が飛んできた。
冬真の脇腹へ突き刺さる。
防護服が裂け、熱い血が流れ出した。
「冬真!」
通路の奥から真白の声が聞こえた。
「戻るな!」
冬真は触手を左腕へ巻きつけた。
強く引く。
触手型の欠落体が体勢を崩す。
それを盾にし、二体目の爪を受けさせた。
爪が触手型の胴体を貫く。
冬真は二体の間へ踏み込み、刀を横薙ぎに振るった。
一つ目。
二つ目。
二体の首が同時に飛ぶ。
だが、核は残っている。
頭を失った肉体が、なお動こうとする。
銃声が響いた。
二体目の腰部が弾ける。
遅れて、もう一発。
触手型の背中が爆ぜた。
露出した赤い核が、ほぼ同時に砕け散る。
「戻るなって言ったでしょ」
遠くの通路で、真白が片膝をついていた。
奈々を荒牧へ預け、狙撃銃を構えている。
「だから戻ってない」
「屁理屈!」
真白が立ち上がる。
「走って!」
冬真は灰の中を蹴った。
金属通路へ飛び込み、崩れた壁の向こうへ入る。
直後。
元いた通路の床が音を立てて崩落した。
追ってきた欠落体が、黒い亀裂の中へ次々に落ちていく。
『残り十八秒』
「標識は!」
久世が叫ぶ。
『正面百十二メートル。直線です』
「この人数で十八秒は無理だぞ!」
荒牧は綾子を背負い、奈々を片腕で抱えている。
冬真の脳裏に、駅構内の地図が浮かんだ。
正面の階段を使えば間に合わない。
左の保守扉。
その先に、上り専用の搬送機。
「左だ」
「また地図にないぞ!」
「ある!」
冬真は保守扉へ向かう。
扉には電子錠がついていた。
電源は落ちている。
「壊す」
荒牧が前へ出ようとする。
「待て」
冬真は端末の横へ手を置いた。
指が勝手に動く。
三回。
一度止める。
長く二回。
端末の下部に隠されていた機械式の解除装置が開いた。
「何で分かるの」
真白が息を切らしながら言う。
「知らない」
冬真は内部のレバーを引いた。
保守扉が開く。
その先には、暗い昇降路があった。
人員搬送用の籠が、地上へ向かって伸びるレールに固定されている。
「乗れ!」
全員が籠へ飛び込む。
久世が緊急上昇レバーを押し込んだ。
動かない。
「電力が死んでる!」
『残り十二秒』
「手動巻き上げは!」
「この人数じゃ間に合わねえ!」
奈々が泣き出す。
綾子が娘を抱き締めた。
冬真は上を見た。
地上まで、およそ二十メートル。
籠の天井。
左右の固定具。
緊急切り離し用の錘。
「荒牧、右の固定具を外せ。久世さんは左」
「外したら落ちるぞ」
「上がる」
冬真は籠の床を指した。
「この搬送機は、下の錘と釣り合ってる。固定具を外せば、錘のほうが重い」
久世が一瞬だけ冬真を見た。
その目には疑問があった。
どうして、この装置の仕組みまで知っている。
それでも今は問わなかった。
「やれ!」
荒牧が右の固定具を蹴り砕く。
久世が左側の解除レバーを引く。
「冬真、中央!」
冬真が床の緊急留め具へ刀を突き刺した。
『残り八秒』
「切るぞ」
刃を捻る。
留め具が外れた。
遥か下で、巨大な錘が落下する音が響く。
籠が跳ね上がった。
猛烈な勢いで、地上へ向かって上昇する。
奈々が悲鳴を上げ、真白がその身体を抱え込む。
頭上の扉が迫る。
「伏せろ!」
荒牧が盾を掲げる。
搬送籠が扉を突き破った。
金属片と埃を巻き上げ、全員が駅構内へ飛び出す。
『残り五秒』
正面に階段。
その先から、固定標の緑色の光が見える。
「全員走れ!」
久世が先頭へ出た。
階段を駆け上がる。
地上の交差点は崩壊寸前だった。
建物が傾き、道路の半分が黒い霧へ飲まれている。
固定標の周囲には欠落体の死骸が散乱していた。
切断面は滑らかだった。
冬真たちが倒したものではない。
『四秒』
荒牧が綾子と奈々を抱えたまま、固定標へ飛び込む。
身体が緑色の光に包まれ、消える。
『三秒』
真白が続く。
『二秒』
久世が固定標の手前で止まり、冬真を待つ。
「先に行け!」
「班員を置いて帰る班長がいるか!」
冬真の背後で、空気が震えた。
振り返る。
黒い霧の中。
白い防護服を着た人物が立っていた。
顔は、黒い仮面で覆われている。
細身の身体。
背丈は冬真よりわずかに低い。
その足元には、十体以上の欠落体が倒れていた。
仮面の人物が、ゆっくりと片手を上げる。
冬真の胸元。
認識票を入れた場所を指さした。
「お前は誰だ」
仮面の奥から、声がした。
若い女の声。
掠れている。
ひどく長い時間、誰とも話していなかったような声。
「それを――」
『一秒』
「今度こそ、なくさないで」
久世が冬真の腕を掴んだ。
固定標へ引き込む。
世界が、白く染まった。
◇
午前二時二十六分。
深町二丁目は、元の街へ戻っていた。
ひび割れた道路も。
崩れた高層建築も。
地下避難施設も存在しない。
コインランドリーの前で、奈々が母親へ抱きついて泣いている。
救護班が二人を保護し、装甲車へ運んでいった。
冬真は交差点の中央に立ち、自分の脇腹へ触れた。
防護服には穴が開いている。
血も残っている。
消失区で受けた傷は、現実へ戻っても消えない。
「医療班を呼ぶ」
久世が言った。
「浅い」
「お前の判断は聞いていない」
冬真は胸元から認識票を取り出した。
現実へ持ち帰った異常物品。
本来なら、消失区の崩壊とともに消えるはずのもの。
認識票は確かに存在していた。
久世が手を伸ばす。
「預けろ」
「局へ?」
「解析に回す」
「その前に聞きたい」
冬真は認識票を握った。
「これを知っているな」
「知らない」
「嘘だ」
「なぜそう思う」
「俺が隊長と呼ばれたとき、驚かなかった」
久世の眉が、わずかに動いた。
「地下でも言ったな」
冬真は続ける。
「俺の動きを見て、同じだと」
「聞き間違いだ」
「誰と同じなんだ」
久世は答えなかった。
遠くで救急車の扉が閉まる。
奈々が窓越しに冬真を見ていた。
その隣には母親しかいない。
父親の宮島修一は、帰還していない。
それでも奈々は泣いていなかった。
まるで、父親がまだ生きていると確信しているようだった。
「瀬名」
観測車両から澪が降りてきた。
十七歳とは思えないほど無表情な少女。
だが、その手には端末が強く握られている。
「何だ」
「持ち帰った認識票を見せてください」
冬真が差し出す。
澪は端末を近づけ、認識票の情報を読み取った。
画面を見た瞬間。
初めて、澪の表情が崩れた。
「どうした」
「この認識番号は、存在しません」
「古いものだからじゃないのか」
「違います」
澪が画面を冬真たちへ向ける。
「局の認識票には、製造年と所属部署を示す管理番号が刻まれています」
表示された文字列。
冬真には意味が分からない。
だが、久世の顔色が変わった。
「製造年は」
久世が低い声で尋ねる。
澪は答えようとして、一度口を閉じた。
「現在、局が使用している管理形式ではありません」
「だから、何年だ」
澪の指が画面の一部分を拡大する。
「この認識票が発行されたのは――」
風が吹いた。
午前二時を過ぎた街。
コインランドリーの看板が、白い光を放っている。
「二十七年後です」
誰も言葉を発しなかった。
冬真は手の中の認識票を見る。
二十七年後。
そのとき、自分は四十六歳。
燃える東京で見た、大人の自分と同じ年頃だった。
認識票の裏側に、細かな傷がついていることに気づいた。
文字ではない。
何かを数えた跡。
縦に刻まれた傷が、いくつも並んでいる。
澪が認識票を裏返した。
「二百十二本あります」
その傷の最後。
何も刻まれていない空白に。
冬真の指が触れた。
瞬間。
耳元で、あの女の声がした。
――次が、最後。
冬真が振り返る。
交差点には誰もいない。
信号機の時計は、午前二時二十六分を示していた。
だが一瞬だけ。
数字が、別の形に見えた。
二時十三分。
あるいは。
二百十三。




