第10話 やり直さない
『残り一分十二秒』
百八十七本の白い腕が、壁を埋め尽くした。
長さも太さも違う。
乳児のように小さな手。
節の浮いた老人の手。
爪を剥がされ、指先から骨を覗かせた腕。
認識票の隙間から生えたそれらは、一斉に瀬名冬真へ伸びてくる。
「右、三十七!」
水城澪の声が飛ぶ。
冬真は右へ刀を振った。
一度。
刃が描いた黒い軌跡へ、傷だらけの長刀が重なる。
三十七本の腕が、手首からまとめて断たれた。
切断面から血は出ない。
代わりに。
人間の声が溢れた。
『助けて』
『まだ死にたくない』
『帰して』
『私を選んで』
切断された手が床を這う。
指だけで冬真の靴へ近づき、爪を立てた。
「止まるな!」
久世の散弾銃が火を噴く。
冬真の背後へ迫った腕が、肉片となって飛び散った。
「前だけ見ろ!」
「左は俺がやる!」
荒牧が片腕で古い銃を構える。
銃口は大きく揺れている。
それでも、一発ごとに白い腕の関節を正確に砕いていく。
肩の傷が開いた。
止血材の隙間から血が流れ、防護服の左半分を赤く染める。
「無理しないで!」
真白が叫ぶ。
「その言葉、今の状況で意味あるか!」
「死ぬ直前まではある!」
真白の狙撃銃が鳴った。
荒牧の背後。
壁から突き出した腕の掌に、穴が開く。
掌の中に埋め込まれていた小さな眼球が潰れ、腕が痙攣した。
「澪、装置の中枢は!」
「見つかりません!」
「壁じゃないのか!」
「この空間全体が装置です!」
『残り五十八秒』
円形空間の中央。
赤い制御盤の周囲から、黒い杭が伸びた。
一本目が冬真の足元を貫く。
半歩ずれる。
二本目。
真白の腹部を狙う。
「真白、伏せろ!」
真白が床へ倒れ込む。
杭が背中の装備を掠め、狙撃銃の照準器を粉砕した。
三本目は荒牧。
四本目は久世。
五本目は澪。
未来残響の中で、五人の身体が次々に貫かれる。
見えた未来を捨てる。
「久世さん、二歩前!」
久世が迷わず踏み込む。
本来なら胸を貫くはずだった杭が背後を通過した。
「荒牧、床を撃て!」
「どこだ!」
「俺の右!」
荒牧が撃つ。
床に埋め込まれた認識票が弾け、その下から白い腕が露出した。
久世が銃床を振り下ろす。
腕の骨が折れる。
杭の軌道が乱れ、澪の頬を掠めて壁へ突き刺さった。
「一つの腕が、攻撃一系統を制御しています」
澪が血の流れる頬へ触れずに言う。
「すべて断てば止まります」
「百八十七本だぞ!」
「残り百四十九本です」
「数える余裕あるなら手伝え!」
「手伝っています」
澪の端末から細い接続線が伸びる。
床へ突き刺さり、認識票の下を走る制御経路へ侵入した。
円形空間の照明が明滅する。
十一本の腕が同時に硬直した。
「十一方向、停止!」
「十分だ!」
冬真が前へ出る。
白い腕の群れへ踏み込んだ。
一閃。
二閃。
刃の届く範囲だけではない。
未来の長刀が、現在の刀身の先へ重なる。
白い腕が空中で細切れになった。
肉片が雨のように落ちる。
冬真の頬。
肩。
髪。
他人の血が全身へ降りかかった。
『残り四十二秒』
「速すぎます」
澪が言った。
「何が」
「時間の減少が、実時間と一致していません」
表示が飛ぶ。
四十二秒。
三十八秒。
三十三秒。
「装置が処理を前倒ししています!」
「止められるか」
「管理者命令を拒否しています」
「なら壊す」
「装置全体を破壊すれば、地下十三階まで崩落します」
真白が弾倉を交換する。
「私たちだけじゃなく、上にいる職員も巻き込まれる?」
「本部全体が切除空間へ落ちる可能性があります」
「どっちにしろ最悪だね」
白い腕が再び集まる。
今度は冬真ではなく。
黒い柱の上に固定された五人の死体へ伸びた。
死んだ久世。
死んだ真白。
死んだ荒牧。
死んだ澪。
死んだ榊。
腕が死体の胸へ入り込む。
肋骨を広げ。
臓器を掻き回し。
内部に埋め込まれた赤い核を引きずり出した。
五つの核が、空中へ浮かぶ。
『帰還記録を回収します』
死んだ真白の身体が大きく痙攣した。
「駄目」
喉の裂けた口から、声が漏れる。
「それを取られたら……また、忘れる」
「何を」
現在の真白が問う。
「四回分」
死んだ澪の空の頭蓋から、機械音が響く。
『過去四回の行動記録を、切除核に保存しています』
「私たちが覚えていないのは」
現在の澪が五つの核を見る。
「やり直すたび、記憶をあの身体へ残していたから」
『はい』
「じゃあ、あなたたちは」
『記録媒体です』
死んだ澪は淡々と答えた。
頭蓋の奥には何もない。
それでも。
声だけが僅かに震えていた。
『私たちの死を、次の私たちへ渡すための』
白い腕が核を制御盤へ運ぶ。
冬真が走ろうとする。
「行くな!」
死んだ久世が叫んだ。
「五回目も同じだ!」
「何が起きる」
「お前は俺たちを守ろうとして、核を奪い返す!」
「当然だ」
「それで真白が死ぬ!」
未来残響が開く。
冬真が核へ手を伸ばす。
制御盤の下から白い腕が現れる。
冬真の背後。
狙撃位置にいる真白の胸を貫く。
「真白、位置を変えろ!」
「分かった!」
真白が右へ走る。
だが。
未来が変わる。
移動先の床が開き、黒い杭が足首から頭部までを串刺しにする。
「止まれ!」
真白が急停止する。
「どっち!」
「動くな!」
未来がまた変わる。
天井から腕が落ち、真白の首を握り潰す。
何度変えても。
真白が死ぬ。
荒牧を動かせば荒牧が死ぬ。
久世を向かわせれば久世が死ぬ。
澪が装置へ接続すれば、脳を焼かれる。
誰かを救えば、別の誰かが死ぬ。
「見せられている」
冬真が呟いた。
「何?」
久世が問う。
「未来じゃない」
冬真の右目へ痛みが走る。
眼球の奥で血管が切れた。
視界の右半分が赤く染まる。
「装置が、俺に選ばせようとしてる」
誰を死なせるか。
誰を残すか。
誰を切り捨てるか。
第一切除と同じ。
九百万人か。
次の時間か。
仲間の一人か。
やり直しか。
選択肢を並べ。
その中から、最もましな犠牲を選ばせる。
「だから俺は」
冬真の声が掠れる。
「何度も押した」
『残り二十二秒』
五つの核が制御盤へ収まる。
『過去行動記録を初期化します』
「待って!」
現在の真白が死んだ自分へ手を伸ばす。
死んだ真白は、血まみれの顔で笑った。
「大丈夫」
「何が」
「五回目の私は、まだ生きてる」
「あなたも私でしょ!」
「違うよ」
死んだ真白の足元から灰が上がる。
「私は、失敗したほう」
「そんな言い方しないで!」
真白が柱へ駆け寄ろうとする。
久世が腕を掴んだ。
「離して!」
「行けば死ぬ!」
「だからって見てろっていうの!」
「見るんだ!」
久世の怒声が響く。
「こいつらが何のために残ったと思ってる!」
真白の動きが止まる。
死んだ荒牧が笑った。
腹から下のない身体。
腸を柱へ巻きつけ、辛うじて上半身を起こしている。
「そういうこった」
現在の荒牧を見る。
「おい、五回目」
「何だ」
「左肩、使えなくなるぞ」
「もう使えねえよ」
「なら同じだな」
「一緒にすんな。俺はまだ下半身ある」
「そいつは羨ましい」
死んだ荒牧の核が、制御盤へ沈む。
身体が灰へ変わった。
「女房に会ったら」
現在の荒牧の表情が変わる。
「俺たちのことは言うな」
「……覚えてねえだろ」
「それでいい」
最後に。
死んだ荒牧は穏やかな顔をしていた。
「今度こそ、初めましてから始めろ」
灰が崩れた。
死んだ澪も。
死んだ久世も。
死んだ榊も。
身体の端から消えていく。
『残り十五秒』
「冬真」
死んだ久世が呼んだ。
「何だ」
「四回とも、お前は最後に装置を起動した」
「ああ」
「理由は俺たちだ」
冬真は答えない。
「自分が耐えれば、もう一度全員を救えると思った」
「……ああ」
「だから失敗した」
「見捨てろと言うのか」
「逆だ」
死んだ久世の口元が歪んだ。
「俺たちを、勝手に過去にするな」
核が制御盤へ沈む。
死体が灰となった。
現在の久世が、冬真の肩を掴む。
「聞こえたな」
「ああ」
「命令だ」
冬真を見る。
「やり直すな」
『残り十二秒』
制御盤が赤く輝く。
『切除準備完了』
冬真の胸元にある認識票から、光の線が伸びた。
制御盤へ繋がる。
『管理者へ最終確認』
赤い画面に二つの選択肢が浮かぶ。
切除を実行。
切除を実行。
どちらも同じ。
拒否する項目はない。
冬真は制御盤へ近づいた。
「冬真」
真白の声。
怯えていた。
それでも銃を構え、冬真の背中を守っている。
「押さないよね」
冬真は答えなかった。
右目には未来が見えている。
切除を実行する。
十三分前へ戻る。
全員が生きている。
今回の記憶は失う。
六回目が始まる。
またここへ来る。
誰かが死ぬ。
やり直す。
七回目。
八回目。
九回目。
回数が増えるほど。
白い腕が太くなる。
装置が強くなる。
仲間たちの身体が、人間から離れていく。
それでも冬真は押し続ける。
いつか、全員を救える一度を探して。
「見える」
冬真が言った。
「何が」
「この先だ」
『残り九秒』
「俺は、また押す」
真白の顔が青ざめる。
「冬真」
「六回目も」
荒牧が銃を向けた。
冬真ではなく。
制御盤へ。
「なら、その前に撃つぞ」
「七回目も、八回目も」
澪が接続線を握る。
「停止命令は通りません」
「分かっている」
「では、どうします」
「未来残響を閉じる」
全員が冬真を見る。
「できるのか」
久世が問う。
「分からない」
「またそれかよ」
荒牧が笑った。
「でも、今までのやり方よりはましだ」
冬真は右目へ指を当てた。
未来残響。
まだ起きていない出来事。
自分が選ぶ可能性。
それを先に見る力。
だが。
見えた未来の中からしか選ばない限り。
誰かが用意した選択肢を出ることはできない。
「澪」
「はい」
「俺の右目と装置の接続を探せ」
澪が端末を操作する。
すぐに首を振る。
「物理的な接続はありません」
「時象経路だ」
「それを切れば、能力を失う可能性があります」
「構わない」
「視神経への損傷も」
「やれ」
『残り六秒』
澪が冬真の右側頭部へ接続端子を押し当てる。
端末が激しく警告音を発した。
「経路を確認!」
「どこだ」
「切除核から右眼球へ直接接続されています!」
冬真は刀を逆手に持った。
切っ先を。
自分の右目へ向ける。
「ちょっと待って」
真白が冬真の腕を掴む。
「ほかの方法を」
「時間がない」
「だからって目を!」
「これが、未来を見るための目なら」
冬真は赤く染まった右目で真白を見る。
「今はいらない」
『残り四秒』
刀を突き立てた。
刃先が眼球を貫く。
柔らかいものが潰れる感触。
視界の右半分が赤く弾けた。
激痛が頭蓋の奥まで走る。
冬真は声を上げなかった。
刀を捻る。
眼球の奥。
切除核へ続く、見えない線。
刃が触れる。
断つ。
何百もの未来が。
一斉に消えた。
『残り二秒』
世界が静かになった。
誰が死ぬか分からない。
どこから攻撃が来るかも見えない。
何を選べば正しいのか。
何も見えない。
冬真は血の流れる右目を押さえ、笑った。
「これで」
『残り一秒』
「初めてだ」
制御盤へ刀を振り下ろす。
未来の長刀は現れない。
完成された自分の技術もない。
十九歳の冬真。
今の筋力。
今の刃。
それだけで。
赤い制御盤を断った。
◇
午前二時十三分。
帰還処理は、実行されなかった。
円形空間から、すべての光が消えた。
白い腕が止まる。
壁を埋める認識票が一斉に床へ落ちた。
何百万枚もの金属がぶつかり合い、豪雨のような音を立てる。
『切除不能』
機械音声が乱れる。
『管理者の未来座標を喪失』
『再観測を開始』
『失敗』
『再観測』
『失敗』
冬真の足元で、制御盤が火花を散らす。
真白が駆け寄った。
「目、見せて」
「あとだ」
「あとじゃ遅いかもしれない!」
「まだ終わってない」
円形空間の中央。
黒い椅子の下から、何かが這い出してくる。
白い腕。
今までのものより細い。
子供の腕だった。
床を掻き。
爪を割り。
血を流しながら。
一人の少女が、椅子の下から身体を引きずり出した。
白いワンピース。
裸足。
短い髪。
年齢は、八歳ほど。
顔には目も鼻もない。
あるのは。
横一文字に縫い閉じられた口だけ。
「管理者」
縫い目の隙間から、声が漏れる。
大人でも。
子供でも。
男でも女でもない。
何百人もの声を重ねた音。
「なぜ、救わない」
冬真は刀を構えた。
「誰だ」
「お前が、最初に救ったもの」
「妹か」
「違う」
少女の口を縫う糸が、一本ずつ切れる。
皮膚が裂ける。
内部から、白い歯が何重にも並んだ口が開いた。
「妹は、お前が最初に捨てたもの」
少女の背中から。
無数の白い腕が広がった。
天井を突き破り。
壁を押し潰し。
地下二十三階そのものを持ち上げる。
『時象災害対策局本部、全区画に空間変動!』
澪の端末へ、上階の映像が映った。
局本部。
検疫区画。
医療棟。
収容施設。
すべての壁が消えていく。
代わりに現れたのは。
夜の街だった。
走る車。
コンビニの明かり。
眠った住宅。
現在の東京。
地下施設全体が、地上へ浮上している。
「何が起きている」
久世が問う。
澪が位置情報を確認する。
「局本部が移動しています」
「どこへ」
「東京都杉並区」
冬真の左目が細くなる。
「深町二丁目か」
「違います」
澪が画面を拡大した。
地上へ現れようとしているのは、局本部だけではない。
東京湾。
新宿。
八王子。
横浜。
千葉。
関東一帯に、十二の黒い円が浮かび上がっている。
すべて、別の消失区。
「同時発生……?」
真白が呟く。
「観測史上、最大規模です」
現在時刻。
午前二時十三分。
だが。
消失区の維持限界を示す数字は、十三分ではなかった。
計測不能。
解除時刻、不明。
円形空間の天井が裂ける。
冷たい夜気が吹き込んだ。
遥か上。
黒い空の下に。
東京の高層ビル群が見えた。
その間へ。
崩壊した未来の建物が、次々に重なっていく。
高速道路の上に、錆びた鉄道が出現する。
住宅街を割って、巨大な防壁がせり上がる。
東京湾から、何十隻もの黒い軍艦が浮上する。
甲板には。
欠落体ではない人間たちが整列していた。
武器を持ち。
旗を掲げ。
現在の東京を見下ろしている。
旗に描かれているのは。
時象災害対策局と同じ紋章。
ただし、中央の線は赤かった。
「こちら第六封鎖班」
局の通信へ、知らない男の声が割り込んだ。
落ち着いた。
明確な人間の声。
『切除歴二百十三号へ告ぐ』
冬真たちは黙って聞く。
『我々は欠落体ではない』
『救助も帰還も求めない』
東京湾の軍艦。
砲塔が一斉に現在の都市へ向けられる。
『奪還に来た』
少女の白い腕が、冬真へ伸びた。
「やり直さないなら」
裂けた口が笑う。
「すべてを、同時に返す」
地上で。
無数の警報が鳴り始めた。




