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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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第9話 スタミナお化けと変顔の皇帝

 前代未聞の事件だった。


 「調教の途中で、いきなり道路の真ん中で爆睡した馬がいる」


 ユメノワスレナグサの名は、そんな奇妙な噂とともにトレセン内へ広がっていた。


 最初の数日は、ただの笑い話だった。


 しかし、日が経つにつれて、別の意味で彼の名前が囁かれ始める。


 その芦毛の馬は、どれだけ激しい調教を課されても、翌朝にはケロリとしていた。


 筋肉の強張りもない。


 蹄の傷みもない。


 何より、走り終えた直後であっても、他の馬のように激しく肩で息をすることがなかった。


 古谷調教師や、調教助手の稲葉は、日に日に確信を深めていた。


「おい、あそこの厩舎の白いやつ、スタミナお化けだぞ……」


 そんな噂が、美浦トレセンの目の肥えた陣営の間で、密かに回り始めていた。


 だが、中身がじじいであるユメノワスレナグサは、己の肉体の「致命的な弱点」にも冷静に気づいていた。


(ふむ。わしは、そこそこの速い足を延々と長く使うのは得意じゃが……)


 じじいは、放牧地をトボトボと歩きながら、自分の限界を分析していた。


 彼には、現代の競馬において最も重要とされる武器が、完全に欠けていた。


 「末脚」である。


 最後の直線で、一瞬にして爆発的な加速を見せるキレ味。

 

 それが、驚くほどよわよわだったのだ。

 

 どれだけヒールを使って肉体を新品状態にリセットしても、筋肉の瞬間的な爆発力だけは上がらない。

 

 一度トップスピードに入ったら、それ以上のギアが上がらなかった。

 

 じじいは、静かに溜め息を吐く。


(つまり、最後の直線でヨーイドンの瞬発力勝負になったら、絶対に勝てんということじゃな)


 じじいがそんな冷酷な結論を出していた、ある日のことだった。



       

 その日は、本格的なレースを想定した併せ馬の調教だった。


 二頭の馬を並べて走らせ、お互いの闘争心を煽る訓練だ。


 じじいの横に、もう一頭の馬が誘導されてくる。


 全身からエリートのオーラを放つ、ピカピカの黒鹿毛の牡馬だった。


 その馬の名は、ロードカイザー。


 すでにトレセン内では「今年の世代最強中距離馬」と噂される、本物の超大物だった。


 その背中には、若手の陣内翔が乗っている。


 陣内は、今の一時的な調教だけでなく、本番のレースでもこのロードカイザーの主戦騎手の座を本気で狙っている、勘違い男だった。


 (お前のようなポンコツ若手に、あの名馬の鞍が回ってくるわけないだろ)


 陣内を除く、その場にいたスタッフ全員が内心で冷ややかな視線を送っていたが、本人は全く気づいていない。


「おいおい、稲葉さん! うちの最強馬の胸を借りるつもりで、しっかりついてきてくださいよ!」


 陣内が、隣から大声で調教助手の稲葉へ向かって叫ぶ。


 稲葉は苦笑しながら、手綱を握り直した。


「ワスレナグサ、いくよ!」


 合図とともに、二頭はウッドチップコースを激しく駆け出した。


 最初からそこそこの良いペースを維持して先頭を走った。

 

 どれだけ走っても、スタミナは切れない。

 

 二歳の肉体が上げる悲鳴は、走る前に自分に仕込んだリジェネがじわじわと消し去ってくれる。

 

 並走するロードカイザーも、ぴたりと真横について離れなかった。


 そして、最終直線に入った。


 ここからが、キレ味の勝負だった。


「よし、行けッ!」


 陣内の鋭い気合とともに、ロードカイザーが爆発的に加速した。


 一瞬のキレ味が、文字通り異次元だった。


 グン、と沈み込むような中距離馬特有の美しいフォームで、一気にじじいを置き去りにしていく。

 

 じじいも必死に自分のトップスピードを維持した。


 バテてはいない。


 しかし、それ以上の加速ができない。


 ジリジリと、しかし確実に差を広げられていく。


 その抜き去る瞬間だった。


 前を行くロードカイザーが、不意に首をぐいと後ろへ捻った。


 臨戦態勢のまま、じじいの顔を真っ直ぐに見つめてきた。


 ロードカイザーは、目を限界までひん剥き、舌をベロリと横に突き出した。


 馬とは思えないほどの、強烈な「変顔」だった。


 それは明確な、じじいへの猛烈な煽りだった。


(……なんじゃ、あの品のない若造は)


 じじいは、フンと鼻で笑った。


 怒る気すら起きない。


 中身は伝説の大聖者である。


 子供の幼稚な挑発など、痛くも痒くもない。


 じじいは、ロードカイザーの変顔を完全に無視した。


 そのまま、自分のペースを崩さずにゴールへと流れ込んだ。



       

 調教が終わり、引き揚げてくる地下馬道でのことだった。

 

 ロードカイザーから下りた陣内が、わざわざこちらの前まで歩いてきた。


 無駄に胸を張り、鼻を鳴らす。


「どうすか稲葉さん。うちのカイザーのキレ味。やっぱモノが違いますわ。この馬なら、来年のクラシックは俺が全部もらったようなもんすね」


 陣内は、まだ調教を一度つけただけの段階である。


 スタッフたちは誰も口を開かない。


 ただ、冷たい視線だけが陣内の背中に突き刺さっていた。


「あ、そうだ。ワスレナグサのデビュー戦、俺が乗るんすよね。ま、この程度の馬でもレースくらいは作ってやりますよ。カイザーの調教の片手間っすけど」


 陣内は腰に手を当てて、勝ち誇ったように笑った。


 じじいは、聞き流した。


 子供の幼稚な我儘など、大聖者にとってはただの雑音に過ぎない。


 陣内を完全に無視し、佐々木厩務員に引かれて大人しく歩みを進めた。

       



 厩舎へ戻ると、古谷調教師が腕組みをして待っていた。


 手元の時計と、じじいの様子を交互に見比べる。


 今しがた強烈な中距離エリートの加速に突き放されたというのに、呼吸はすでに完璧に整っていた。


 汗も、うっすらと滲んでいる程度だ。


「稲葉、ワスレナグサの息の戻りはどうだ」


「はい、先生。もう完全にいつも通りですね。本当に、この子のタフさだけは底が見えません」


 稲葉は息を切らしながらも、嬉しそうに白い首筋を叩いた。


 古谷は、そんな彼女の様子をじっと見る。


「稲葉、最近なんだか調子が良さそうだな」


「ええ、先生。私もまだまだいけますからね」


 稲葉が、とても元気そうな笑顔を見せる。


 以前の調教後にじじいが掛けた、コスパ最強の『リジェネ』の効果だった。


 自分を若いと思っている彼女は、魔法だとは露ほども疑っていない。


 古谷はふむ、と深く頷き、手元の書類に目を落とす。


「よし。来週の東京、芝一千八百メートルの新馬戦で行く。相手には、さっきのロードカイザーも登録してきている。直線が長い東京コースだ。瞬発力勝負になれば分が悪いが……」


「ええ。ですが、この子のスタミナなら、前々で粘り込む形を作れれば、面白い競馬ができると思います」


「そうだな。陣内には、最初から前に行かせよう。あの若造が余計な色気を出さなければいいが……」


 古谷はそう言って、少しだけ苦い顔をした。


 しかし、その目の奥には、長年重賞に恵まれなかったベテラン調教師としての、静かな野心が確かに燃えていた。


 ワスレナグサは、馬房の藁の上へとそっと腰を下ろしながら、これからの戦術を完全に固めていた。


(やはり、直線のヨーイドンではあの若造には勝てん。ならば、レースでの戦い方は一つしか無いのう)

 

 じじいの出した答えは、シンプルだった。


 ゲートが開いた瞬間から前へ行き、自分のスタミナを活かして、そこそこの足を延々と長く使い続ける。


 後ろの馬たちがキレ味を発揮する前に、はるか前方で粘り倒す先行・押し切りの競馬だ。


 これしか、勝つ道はなかった。


 致命的な弱点を知ったヒーラー競走馬。


 ついに、波乱のデビュー戦の幕が上がろうとしていた。

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