第8話 美浦トレーニングセンター 新しい出会い
美浦トレーニングセンター。
そこは、競走馬たちの巨大な都市だった。
おんぼろ牧場とは、何もかもが違っていた。
育成牧場とも違っていた。
見渡す限りの厩舎。
何百頭もの馬のいななき。
激しく舞い上がる砂煙。
飛び交う人間の怒号。
すべてが、圧倒的なスケールだった。
馬房に入れられたユメノワスレナグサは、隅で小さくなっていた。
中身は達観した大聖者である。
しかし、初めての環境には、少々気圧されていた。
(やれやれ……。えらい騒々しいところへ来てしもうたな)
じじいは、心の中で呟いた。
周囲の馬房からも、若い馬たちの怯えた声が聞こえる。
どこを見ても、緊張感に満ちあふれていた。
(わしのような年寄りには、少々荷が重いわい。静かに隠居生活を送りたかったのう)
じじいは、少しだけ弱気になっていた。
だが、ふかふかの藁を蹄で確かめ、飼い葉桶の匂いを嗅ぐ。
(……ふむ。寝床は上等。飯も良さそうじゃ)
なんだ、と思った。
寝床と飯さえあれば、隠居はどこでもできる。
弱気は、三十秒で終わった。
とはいえ、人間の都合は待ってくれない。
ここは、戦うための場所だった。
★
翌朝、まだ暗いうちから、コースへ引き出された。
本格的な調教の始まりだ。
じじいの背には、調教助手の稲葉妙子がまたがっている。
手綱が引かれ、じじいは走り出した。
いくら精神が達観していても、肉体は二歳馬。
連日の過酷な運動は、すぐに若い筋肉を痛めつける。
坂路コースを一本上るだけで、体に乳酸が溜まっていくのが分かった。
(おいおい、この体はすぐに音を上げそうじゃな。しょーがない、走る前に仕込んでおくか)
じじいは、魂の奥から魔力を引き出した。
自分の肉体へ向けて、無光の魔法を放つ。
(――リジェネ)
持続回復魔法が、自分の四肢へじわじわと行き渡る。
これで、少しは肉体の持ちが良くなるはずだった。
じじいは余計なことはせず、淡々と走った。
しかし、調教の後半。
ウッドチップコースの直線に入った。
さらにスピードを上げるよう、背中から指示が出る。
二歳馬の肉体が、悲鳴を上げた。
息が苦しくなり、脚がもつれそうになる。
(あー、しんど。もう動けんわい。二発目、いくぞい)
さらに魔力を絞り出した。
自分自身へ向けて、瞬間回復魔法を放つ。
(――ヒール)
一瞬で、筋肉の疲労がリセットされた。
呼吸が、スタート直後の新品状態に戻る。
じじいは涼しい顔で、ゴール板を駆け抜けた。
コースの脇では、調教師の古谷宗一がストップウォッチを握っていた。
古谷は、手元の数字を見て首を傾げた。
時計自体は、極めて平凡なものだ。
しかし、走り終えたじじいの姿を見て、古谷の目が大きく見開かれた。
他の二歳馬たちは、肩を激しく上下させて息をしている。
だが、じじいだけは、全く呼吸を乱していなかった。
汗もほとんどかいていない。
「……時計はそこそこだが、こいつ、いい心臓をしてるな」
古谷が、驚きを隠せずに呟いた。
背中から降りた稲葉も、じじいの首を叩きながら同意する。
「そうですね。体力は、かなりありそうです」
(わしは必死に魔法でやりくりしているだけなんじゃがのう。まあ、評価されるのは悪い気はせんわい)
じじいは、心の中で鼻を鳴らした。
★
調教が終わり、引き運動の時間になった。
稲葉が手綱を引き、厩舎の周りをゆっくりと歩かせる。
クールダウンのための、静かな時間だ。
その時、手綱を握る稲葉が、ふぅ、と小さくため息を漏らした。
彼女の肩が、わずかに落ちている。
連日の過酷なトレセン業務により、彼女の体にはかなりの疲労が溜まっていた。
三十代の肉体には、この仕事は過酷だった。
(んっ。お姉ちゃん、疲れとんのかい)
じじいは、その様子を見逃さなかった。
中身は、自称・紳士である。
毎日、自分の背中に乗ってくれるお姉ちゃんへの、ちょっとした気遣いだった。
(しょーがないのう。リジェネじゃ)
彼女の手元に向けて、光を完全に消した魔法を放った。
(――リジェネ)
無光の持続回復魔法が、稲葉の体へとそっと流し込まれる。
効果はそこそこ続く、コスパ最強の魔法だ。
じじいは、満足げに目を細めた。
良いことをした。
紳士としての役目を果たした。
だが、その直後だった。
じじいの脳内に、カチリと冷たい音が響いた。
体の芯から、急速にエネルギーが引き抜かれていく。
魔力が、完全にすっからかんになっていた。
(……あ、やってもうた)
じじいは、思い出した。
現在の己の魔力上限。
今、連続で使える魔法は、低位のもので最大三回だった。
一発目、自分のリジェネ。
二発目、自分のヒール。
三発目、お姉ちゃんへのリジェネ。
(あっ……。そういえば、わし、三回使ったら魔力が完全に切れるんじゃった――ぬかった)
気づいた時には、すでに遅かった。
脳のシャッターが、強制的にガシャリと閉まる。
強烈な睡魔の津波。
立っていることすら、不可能になった。
ズドーン!!
じじいは、厩舎の通路の真ん中で、白目を剥いて倒れ込んだ。
そのまま、地響きのような大イビキをかいて眠りに落ちる。
「うわあああ!? ワスレナグサが倒れた!?」
手綱を引いていた稲葉が、飛び上がって絶叫した。
さっきまで元気に歩いていた馬が、突然、目の前で卒倒したのだ。
通路は大騒ぎになり、古谷調教師も色を失って飛んできた。
「おい! どうした! 故障か!?」
「わかりません! 突然、糸が切れたみたいに……、あ、でも、ものすごいイビキをかいて寝てます……」
「はあ!? 寝てるだと!?」
人間たちが、頭を抱えて困惑している。
その真ん中で、じじいは「スー、スー……」と、気持ちよさそうに爆睡を続けていた。
治しては、寝る。
美浦での隠居生活は、うっかり魔力を使い切る、おっちょこちょいな初日から始まった。




