第7話 育成牧場にて(後半)
朝霧が、茨城県の牧場を包んでいた。
じじいは、憂鬱だった。
今日は、初めての坂路調教の日。坂路とは、人工的に作られたきつい上り坂のことだ。走るのが嫌いなじじいには、拷問でしかない。
「よし、行くぞワスレナグサ」
背中にお兄さんが乗った。手首は、もう完全に治ったようだ。
(その節は、リンゴうまかったのじゃ)
でも、それとこれとは話が別だ。
坂の下に、馬たちが並ぶ。スタートの合図と同時に、周りの若い馬たちが一斉に飛び出した。砂煙が舞う。
じじいは、深いため息をついた。まともに付き合う気は、毛頭ない。トコトコと、一番後ろを走る。
しかし、坂道は想像以上に急だった。ウッドチップの床が足に重くのしかかり、心臓がバクバクと鳴り始める。筋肉が悲鳴を上げた。
(うう、じじいの体にこれは堪えるのう)
心の中で愚痴をこぼしながら、じじいは決断した。禁じ手を使う。
走りながら、魔法を練り上げる。自分の心臓と足の筋肉に向けて、じんわりと癒しの光を巡らせた。もちろん、お兄さんには見えないし、気づきもしない。
一瞬で、疲れが吹き飛んだ。呼吸がすうっと楽になり、足が羽のように軽くなる。
じじいは涼しい顔で、汗ひとつかかずに坂を登り切った。
お兄さんが、タイムを見て目を見張る。
「すごいぞワスレナグサ! なんてタフなんだ!」
大興奮で首筋を叩かれた。
(うむ、違うんじゃが……)
ただのズル、魔法だ。じじいは、心の中で苦笑いした。
★
数日後、次の試練が来た。ゲート練習だ。
競馬場でのスタートを学ぶ大事な訓練で、放牧地には狭い鉄の箱が置かれていた。それがスタートゲートだ。普通の馬はここをひどく嫌がる。暗くて、狭くて、閉じ込められるからだ。若い馬たちは近づくだけで暴れ、あちこちから怯えた嘶きが響いていた。
じじいの番が来た。
(ふむ、ただの狭い部屋じゃのう。大げさな)
前世の狭い馬車に比べれば、頑丈で安全なものだ。スタッフの指示に従って、すんなりと入る。ガチャン、と後ろの扉が閉まった。じじいは、中で大人しく待つ。
「お、ワスレナグサは天才だな。まったく動じないぞ」
人間たちが感心している。じじいなだけである。
その時、隣のゲートにあの鹿毛の仔馬が入った。足が少しずつ良くなってきた、お友達の仔馬だ。しかし仔馬は、恐怖でたちまちパニックになった。
嫌だ! 出せ!
鉄の壁に、体を激しくぶつけ始める。ガチャン、ガチャンと鈍い音が響いた。
「危ない! 落ち着かせろ!」
このままでは、大けがどころか骨折するかもしれない。じじいは壁越しに意識を集中させ、鉄の隙間からそっと鼻先を近づけた。
(落ち着きなされ、若者よ)
心の中で、深く重い声を響かせる。同時に、強力な「精神安定」の魔法を放った。波動が鉄の壁をすり抜け、仔馬の脳へと優しく届く。
仔馬の激しい呼吸が、ぴたりと止まった。暴れていた体が、嘘のように静かになる。「ふう、ふう」という小さな息の音だけが残った。
「え? 急に大人しくなったぞ?」
人間たちが不思議そうに顔を見合わせる中、じじいはすでに前を向いて知らんぷりだ。
今日も、良い仕事をしたのではないだろうか。
★
そして、茨城の育成牧場を去る日が来た。いよいよ、本番の世界へ移動する。
大きなトラックがやってきた。馬運車だ。これに乗って、長距離を移動する。馬たちにとっては未知の怪物に見えるらしく、「乗ったら二度と戻れないのでは」という恐怖が群れに広がっていた。
みんな乗車を拒否して、スロープの前で踏ん張っている。
じじいは、最後尾からのそのそと歩いてきた。そのままトントンとスロープを登る。
(ほう、最近の馬車は立派じゃのう)
中に入ると、冷房が効いていた。ふかふかのクッションまである。じじいは、少し感心した。
じじいが大人しく乗ったのを見て、他の馬たちも次々と続いた。扉が閉まり、中が薄暗くなる。ブオーンと大きなエンジン音が響いて、車体がゆっくりと揺れ始めた。
「ヒヒン……」
不安そうな声が、車内に満ちていく。初めて長距離を移動する若い馬たちは、車の揺れで気持ち悪くなっているようだ。馬は体の構造上、吐くことができない。車酔いは、命に関わるストレスになる。
(やれやれ、仕方のない子供たちだのう)
トラックの暗闇は、好都合だった。人目がない。
じじいは、本領を発揮した。体から微弱な癒しの波が滲み出て、霧のように車内へと広がっていく。隣の馬、そのまた隣の馬へと、静かに浸透していった。胃のむかつきを抑える魔法。三半規管を整える魔法。長旅の疲れを癒す魔法。
馬たちの荒い息遣いが、だんだんと静まっていく。みんな、おっとりとした顔になった。
(なんだか、眠くなってきたのう)
そんな空気が、車内にふわりと漂う。じじいが最初に、揺れに身を任せて目を閉じた。前世の馬車より、ずっと乗り心地が良い。
★
数時間後、トラックが美浦トレーニングセンターに到着した。
扉が開くと、馬たちが元気いっぱいに降りてきた。みんな、足取りが軽い。出迎えたトレセンのスタッフが、目を丸くした。
「長旅なのに、一頭も体調を崩していない!」
「みんな、信じられないほど元気だぞ!」
大騒ぎする人間たちを、じじいは静かに見つめる。ふん、と鼻を鳴らした。
じじいの、最高のサポートのおかげである。
さて、新しい場所でも、のんびり隠居生活を始めようか。じじいは堂々と、新しい厩舎へ歩き出した。
すこしだけ、猫のことを考えた。




