第6話 育成牧場にて(前半)
放牧地の隅が、じじいの定位置になった。
茨城県の空は、今日も広い。流れる雲を、のんびりと眺める。
ユメノワスレナグサは、若い芦毛の馬だ。しかし、その中身は前世の記憶を持つ大聖者――「じじい」である。今は、ただ隠居生活を楽しみたい。それだけだ。
到着の翌日、優芽はさっそく会いに来てくれた。
九ヶ月ぶりの再会に、少女は車椅子から身を乗り出して喜んだ。じじいは甘えるふりをして鼻先を胸元に寄せ、こっそりと診察の続き――新しい『リジェネ』を、たっぷりと掛け直しておいた。
(うむ。これでまた当分は安心じゃ。定期検診は、ヒーラーの基本じゃからのう)
もちろん、その直後に優芽の目の前でズドーンと白目を剥いて倒れ、付き添いの大人たちを絶叫させたのだが――それはもう、いつものことである。
「ヒヒン、ヒヒン」
騒がしい声が響く。若い仔馬たちの走り込みが始まったらしく、みんなお尻を跳ね上げて駆け回っている。
元気なことは、とても良いことだ。だが、じじいは混ざらない。走るよりも、寝ていたい。
じじいが静かに青草を食んでいると、群れのボスがこちらを睨んだ。新入りのじじいが気に入らないのだろう。首を振って、威嚇してくる。
「ここは俺の縄張りだぞ」
そんな声が聞こえてきそうだ。
じじいは、ふいっと目を逸らした。ボス争いなど、めんどくさい。どうぞ、あなたが一番でいてください。そのまま、ゆっくりと群れの端っこへ移動する。お互い、関わらないのが一番だ。
そこへ、一頭の仔馬が近づいてきた。艶のある鹿毛の子だ。生まれつき後ろ足の関節が緩く、いつも他の馬の後ろをとぼとぼと歩いている。
じじいは、その足をじっと見た。前世の職業病が、少し頭をもたげる。治してやりたい、と思う。しかし、派手にやれば怪しまれる。今は、ただの馬として生きる身だ。
鹿毛の仔馬は、じじいの横にそっと並んだ。小さな鼻先を、おずおずと寄せてくる。じじいは拒まなかった。ふう、と温かい息を返す。
(よく来たね、若者よ)
心の中で、優しく語りかける。強張っていた仔馬の体が、すうっと緩んだ。どうやら、ここが気に入ったらしい。二頭で並んで、草を食べる。じじいと子供の、静かな時間だった。
★
その時、放牧地の柵の向こうで音がした。
「痛っ!」
人間の声だ。
いつもの若い育成スタッフのお兄さんが、干し草の山を運ぶ途中で転んだらしい。手首を押さえて、顔をしかめている。どうやら、ひどく捻ったようだ。
じじいは、耳をそちらに向けた。よし、出番だ。
のそのそと歩き出し、ただの気まぐれを装って柵のそばまで近づく。首を伸ばして、お兄さんの痛む手首に鼻先をそっと当てた。
「ん? どうした、ワスレナグサ」
お兄さんが顔を上げる。じじいは優しく鼻を押し当てたまま、こっそりと魔法を練り上げた。
じんわりとした温かい癒しの波動が、お兄さんの手首へと流れ込む。お兄さんの目には、何も見えない。ただ、手首の激痛が、一瞬で消えた。
「あれ? 痛くない……?」
お兄さんは、手首をぐるぐると回す。さっきまでの腫れが、綺麗に引いていた。不思議そうに自分の手を見て、それからじじいを見る。
「お前、今、何かしたか?」
じじいは、知らんぷりをした。ふん、と鼻を鳴らして、わざとらしく地面の草を食む。ただの偶然ですよ、という態度だ。
お兄さんは狐につままれたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「まあいいや、ありがとな」
じじいの鼻面を撫でるその手は、とても温かかった。
★
夕方になり、馬房へ戻る時間になった。
じじいは最後尾を歩く。隣には、やはりあの鹿毛の仔馬がいる。
じじいは、歩きながらそっと魔法を使った。
本当にごくわずかな、微弱な癒し。仔馬の後ろ足へ、気づかれないように浸透させる。
一気に治せば大騒ぎになってしまう。毎日少しずつ、それがじじいの覚えた処世術。
仔馬の足取りが、ほんの少し軽くなる。仔馬は嬉しそうに、首を振った。じじいは、満足して目を細める。
馬房に入ると、ふかふかの藁が待っていた。
夕食の乾草をゆっくりと噛み締めながら、じじいはぼんやりと思う。馬の体は、ご飯が美味しくて素晴らしい。
前世のヒーラー時代は、国中を飛び回っていつも忙しかった。それに比べれば、今の生活は天国だ。
外は、すっかり暗くなった。茨城の夜風が、窓から優しく入ってくる。大きな体を横たえた。
今日も、良い一日だった。明日も、のんびり暮らそう。誰にもバレずに、誰かを癒そう。
じじいの意識は、穏やかな眠りへと落ちていった。
★
翌朝、茨城県の空は快晴。
放牧地へ出ると、朝の空気が少し冷たい。でも、じじいには心地よい。さっそく、足元に影が走った。例の鹿毛の仔馬だ。昨日より関節が引き締まっていて、じじいの微調整がうまく効いたようだ。
仔馬は、それが嬉しくてたまらないらしい。
「遊ぼう、遊ぼう」
じじいの周りをぐるぐる回って、お尻を小さく跳ね上げている。じじいは、やれやれと首を振った。元気なのは結構だが、じじいは眠い。しかし仔馬は鼻先で突っついてくる。仕方がない。
重い腰を上げて、のっそりと数歩だけ並んで走る。それだけで、仔馬は大喜びだ。少し付き合ってから、またのんびりと草を食む。
そこへ、足音が近づいてきた。
昨日のお兄さんだ。
手首は完全に元通りらしく、あたりをキョロキョロしながら他のスタッフがいないのを確認している。
じじいは、耳をピコピコ動かした。何か、良い匂いがする。
お兄さんが柵の前に立ち、ポケットから取り出したのは、立派なリンゴだった。丸ごと一個、贅沢な果物だ。
「ワスレナグサ、これ、お礼な」
お兄さんは小さく笑いながら、リンゴを細かく割って手のひらに乗せる。じじいの目が、輝いた。
リンゴは、馬の極上スイーツだ。
すぐに柵へ近づき、お兄さんの手からリンゴをハミハミ。
サクサク、ジューシー。甘い果汁が、口いっぱいに広がる。
素晴らしい。実に、良い仕事をした報酬だ。
★
午後になり、日差しが暖かくなった。放牧地の隅でウトウトしていると、仔馬も足元で丸くなっている。平和そのものの時間。
「……にゃあ」
かすかな声が聞こえて、じじいは片目を開けた。
柵の隙間から、一匹の猫が這い出てきた。キジトラ模様の、見慣れない顔だ。
野良猫だろう。
右の後ろ足を引きずっていて、何かに挟まれたような深い傷がある。
血は止まっているが、いかにも痛そうだ。大きな馬たちに怯えながらも、動けないでいる。
じじいは、仔馬を起こさないよう静かに歩み寄り、猫の前でゆっくりと頭を低く下げた。
猫が、シャーと小さく威嚇する。
(怖がらなくていいぞい、小さいの)
じじいは心の中で優しく呟き、ふう、と温かい息を猫の足にかけた。鼻先から、見えない癒しの波が静かに広がる。猫の傷が、みるみるうちに縮んでいった。新しい皮膚が、綺麗に再生する。
猫は自分の足をペロペロと舐めて、痛みが消えたことに気づいたようだ。不思議そうにじじいを見上げてから、嬉しそうに喉を鳴らす。
「ゴロゴロ、ゴロゴロ」
じじいの太い前足に、遠慮なく体を擦りつけてくる。すっかり懐いてしまった。
気づけば、じじいの足元は大変なことになっていた。右には、すやすや眠る鹿毛の仔馬。左には、丸くなって喉を鳴らすキジトラの猫。どうやら、じじいはすっかり保育園の園長になってしまったらしい。
めんどくさいのは、ご免被る。でも、頼られるのは悪くない。
前世ほどの派手な奇跡は起こせなくても、この茨城の片隅で、手の届く範囲だけ。のんびり、こっそり、癒していこう。
じじいは、二匹を見守りながらそっと目を閉じた。とても、良い昼下がりだった。




