第5話 旅立ちと、見えない絆
サマーセールから、九ヶ月の月日が流れた。
二歳になったじじいの世代は、北海道の牧場で馴致の真っ最中だ。
馴致とは、人乗せや鞍付けの訓練だ。
競走馬になるための、本格的な英才教育である。
おんぼろ牧場の事務所では、スタッフたちが嬉しそうに帳簿を眺めていた。
「いやあ、今年の二歳世代は、本当に優秀だな」
「ああ。普通なら鞍を乗せるだけで暴れるのに、みんな妙に落ち着いている」
「あの離乳の時から、うちの馬は何か違ったよな」
スタッフたちは、しみじみと語り合う。
じじいの精神魔法で「無理やり悟りを開かされた」仲間たちは、今や超エリートのような冷静さを身に付けていた。
どんな厳しい訓練も、動じずにこなしていく。
牧場の評判は、一気に跳ね上がっていた。
もちろん、じじい自身も訓練を難なくこなしていた。
中身はじじいである。
人間の指示など、言われずとも理解できる。
だが、じじいの関心は、訓練よりも別のところにあった。
(ふむ。九ヶ月前、お嬢ちゃんに掛けた魔法の効果じゃが……)
放牧地をトボトボ歩きながら、脳内で計算を始める。
あの時、サマーセールで優芽にかけたのは『リジェネ』だ。
(わしの薄い魔力で放ったリジェネ。もって半年といったところじゃった)
心臓の細胞をじわじわと補強する、持続回復魔法。
すでに九ヶ月が経過している。
とっくに、魔法の有効期限は切れていた。
(そろそろ、お嬢ちゃんの心臓が、素の状態に戻っておる頃じゃな)
じじいは、北の空を見上げた。
治療途中の患者を放置するなど、前世なら考えられないことだ。
(じゃが、わしから出向けんのが、馬の身の不便なところよ。人間なら、ほれ、往診というやつができたんじゃがのう)
すべては人間の都合で動く世界だ。
流れに身を任せるしかない。
(早う会いに来なされ、お嬢ちゃん。診察の続きが、まだ済んでおらんぞ)
その願いが天に通じたのか。
急な決定が下された。
馬主である優芽の家の意向により、じじいは本州のトレーニングセンター近郊の育成牧場へと、出荷されることになったのだ。
行き先は、茨城。
優芽の住む東京から、車ですぐの場所である。
大きな馬運車に揺られ、津軽海峡を渡る。
じじいは外を眺めていた。
新しい世界に来て、馬になってほぼ牧場での生活。
この移動を、じじいは楽しんでいた。
★
その頃、東京の大きな邸宅。
お嬢様である優芽は、自室の車椅子の上で、窓の外を眺めていた。
彼女の表情は、以前よりもずっと明るかった。
「優芽、調子が良いみたいだね」
部屋に入ってきた父親が、嬉しそうに声をかける。
優芽は、振り返ってニッコリと微笑んだ。
「ええ、お父様。なんだか、最近とっても体が軽いの」
医者からは「成人できれば奇跡」と言われていた。
しかし、この九ヶ月、優芽は驚くほど発作が少なかった。
顔色も良く、短い髪の間から覗く耳たぶも、健康的な赤みを帯びている。
「不思議ね。お医者様も、信じられないって驚いていたわ」
「ははは。やっぱり、北海道の空気が良かったのかな。それとも、あのセリで買った白い仔馬――ワスレナグサのおかげかい?」
父親は、冗談めかして言った。
優芽は、胸元にそっと手を当てた。
「そうかもしれない。あの子を私の馬にしてから、毎日がとっても楽しいの。守られているような、そんな気がするの」
気候のせい。新薬のせい。心の持ちようのせい。
人間たちは、色々な理由を探していた。
本当の理由を、知る者はいない。
――そして、その理由がもう切れていることも。
その時だった。
胸の奥で、チク、と小さな痛みが走った。
優芽は、笑顔のまま、そっと呼吸を整えた。
父親は、気づいていない。
(……大丈夫。ちょっと、疲れただけ)
最近、時々こうなる。
針で突かれたような、小さな痛み。
でも、言わない。
せっかくお父様もお母様も、あんなに喜んでくれているのだ。
心配をかけるようなことは、言いたくなかった。
優芽は、いつものように、痛みを笑顔の下にしまい込んだ。
「お父様。ワスレナグサ、もうすぐ近くの育成牧場に来るんでしょう?」
「ああ。来週には、茨城の牧場に到着する予定だよ。東京からも、車ですぐの場所だ」
「私、会いに行きたい。あの子の匂いを、また嗅ぎたいな」
優芽は、目を輝かせた。
無機質な病院の匂いではなく、あの白い仔馬の、温かい匂い。
彼女の肉体は、無意識のうちに、あの心地よい力を求めていた。
「分かった。到着したら、すぐに会いに行こうね」
父親は、娘の頭を優しく撫でた。
★
一週間後。
本州茨城の育成牧場。
長旅を終えたじじいは、新しい馬房の藁の上で、のんびりと首を揺らしていた。
北海道とは違う、少し生暖かい風が吹いている。
(ふむ。ここが、次の仕事場じゃな。思ったより、悪くない場所だわい)
新しい環境に戸惑うこともなく、いつも通り泰然としていた。
すると、厩舎の入り口が騒がしくなった。
車のドアが閉まる音。
聞き覚えのある、静かな車椅子の車輪の音。
(おっ。噂をすれば、お出ましじゃな)
馬房の扉から、すっと白い首を外へと伸ばした。
通路の向こうから、父親に車椅子を押された優芽が、こちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
優芽は、じじいを見つけて、ぱっと顔を輝かせた。
九ヶ月ぶりの、大切な患者だった。
(待たせたのう、お嬢ちゃん。さあ――診察の続きじゃ)




