第4話 白の目覚めと優しき芽
鏡はなかったが、分かっていた。
水たまりに映る自分の姿を見る。
毛色が、明らかに変わっていた。
生まれた頃の黒っぽい茶色ではない。
全身の毛が、うっすらと白くなっている。
(ふむ。やはり、わしは芦毛じゃったか)
納得して鼻を鳴らした。
凄腕のヒーラーといえば、白である。
聖なる白衣。純白の輝き。
馬の体になっても、その本質は変わらない。
(白きヒーラーこそ、わしにふさわしい)
少し誇らしい気分になった。
一歳を迎えた夏。
魔力は、さらに成長していた。
牧草にょきにょき訓練の成果である。
今や、体内の魔力タンクは以前の倍。
ヒールを連続で二回、使えるようになっていた。
その成果を試す機会は、すぐに訪れた。
ある日の夕暮れ。
厩舎の片隅で、一匹の老犬が丸くなっていた。
牧場で長く飼われている、番犬である。
最近、めっきりと動きが鈍くなっていた。
のっしのっしと近づく。
老犬の体を、じっと見つめた。
(ふむ。これは、ひどい腰痛じゃな)
経絡が完全に詰まっている。
人間で言えば、重度のヘルニアだ。
痛みを堪えるように、呼吸が震えている。
(しょーがないのう。まずは、一発目じゃ)
前脚を老犬の腰に当てた。
光を消した、無光の治癒魔法を放つ。
(――『ヒール』)
じんわりと、温かい魔力が伝わる。
老犬の腰の筋肉が、一瞬でほぐれた。
歪んでいた骨が、元の位置に戻る。
老犬は驚いたように、目を丸くした。
しかし、まだ終わりではない。
老犬のすぐ後ろに、一匹の三毛猫がいた。
この猫も、最近は元気がなかった。
猫の体内へ意識を向ける。
(こっちは、腎臓が致命的に悪いな)
猫の宿命とも言える、慢性腎不全だ。
毒素が体に回り、酷くだるそうにしている。
放っておけば、長くない。
(間髪入れずに、二発目じゃ。もってくれよ、わしの器)
鼻先を猫の背中に押し当てた。
残った全ての魔力を、一気に注ぎ込む。
(――『ヒール』)
連続での魔法発動。
衰えていた猫の腎臓組織が、超高速で再生していく。
細胞が、瑞々しさを取り戻す。
猫は「にゃお」と、軽やかな声を上げた。
治療は、完璧に成功した。
老犬は、軽快に尻尾を振って立ち上がった。
三毛猫は、見違えるような俊敏さで跳ねた。
二匹とも、完全に健康体だ。
だが、限界も、同時に訪れた。
頭の奥が、カチリと音を立てて冷たくなる。
魔力メーターが、完全にゼロを指した。
凄まじい眠気の津波。
(あー……、やっぱり二連発は、きついのう……)
白目を剥いた。
そして、厩舎の通路の真ん中で、ズドーンとコの字になって爆睡した。
動物たちが、心配そうにその周りを囲む。
見張りをするように、寄り添って眠り始めた。
★
翌日。
大きなトラックに乗せられていた。
やってきたのは、サマーセールの競売会場。
多くの人間と、多くの馬が集まる場所だ。
熱気と緊張感が、会場を支配している。
ついに、じじいの番がやってきた。
ステージへと引き出される。
「上場番号、〇〇番! タカマサオーの産駒、牡馬です!」
場内に、アナウンスが響き渡る。
価格のコールが始まった。
驚くべきことに、セリはすぐに白熱した。
馬体のバランスが、あまりにも素晴らしかったからだ。
中身が達観しているため、周囲の喧騒にも全く動じない。
その堂々とした佇まいが、大物感を醸し出していた。
「三百万!」
「四百万!」
「五百万!」
価格が、面白いように跳ね上がっていく。
牧場主は、信じられないという表情でスクリーンを見つめていた。
まさか、あの「寝太郎」が、ここまで評価されるとは。
「八百万!」
「九百万!」
「――一千万円!」
ついに、大台の一千万円に達した。
会場が、どよめきに包まれる。
おんぼろ牧場にとっては、破格の金額だった。
その時。
会場の最前列近くに、一台の車椅子があった。
乗っているのは、一人の少女。
名前は、優芽。
生まれつき、重い心臓の病を患っている。
病のために、髪は短く切り揃えられていた。
整った顔立ちの、けれど肌の白すぎる子供だ。
その細い体は、会場の熱気の中で、一人だけ静かだった。
優芽は、ステージ上のじじいを、じっと見つめていた。
騒がしい会場で、あの白い仔馬だけが、少しも慌てていない。
なんだか――病院の待合室にいる、自分みたいだと思った。
じじいも、その視線に気づく。
ふと、お互いの目が真っ直ぐに交錯した。
優芽の胸が、ドクンと大きく波打った。
何かを感じ取った。
彼女は、隣に立つ父親の服の袖を、ぎゅっと掴んだ。
「お父様……。あの子が、いい」
かすかな、しかし強い意志のこもった声。
父親は、驚いたように娘を見下ろした。
「優芽、あの子が気になるのかい?」
「うん。あの子が、私を呼んでいる気がするの。あの子がいい。お願い、お父様」
優芽は、普段は決して我儘を言わない子供だった。
自分の病気の重さを、誰よりも理解しているからだ。
親に負担をかけまいと、いつも自分の気持ちを押し殺していた。
そんな娘が、初めて口にした、強い我儘。
父親の胸に、複雑な感情が去来した。
愛おしさと、切なさと、少しの喜び。
幸い、この令嬢の家は、相応の資産家だった。
娘が生まれて初めて「欲しい」と言ったのだ。
迷う理由など、どこにもなかった。
「分かった。優芽がそこまで言うなら、お父様が落札しよう」
父親は、力強く購入のサインを出した。
一千百万円。
ハンマーが叩かれた。
馬主が、決定した瞬間だった。
★
セリの終了後。
会場の裏手にある、馬房のエリア。
優芽と父親、そして牧場主が、じじいの前に集まっていた。
ついに、正式なご対面である。
「優芽、この子の名前を決めないとな。競走馬には、ちゃんとした名前がいるんだ」
父親が、優しく問いかけた。
優芽は、迷わなかった。
「ワスレナグサ」
ずっと前から決めていたような、静かな声だった。
「お庭に咲いてた、小さくて青いお花。『私を忘れないで』っていう意味なんだって」
優芽は、じじいを見上げた。
「わたしがいなくなっても……この子が、覚えていてくれるでしょ」
父親は、一瞬だけ言葉を失った。
それから、娘の頭をそっと撫でた。
「……いい名前だ。冠名をつけて、ユメノワスレナグサ。それでいこう」
ユメノワスレナグサが、誕生した瞬間だった。
優芽は、車椅子をゆっくりと前へ進めた。
じじいのすぐ目の前で、止まる。
じっと、見上げる。
じじいも、ゆっくりと首を下げた。
その綺麗な、しかしどこか寂しげな顔を、間近で観察する。
(ふむ。やはり、想像以上に悪いな)
ヒーラーの目が、彼女の心臓を透視する。
欠陥がある。流れが滞っている。
優芽は、医者に宣告されていた。
長くは生きられない。成人まで生きられれば、奇跡だと。
そして、その言葉は事実だった。
(だが、安心するがよい。わしが来たからには、死なせはせんて)
じじいは、そっと鼻先を、優芽の胸元へと寄せた。
優芽は、嬉しそうに微笑む。
その細い手で、白い鼻筋を優しく撫でた。
「よろしくね、私のワスレナグサ」
その瞬間。
じじいは、体をずいと押し込んで鼻先を優芽の心臓にあてた。
前世高位のヒーラーだったじじいは、どの魔法が適当か考える。
(今の魔力では、完治というわけにはいかんが……)
体内の魔力を、彼女の心臓へと送りこむ。
リジェネ。
一定期間、体力を自動回復する魔法だ。今の魔力では、もって半年といったところか。
(コスパ最強魔法よ。ふぉっふぉっふぉっ)
そしてやってきた激しい眠気。
今のタンクは、空っぽだ。
無理をすれば、どうなるか。
(あ、まずい。また限界を突破してしまった……この体、慣れぬのう……)
鼻先を触れ合わせたまま。
意識が、急速に遠ざかっていく。
シャッターが閉まる。
体を引く。
ズドーン!!
優芽の車椅子の目の前で、白目を剥いて倒れ込んだ。
そのまま、大イビキをかいて眠りに落ちる。
「うわあああ!? まただよ! こんなタイミングでやめてくれよ!」
牧場主が、頭を抱えて絶叫した。
せっかく一千万円で売れた大事な馬が、新しいオーナーの前で卒倒したのだ。
顔面蒼白である。
「す、すみません! この子、いっつもこうなんです! 病気じゃないんです!」
必死に言い訳をする牧場主。
しかし、優芽は怖がる風でもなく、ただ不思議そうに、そして愛おしそうに、足元で眠る白い仔馬を見つめていた。
「……私を忘れないで、なのに」
優芽は、くすりと笑った。
「寝ちゃったら、忘れちゃうよ?」




