第3話 静寂の離乳
サラブレッドの仔馬にとって、最大の試練がある。
それは、秋に訪れる。
「離乳」と呼ばれる一大イベントだ。
これまでずっと一緒に過ごしてきた、大好きな母親から――強制的に引き離される。
馬房を分けられ、放牧地も分けられる。
子供たちだけで生きていくための、最初の儀式だ。
当然、仔馬たちは激しく抵抗する。
★
今年も、その季節がやってきた。
おんぼろ牧場の厩舎は、朝から地獄絵図。
「ヒヒィーーーン!!」
「ヒン、ヒン、ヒヒーン!!」
厩舎中に、引き裂くような悲鳴が響き渡る。
母親を奪われた仔馬たちが、一斉にパニックを起こしていた。
馬房の壁を蹴り飛ばし、ドアに体をぶつけ、狂ったように暴れ回る。
寂しさと、恐怖。
誰も彼もが、正気を失っていた。
「おい! そっちの馬房をしっかり閉めろ!」
「ダメだ、暴れすぎてケガをするぞ!」
「どうにかして落ち着かせないと、大変なことになる!」
牧場スタッフたちも、総出で対応に追われていた。
しかし、人間の力では、興奮した馬を止められない。
厩舎の熱気が、みるみるうちに膨れ上がっていく。
★
そんな中。
一つの馬房だけ、妙に静かな場所があった。
じじいの馬房である。
(……うるさいのう。朝から騒々しいことじゃ)
じじいは、藁の上にのんびりと座っていた。
その中身は、前世の記憶を持つ達観した大聖者――じじいである。
母親と引き離される寂しさなど、微塵もない。
むしろ、これで夜中に乳を吸わされずに済む、とすら思っていた。
自分の母親も、じじいの魔法のおかげで健康そのものだ。何も心配することはない。
ただ、周囲の悲鳴があまりにも耳障りだった。
これでは、おちおち朝寝坊もできない。
(しょーがないのう。少し、静かにさせるか)
むっくりと立ち上がり、馬房の柵から首を外へと伸ばす。
右隣では、やんちゃな仔馬が目を血走らせて暴れていた。
左隣では、別の仔馬が泡を吹いて啼いている。
このままでは、静かになる前に怪我人ならぬ怪我馬が出る。
(それに、こういう寂しさはのう。泣いて騒ぐより、ぐっすり眠って忘れるのが一番じゃ)
じじいは、大きく息を吸い込んだ。
そして――魂の奥底に眠る魔力を、じんわりと解放した。
前世で、興奮した戦士を、怯える民衆を、幾度となく鎮めてきた魔法。
広範囲の精神安定魔法――『カーム』。
光を持たない、静寂の精神魔法。
それが、厩舎の通路を伝って、じわじわと広がっていく。
波動が、暴れる仔馬たちの脳を、優しく包み込んだ。
★
その瞬間。
ぴたり、と――音が消えた。
「……え?」
右隣の弟分が、前脚を上げた姿勢のまま、ぴたりと動きを止めた。
左隣の仔馬も、口を開けたまま、静かになった。
あちこちで響いていた蹄の音が、一斉に途絶える。
仔馬たちの瞳から、ハイライトがすっと消えていった。
激しい怒りも、悲しみも、魔法の力で丸ごと消去されたのだ。
彼らの脳内は今、お寺の境内のような、深い静寂に包まれていた。
「……おい、どうした?」
「急に、みんな静かになったぞ……」
スタッフが、呆然と立ち尽くす。
さっきまでの地獄が、嘘のようだった。
仔馬たちは、トボトボと藁の上へ歩いていく。
そして――まるで悟りを開いた高僧のように、静かに目を閉じて座り込んだ。
誰も、鳴かない。
誰も、暴れない。
あまりにも不自然な、平和が訪れた。
(ふむ。広範囲の精神魔法は、やはり便利じゃな。これで静かになったわい……)
じじいは満足げに息を吐いた。
と、次の瞬間。
全身に、強烈な睡魔の津波が押し寄せてきた。
立っていることすら、不可能だった。
ズドーン!!
じじいは、馬房の真ん中で白目を剥いて倒れ込んだ。
そのまま、地響きのような大イビキをかいて眠りに落ちる。
「うわあああ!? 今度は寝太郎が倒れたぞ!?」
「おい、この部屋だけ、さっきから何も起きてなかっただろ!?」
「なんで一番暴れてないやつが、一番に倒れるんだよ!?」
スタッフたちが、またしても大混乱に陥った。
慌てて馬房に飛び込み、体をさする。
しかし、ピクリとも動かない。
ただ、気持ちよさそうに眠り続けるだけだった。
★
結果として、このおんぼろ牧場の離乳は、競馬界の歴史に残るほど「スムーズ」に終わった。
他の仔馬たちは翌日になっても、どこか達観した様子で穏やかに過ごしていた。
スタッフたちは「奇跡の世代だ」と、涙を流して喜んだ。
ただ一頭、死んだように眠り続けたじじいを――除いて。




