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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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第2話 雑草魂と畜生の掟

 丸三日間の強制スリープから目覚めた時、世界は平和だった。


 母馬はすっかり元気になり、たっぷりと愛情を注いでくれた。


 しかし、心は晴れなかった。


(あの程度の魔法で三日も寝込むとは、情けない。この体の魔力タンクは、あまりにも小さすぎるぞい)


 前世は大聖者である。


 常に最善の準備を怠らないのが、一流のヒーラーというものだ。


 じじいは、己の魔力容量を増やすための「自主トレ」を開始した。


 方法はシンプルである。


 体内の魔力を、極限まで使い切ること。


 空っぽになったタンクが再充填される時、ほんのわずかだけ、器が広がる。


 異世界でも基本中の基本だった、地道な限界突破の訓練だ。


 とはいえ、生まれたばかりの仔馬が、厩舎の中で魔法を連発するわけにはいかない。


 人間に見つかれば、どんな騒ぎになるか分かったものではない。


 そこでじじいは、毎日の放牧時間を訓練の場に選んだ。


 緑豊かな北海道の放牧地。


 他の仔馬たちが元気に駆け回る中、じじいはいつも一頭、地面を見つめていた。


(よし、ターゲットは足元のこの雑草じゃな)


 じじいは、自分の前脚のすぐ下にある、ちっぽけな牧草に意識を集中した。


 魂の奥から、ほんの微量の魔力を引き出す。


 植物の成長を促す、下位の生活魔法をイメージする。


(――にょきにょき、となれ)


 じわり、と温かい力が草の根に染み込んでいく。


 すると、どうだろう。


 じじいの目の前にある牧草だけが、不自然なスピードで伸び始めた。


 数秒の後には、周囲の草よりも頭二つ分ほど高く、青々と瑞々しい極上の牧草へと進化を遂げた。


(ふむ、大成功じゃ。実に見事な出来栄え……、あ)


 喜びも束の間、強烈な脱力感が襲ってくる。


 ほんのわずかな魔法。


 だが、今のじじいにとっては、それだけで全魔力が消滅する。


 メーターがゼロになる。


 ストン、と脳のスイッチが切れた。


 その場に突っ伏して、死んだように眠りについた。


 放牧地で行き倒れる仔馬。


 遠くで見守る牧場スタッフが、慌てて双眼鏡を覗き込む。


「おい、またあの子が倒れてるぞ!」


「あいつ、いっつも寝てんな……。体、どこか悪いのか?」


「いや、獣医さんに見せても、健康そのものだって。ただの寝太郎だな」


 スタッフたちは、呆れたようにため息をついた。


 いつしか、牧場内で「寝太郎」という不名誉なあだ名で呼ばれるようになっていた。


       ★


 じじいは、ひたすら草を生やしては寝る、という奇妙なルーティンを繰り返した。


 その努力の成果は、確実に現れていた。


 魔力の最大値は少しずつ増え、今では雑草を生やした程度では、気絶しなくなっている。


 ある日の放牧地。


 今日も会心の出来栄えの牧草を前に、満足げに鼻を鳴らしていた。


 魔力によって、極限まで甘みと栄養を高めた特製の牧草。


 これを食べれば、自分の馬体も少しは大きく成長するだろう。


(では、いただきまーす……)


 嬉しそうに口を伸ばした、その時だった。


 ドスン、ドスン。


 背後から、大波のような威圧感とともに、重い足音が近づいてきた。


 振り返るまでもない。


 この放牧地の絶対権力者。


 群れを統べる、超怖いボス牝馬だった。


「ヒヒィーーーン!!」


 ボス牝馬は、鋭い目で睨みつけ、激しくいなないた。


 耳を後ろにぴたりと寝かせている。


 これは「そこをどけ、蹴り殺すぞ」という、馬の世界の明確な脅迫だ。


(げっ、お局様のお出ましじゃ……)


 たじろいだ。


 中身は大聖者だが、肉体はまだ若い当歳馬に過ぎない。


 まともに蹴られれば、骨が折れる。


 横を見ると、大好きな我が母馬が、心配そうにこちらを見つめていた。


 母馬の目は「あの子には逆らっちゃダメ、早くこっちに引きなさい」と、そわそわと泳いでいる。


(……しょーがないのう。お袋があんな顔をして心配するなら、ここは引くわい。おいボス牝馬、我が母の顔に免じて今回は譲ってやる)


 未練たっぷりに極上牧草から口を離した。


 トボトボと、情けない足取りでその場を譲る。


 ボス牝馬は、我が物顔で育てた草を、美味そうにムシャムシャと食べ始めた。


(我が母に感謝しろよ、畜生め)


 心の中で悪態をついた。


 馬の世界の上下関係は、絶対である。


 どれだけ前世で偉かろうが、今の自分はただの若駒。


 力関係には逆らえない。


 しょんぼりと肩を落としながら、別の場所へと移動した。


       ★


 そんな理不尽な日常の中で、事件は唐突に起きた。


 ある日の午後。


 放牧地を元気いっぱいに駆け回る、一頭の仔馬がいた。


 やんちゃな当歳馬である。


 その仔馬が、調子に乗ってスピードを上げすぎた。


「ヒヒン、ヒヒーン!」


 はしゃぐ仔馬。


 しかし、運悪くその日の地面は、昨晩の雨でぬかるんでいた。


 急カーブを曲がろうとした仔馬の脚が、大きく滑る。


 制御を失った小さな体が、猛烈な勢いで木製の牧柵へと激突した。


 バキキィッ!!


 放牧地に、嫌な音が響き渡る。


 木が割れた音ではない。


 生き物の骨が、へし折れた音だった。


「ギャヒィーーーン!!」


 仔馬が、聞いたこともないような悲鳴を上げて転倒した。


 地面にのたうち回り、激痛に暴れている。


 その右の前脚は、信じられない方向へとぐにゃりと曲がっていた。


「おい! 大変だ! 仔馬が柵に突っ込んだぞ!」


「嘘だろ、脚が折れてる! 完全に折れてる!」


「動かすな! 暴れさせるな! 誰か、早く獣医さんを呼べ! 急げ!」


 遠くから、牧場スタッフたちが血相を変えて走ってくる。


 電話をかけるために、事務所へ引き返すスタッフもいる。


 放牧地は、一瞬で大パニックに包まれた。


 横たわる仔馬は、痛みのあまり白目を剥き、激しく痙攣している。


 馬の骨折は、この世界では命取りだ。


 最悪の場合、殺処分。


 人間たちの絶望的な表情から、それが読み取れた。


(……なんと。この世界の馬は、脚を折っただけで命まで取られるのか)


 じじいは、初めてこの世界の掟を知った。


 人間なら添え木で済む怪我が、馬にとっては死罪に等しい。


 ならば――目の前で見過ごす理由など、どこにもなかった。


(……やれやれ。これだから若いモンは、落ち着きがない。しょーがないのう)


 周囲の馬たちが、騒ぎに怯えて遠ざかる中。


 じじいだけは、のっしのっしと落ち着いた足取りで、負傷した仔馬へと近づいていった。


 スタッフたちが、暴れる仔馬を押さえつけようと必死になっている。


 その一瞬の隙。


 じじいは、人間たちの間をすり抜けた。


 そして、痛みに狂う仔馬の首筋を、前歯で優しく「ガブッ」と噛んだ。


「痛っ……、コラ、寝太郎! 何をするんだ、邪魔するな!」


 スタッフが怒鳴る。


 しかし、じじいは離さない。


 噛まれた仔馬は、なぜかぴたりと暴れるのをやめた。


 大聖者の放つ、精神安定の微弱な魔力が、仔馬のパニックを鎮めたのだ。


(よし、静かにしておれ。今、治してやるからな)


 自分の前脚を、仔馬の折れた右前脚へとそっと触れさせた。


 人間たちの視線が集まる前に、すべての魔力を一気に解放する。


 ターゲットの肉体組織を、超高速で復元する治癒魔法。


 修行で、今度は気絶せずにコントロールできるはずだ。


(――『ヒール』)


 無光の魔法が、発動した。


 ぐにゃりと曲がっていた仔馬の骨が、衣服のシワを伸ばすように、元の位置へとスッと収まっていく。


 割れた骨が結合し、破れた血管が繋がり、傷ついた筋肉が瞬時に再生した。


 ものの数秒で、仔馬の右前脚は、怪我の前と全く同じ綺麗な状態へと戻った。


(ふぅ……。完璧じゃ。魔法の扱いも上手くなったのう)


 満足して息を吐いた。


 しかし、やはり『ヒール』の消費魔力は凄まじかった。


 成長したはずの魔力タンクが、一瞬で底をつく。


 恐ろしいほどの睡魔が、再び脳を直撃した。


(あー……、やっぱり、ダメじゃ。燃料が、切れる……)


 白目を剥いた。


 そして、怪我をした仔馬のすぐ横で、地面に向けてズドーンとコの字になって倒れ込んだ。


「うわあああ!? 今度は寝太郎が倒れた!?」


「何が起きてるんだ、この放牧地は! 呪われてるのか!?」


 スタッフたちが、さらに大混乱に陥る。


 十分後。


 キィ、と急ブレーキをかけて、獣医の車が放牧地に滑り込んできた。


 車から降りた獣医が、大慌てでスタッフの元へ駆け寄る。


「骨折した仔馬はどこですか!? 暴れさせないで……、え?」


 獣医は、その場で動きを止めた。


 目の前では、さっきまで骨折でのたうち回っていたはずの仔馬が、すっくと立ち上がっていた。


 それどころか、何事もなかったかのように、元気に尻尾を振って草を食んでいる。


「……あの、骨折したというのは、見間違いですか?」


「いや、確かにボキッと音がして、変な方向に曲がっていたんです!」


「でも、この子はどこも悪くないですよ。骨も一本も折れていません」


「そんな馬鹿な! じゃあ、その横で白目を剥いて死んだように寝ている馬は、何なんだ!?」


 獣医は、大の字で爆睡しているじじいの診断を始めた。


 心音を聴き、目をめくる。


「……ただの、ものすごく深い睡眠ですね。健康です」


「な、なんなんだ一体……」


 人間たちが、頭を抱えて困惑している。


 その横で、じじいは「スー、スー……」と気持ちよさそうに大イビキをかいていた。


 治しては、寝る。


 じじいの第二の馬生は、今日も予定通りだった。

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