第1話聖者、泥を舐める
その夜、空は荒れていた。
激しい雨が、古びた厩舎のトタン屋根を叩いている。
叩きつける雨音の中に、重い獣の呼吸が混じっていた。
北海道の片隅にある、小さな生産牧場である。
おんぼろの馬房の片隅で、一頭のサラブレッドの仔馬が産声を上げた。
濡れた藁の上に、小さな体が転がる。
仔馬は、ゆっくりと目を開けた。
その瞳には、生まれたばかりの獣特有の混沌がなかった。
あまりにも静かで、あまりにも達観した光が宿っている。
(やれやれ……。今度は四つ足の世界か)
仔馬は心の中で、深くため息をついた。
彼の魂は、人間のものである。
それも、ただの人間ではない。
かつて異世界で、数々の英雄の命を繋ぎ止めた男だった。
戦場を駆けた、伝説の大聖者。
凄腕のヒーラーとして、その名を知らぬ者はいなかった。
(天寿を全うしたはずじゃがのう。まさか、馬に生まれ変わるとは思わなんだ)
仔馬は己の細い前脚を見つめた。
蹄がある。毛皮がある。
完全に馬の形をしていた。
異世界の記憶は、鮮明に残っている。
しかし、人間の言葉を喋る口はない。
魔法の呪文を唱えるための、器用な指先もない。
(まあ、終わったことを悔やんでも進まぬ。これが第二の人生というやつじゃな。まずは、この不自由な体を動かしてみるか)
立ち上がろうと、四肢に力を込める。
しかし、生まれたての肉体は言うことを聞かない。
濡れた四本の脚は、まるで雨に打たれる小枝のようだった。
ガタガタと震え、すぐに藁の上へ転がってしまう。
泥と羊水にまみれ、じじい(中身)は苦笑した。
(情けないのう。大聖者と呼ばれた男が、泥を舐めるとは。若い頃の修行を思い出すわい)
何度か起き上がろうと、もがく。
その時。
すぐ隣から、ひときわ大きな苦悶の喘ぎ声が聞こえた。
「ヒヒン……、フゥー、フゥー……」
それは、自分を産み落とした母馬の声だった。
母馬は、横たわったまま動けない。
その大きな腹が、不自然に波打っている。
呼吸は浅く、途切れ途切れだった。
何より、下半身からの出血が止まっていない。
(……おいおい。これは、少々まずいのではないか?)
じじいは、ヒーラーとしての本能で察知した。
母馬の生命エネルギーが、急速に低下している。
この世界の医療技術が、どの程度かは知らない。
だが、このままでは夜が明ける前に、この母親の命は尽きる。
それが、はっきりと分かった。
厩舎の通路から、人間の足音が聞こえる。
牧場のスタッフたちが、慌ただしく駆けつけてきた。
「おい、大丈夫か!?」
「出産は終わったみたいだけど……、おい、母馬の様子がおかしいぞ!」
「出血がひどい! 獣医さんは!? 獣医さんに連絡はついたのか!?」
「今、電話してる! でも、この嵐だから、到着には時間がかかるって!」
人間の大人たちが、悲鳴のような声を上げている。
誰もが、絶望的な表情を浮かべていた。
タオルを持ったスタッフが、母馬の体をさする。
しかし、出血は止まらない。
母馬の目が、次第に虚ろになっていく。
(獣医を待っていては、間に合わぬな。この母親は、ここで死ぬ)
じじいは、冷徹に現実を見つめた。
そして、己の小さな胸の奥を見つめる。
肉体は馬になった。
では、前世の力はどうなったのか。
五感を研ぎ澄まし、体内の奥深くを探る。
あった。
魂の根底に、かつて使い慣れた「あの力」が眠っている。
魔力だ。
かすかではあるが、確かにそこに存在していた。
(しょーがないのう。初仕事といこうかね)
じじいは、再び立ち上がろうとした。
今度は、ただの肉体の力ではない。
体内の魔力を、わずかに脚の筋肉へ回す。
ガタガタと震えていた四肢が、ぴたりと止まった。
すっ、と一本の木のように立ち上がる。
「え……? おい、見ろよ、仔馬がもう立ったぞ」
「なんてしっかりした脚だ。でも、今は母親が……」
人間たちの驚きを、じじいは無視した。
おぼつかない、しかし確実な足取りで歩く。
一歩、一歩、距離を詰める。
そして、横たわる母馬の顔の前にたどり着いた。
母馬は、うっすらと目を開けた。
我が子を見つめる。
その瞳には、自分の命の終わりを悟ったような、深い哀愁があった。
生まれたばかりの我が子を、残して逝かねばならない無念。
そんな感情が、馬の目から伝わってくる。
(心配するな、お袋。お前はまだ、ここで死ぬ器ではないわい)
じじいは、そっと首を伸ばした。
そして、自分の小さな鼻先を、母馬の額へと押し当てた。
人間たちは、微笑ましい親子の一コマだと思っただろう。
生まれた仔馬が、母親に甘えているだけだと。
だが、違った。
じじいは、脳内で意識を集中させた。
魂の奥底にある魔力タンクの栓を、一気に引き抜く。
前世で何千回、何万回と唱えた、最高位の治癒呪文。
そのイメージを、馬の脳裏に鮮烈に描き出す。
(――『ハイ・ヒール』)
瞬間、厩舎の闇の中に、かすかな、しかし圧倒的に清浄な光が爆発した。
人間たちの目には、気のせいに見えるほどの微光。
だが、その効果は絶大だった。
温かい光の波動が、母馬の体内に吸い込まれていく。
破れた血管が、瞬時に塞がった。
溢れ出ていた鮮血が、ぴたりと止まる。
破壊された産道の組織が、超高速で再生していく。
失われた血液が、急速に体内で造られていく。
「……え?」
「おい、嘘だろ……」
母馬の体を触っていたスタッフが、声を震わせた。
荒かった呼吸が、みるみるうちに穏やかになっていく。
冷たくなりかけていた馬体が、急速に温かさを取り戻していく。
母馬の目に、力強い光が戻った。
「出血が、止まった……?」
「呼吸も安定してる。おい、何が起きたんだ!?」
人間たちが、驚愕の声を上げる。
母馬は、ふぅ、と大きな、しかし健康的なため息をついた。
そして、むっくりと上半身を起こしたのだ。
先ほどまでの瀕死の状態が、嘘のようだった。
完全に、健康な状態に戻っている。
(ふむ。やはり、最上位の魔法は効き目が違うのう。これで一安心じゃ……)
じじいは、心の中で満足げに頷いた。
母親を救うことができた。
ヒーラーとしての仕事は、完璧に全うした。
しかし、その直後。
じじいの脳内に、すさまじい警報が鳴り響いた。
(……ん? おっと、これは、まずいぞい)
体の芯から、急速に「何か」が引き抜かれていく。
それは、エネルギー。
スタミナではない。魔力である。
生まれたばかりの仔馬の肉体。
その「器」は、想像を絶するほど小さかった。
小さなコップのような器に、前世の大魔法を無理やり詰め込んだのだ。
一発の『ハイ・ヒール』で、体内の全魔力が完全にすっからかんになった。
メーターが、マイナスに振り切れる。
(うわっ! この体、魔力少なすぎ……! 器がもたんわい!)
脳内が、真っ白になる。
凄まじい眠気が、津波のように押し寄せてきた。
立っていることすら、不可能。
脳のシャッターが、強制的にガシャリと閉まる。
(あー……、これは完全に、燃料切れじゃて……)
じじいの意識は、そこで途絶えた。
生まれたばかりの仔馬は、白目を剥いた。
そして、そのまま糸が切れた人形のように、藁の上へズドーンとコの字になって倒れ込んだ。
「うわあああ!? 今度は仔馬が倒れたぞ!?」
「おい、息はあるか!? 息はあるのか!?」
「さっきまで元気に立っていたのに、どうして!?」
せっかく安心したスタッフたちが、再び大パニックになる。
倒れた仔馬の周りに、人間が集まる。
心臓の音を聴く。呼吸を確かめる。
「……いや、死んではいないな」
「じゃあ、なんでこんな、死んだように動かないんだ?」
「分からん……。ただ、ものすごく深い眠りに落ちているみたいだ」
元気に起き上がった母馬が、不思議そうに我が子を見下ろしている。
母馬は、愛おしそうに仔馬の体を舐め始めた。
しかし、仔馬はピクリとも動かない。
ただ、気持ちよさそうに、大イビキをかいて眠り続けるだけだ。
じじいの意識が、次に目覚めたのは、実に丸三日後のことである。
生まれてわずか数分で命を救い、生まれてわずか数分で燃え尽きた仔馬。
この「治しては、寝る」が、彼の第二の馬生のすべてになるのだが――当のじじいは白目のまま、母に舐められながら、幸せそうに眠っていた。




