第49話 有馬記念
十二月最終日曜の中山競馬場は、朝から人で溢れていた。
入場者数は、十数年ぶりの記録を更新した。
誰もが、同じレースを見に来ていた。
第11レース、有馬記念。
三冠馬ユメノワスレナグサと、天皇賞馬ロードカイザー。
ダービー同着の二頭が、七ヶ月ぶりに、同じゲートに入る。
★
【じじい】
パドックは、地鳴りのようだった。
周回する馬たちの中で、じじいは、のんびりと歩いていた。
(すごい人じゃのう。祭りか)
祭りである。
視線の先、パドックの反対側に、黒鹿毛の馬体が見えた。
ロードカイザー。
七ヶ月ぶりに見る若造は、別の馬のようだった。
馬体が一回り大きくなっていた。無駄な肉が、どこにもない。歩様に、迷いがない。
そして、目が。
(ほう……)
じじいは、少しだけ、足を止めかけた。
良い目をしていた。
挑発でも、憎悪でもない。
ただ、まっすぐに、こちらを見ていた。
(仕上がっておるな、若造)
じじいは、前に向き直った。
口の端が、少しだけ緩んでいた。
馬の顔で、それに気づいた者はいなかった。
★
【駿河紗季】
返し馬の感触は、完璧だった。
完璧すぎて、紗季は少しだけ怖かった。
ゲート裏で、鷹騎手と目が合った。
鷹は、小さく頷いた。
紗季も、頷き返した。
言葉は、なかった。
一年前、ホープフルの日。この人は完璧な包囲網で、自分たちを八着に沈めた。
今日の鷹騎手に、あの日の気配はなかった。
罠の匂いが、しない。
(正面から来る)
紗季は、確信した。
それなら、こちらも一つだ。
前に行く。
この馬の競馬を、最初から最後までやり切る。
ゲートに、収まった。
隣の枠に、カイザーが入った。
二頭の間に、仕切り一枚。
ダービーと、同じ距離だった。
★
ガシャン。
ゲートが、開いた。
じじいは、一歩目で先頭に立った。
大歓声が、爆発した。
中山、芝2500メートル。
スタートしてすぐ、最初の坂を越える。
じじいは、自分のリズムを刻み始めた。
後続が、続く。
その先頭集団のすぐ後ろ、五番手の絶好位に、黒鹿毛がぴたりとつけた。
カイザーだった。
鷹は、隠さなかった。
最初から、じじいだけを見るポジションを取った。
★
【鷹】
一周目のスタンド前。
大歓声の中を、鷹は静かに通過した。
前を行く芦毛は、いつも通りだった。
美しいとさえ思える、一定のリズム。
速い。だが、無理のあるペースではない。あの馬にとっては。
(追いかければ、こちらが削られる。待てば、届かなくなる)
この一年、何度も見てきた構図だった。
だから今日は、決めてきた。
削られてもいい。
カイザーの末脚を信じて、早めに取り付く。
二の足が出ようが、三の足が出ようが、真横で受けて立つ。
それが、答えの出し方だった。
一コーナーを回る。
鷹は、手綱を、まだ動かさなかった。
カイザーの呼吸が、下から伝わってくる。
落ち着いていた。
燃えているのに、落ち着いていた。
(……いい馬になった)
鷹は、思った。
★
【じじい】
向こう正面に入った。
じじいは、後ろの気配を数えた。
いつもなら、この辺りで蹄音は遠くなる。
今日は、違った。
一つだけ、離れない蹄音があった。
(来ておるな)
振り返らなくても、わかった。
あの若造だ。
じっと、五番手で、こちらを見ている。
仕掛けても来ない。離れもしない。
(ふむ。腹の据わった競馬をしおる)
じじいは、魔力を練り始めた。
いつもなら、点滴から始める。
今日は、違う。
昨夜、決めたのだ。
手加減は、せん。
認めた相手には、全部出すのが礼儀じゃ。
(最初から、全開でいくぞい)
じじいは、栓を、抜いた。
貯めに貯めた魔力が、どっと全身を駆け巡った。
心臓。肺。四肢。蹄の先まで。
疲労が消える、どころではない。
走りながら、体が常に作りたてに戻り続ける。
一完歩ごとに、新品の馬が走る。
じじいの脚が、伸びた。
二番手との差が、広がり始めた。
三馬身。四馬身。
スタンドが、どよめいた。
★
【ロードカイザー】
前の芦毛が、加速した。
残り1000メートルも手前で。
馬群が、ざわめいた。誰もついて行かない。行けば潰れる。全馬がそれを知っていた。
カイザーは、行った。
鷹の手綱が、同時に緩んだ。
一人と一頭の判断が、完全に重なっていた。
馬群から、カイザーだけが抜け出した。
前を追う。
三コーナーの登り。
脚に、乳酸が来る。息が、焼ける。
ダービーの時なら、ここで温存を考えた。
今日は、考えなかった。
この一年、この瞬間のために坂を登り続けた。
筋肉が悲鳴を上げた夜も。
届かなかった菊花賞の背中を、テレビ越しに見た夜も。
全部、今日のためだった。
差が、縮まった。
四馬身。三馬身。
前の芦毛が、視界の中で大きくなっていく。
(届け)
カイザーは、四コーナーを、最短距離で回った。
★
最後の直線。
中山の直線は、短い。
そして、急坂がある。
「ワスレナグサ先頭! ロードカイザーが追う! 二頭だけの世界です!!」
実況が、絶叫した。
三番手以下は、もう十馬身以上後ろだった。
スタンドの十数万人が、総立ちになった。
★
【じじい】
後ろから、あの蹄音が迫ってきた。
(来た)
じじいは、少しだけ驚いていた。
全開である。
最初から、栓を全部抜いている。
その背中に、届きかけている馬がいる。
(……大したもんじゃ、若造)
差が、二馬身になった。
急坂に入る。
じじいの中で、古い記憶が、ひょいと顔を出した。
昔々、初めて会った日。
調教の併せ馬で、抜き去りざまに、目をひん剥いて舌を出してきた、生意気な若造の顔。
(わしはのう、若造)
じじいは、坂を蹴った。
(ああいうのは、忘れん性分なんじゃ)
なにせ、名前がワスレナグサである。
私を忘れないで。
優しい花言葉じゃが——受けた煽りも、ちゃんと覚えておる。
(一年半、利子がついておるぞい)
じじいは、全開の、さらに奥を開けた。
三の足。
脚に魔力を纏わせる、あの技の出番かとも、ちらりと思った。
(……いや)
要らんかった。
全開のヒールだけで、脚はまだ、伸びた。
急坂を、じじいは加速しながら登った。
二馬身が、三馬身になった。
三馬身が、四馬身になった。
★
【ロードカイザー】
離れていく。
全部、出している。
脚も、心臓も、息も、残していない。
一年分、全部載せて追っている。
それでも、前の芦毛は、遠くなっていく。
急坂で、加速しながら。
(……なんだ、お前は)
カイザーは、走りながら、確かに見た。
前を行く芦毛の走りに、緩みが一つもないのを。
流していない。
温存していない。
あの馬も、全部を出していた。
自分に向かって、全力を出していた。
(——ああ)
カイザーの中で、何かが、すとんと落ちた。
ダービーの日の、あの温かい何か。
憐れみかと、疑っていた。
施しかと、腹を立てていた。
違った。
憐れむ相手に、これをするか。
施す相手から、こんなに必死に逃げるか。
目の前の背中は、五馬身先で、なお全力だった。
それが、答えだった。
(次は)
カイザーは、最後の力で坂を蹴った。
(次は、獲る)
★
ゴール板。
じじいが、先頭で駆け抜けた。
五馬身差。
二着に、ロードカイザー。
三着は、さらに十二馬身後ろだった。
「ワスレナグサ、圧勝ーーー!! 有馬記念、制覇!! 三冠、ジャパンカップ、有馬記念!! 今年のグランプリは、この馬です!!」
中山が、揺れた。
★
ゴールの後。
じじいは、ゆっくりと速度を落とした。
息は、乱れていなかった。
後ろから、カイザーが上がってきた。
肩で、大きく息をしていた。全身から、湯気が立っていた。
脚は——震えていなかった。
出し切って、なお、立っていた。
ダービーの日より、強い馬が、そこにいた。
じじいは、カイザーを見た。
カイザーも、じじいを見た。
じじいは、リジェネを、かけなかった。
今日のこの疲れは、こやつが自分で背負って帰るべきものだ。
一年かけて作った体で、全部出し切った、その証なのだから。
(ようやっ た、若造)
その代わり——。
じじいは、ぴょこん、とスキップを踏んだ。
軽やかに、二歩、三歩。
カイザーの視界に、正面から回り込む。
そして。
目を、限界までひん剥いた。
舌を、ベロリと横に突き出した。
完璧な、変顔だった。
一年半前、調教の朝に受け取ったものの、完全な意趣返しだった。
カイザーが、目を剥いた。
スタンドの一部から、悲鳴と爆笑が同時に上がった。
カイザーは、しばらく固まっていた。
それから——。
フッ、と鼻を鳴らした。
怒りでは、なかった。
受けて立つ者の、返事だった。
二頭は、並んで、ウィニングランの走路をゆっくりと歩き出した。
勝者と、敗者。
傍から見れば、そうだった。
だが、並んで歩く二頭の間にあるものに、勝ち負けの色は、もうなかった。
★
【鷹】
検量室の前で、鷹はカイザーから降りた。
記者たちが、駆け寄ってくる。
「鷹さん、五馬身差という結果ですが」
鷹は、ヘルメットを脱いだ。
「……完敗です」
それだけ、言った。
「悔いの残るレースでしたか」
「いえ」
鷹は、首を振った。
「カイザーは、生涯最高の走りをしました。私の騎乗にも、悔いは一つもない。全部出して、五馬身離された。それだけのことです」
言ってから、鷹は、少しだけ黙った。
それだけのこと。
いつもの言葉が、今日は、少し違って聞こえた。
鷹は、走路の方を振り返った。
二頭の馬が、並んで歩いているのが、遠くに見えた。
「……いや」
鷹は、言い直した。
「いいものを見せてもらいました。騎手として、これ以上のレースはそうありません」
記者たちが、一斉にペンを走らせた。
鷹は、もう一度だけ走路を見て、検量室へ入っていった。
★
【駿河紗季】
紗季は、じじいの背中で、まだ震えていた。
勝った。
有馬記念を、勝った。
三冠、ジャパンカップ、有馬。
この馬と、一年で、全部獲った。
ウィニングランの途中、スタンドの一角が見えた。
優芽が、両手を振り回していた。隣で凛が跳ねていた。ひよりが、珍しく大きく手を振っていた。優芽の父が、目元を押さえていた。
紗季は、手を上げて応えた。
それから、じじいの首筋に、そっと手を当てた。
「……ありがとう」
じじいの耳が、ぴくりと動いた。
いつもの返事だった。
それで、十分だった。
★
【じじい】
その夜、中山の馬房で、じじいは飼い葉を食べていた。
ニンジンが、山盛りだった。
佐々木の仕業である。
(うむ。良い一日じゃった)
走った。勝った。煽った。ニンジンが美味い。
文句のつけどころが、なかった。
じじいは、ふと、昼間の若造の目を思い出した。
ゴールの後の、あの目。
何かが、吹っ切れた目をしていた。
(次は獲る、という目じゃったな)
じじいは、ニンジンを一本、噛み砕いた。
(ふぉっふぉっふぉ……励むがよいわ、若造)
わしは、寝るがの。
大聖者は、山盛りのニンジンを平らげると、藁の上にどさりと横になった。
五秒で、眠った。
一年の答えが出た夜、中山の空には、冬の星が満ちていた。




