第48話 有馬前夜
【美浦・最終追い切り】
有馬記念の週の水曜、美浦の朝は氷点下だった。
白い息を吐きながら、紗季はじじいに跨った。
最終追い切り。
坂路の入り口で、じじいは静かに立っていた。
「行くよ」
紗季が、手綱を緩めた。
じじいが、駆け出した。
凍った空気が、切り裂かれていく。
ウッドチップを蹴る音が、規則正しく、力強く、坂を登っていく。
登り切った。
古谷が、ストップウォッチを見た。
しばらく、黙っていた。
「……自己ベストだ」
稲葉が、手帳から顔を上げた。
「この時期にですか」
「ああ。三歳の暮れに、まだ数字が伸びてる」
古谷は、ストップウォッチをポケットにしまった。
「化け物め」
褒め言葉だった。
★
追い切りの後、洗い場でじじいの体を流しながら、佐々木がぽつりと言った。
「そういえば」
湯気の向こうで、稲葉が振り返った。
「なんですか」
「こいつ、最近倒れねえな」
稲葉が、少し考えた。
「……言われてみれば」
「昔はひどかったんだ。北海道の牧場じゃ、道端で年中ひっくり返ってたらしい。うちに来た時も、引き運動の途中でいきなり倒れた」
「ありましたね、そんなこと」
稲葉が、懐かしそうに笑った。
「白目剥いて、大イビキで。獣医さんが『ただの睡眠です』って」
「そうそう。あれから騒ぎになるたびに検査したが、何も出なかった」
佐々木は、じじいの背中にお湯をかけた。
「それが、いつからか、ぱったり倒れなくなった」
「成長したんですかね」
「……どうだかな」
佐々木は、じじいの顔を見た。
じじいは、気持ちよさそうに目を細めていた。
(ふむ。倒れる、のう)
じじいは、湯気の中で考えた。
(あれは魔力切れじゃ。倒れるほど使う相手が、近頃おらんかっただけのことよ)
器が大きくなりすぎたのだ。
ヒール五十連発でようやく空になる器を、日常の治療で使い切ることは、もうない。
(まあ、倒れんに越したことはないわい)
じじいは、考えるのをやめた。
★
【栗東・輸送の朝】
同じ週の金曜、栗東。
夜明け前の暗がりの中、馬運車が待機していた。
カイザーは、引かれて、スロープの前に立った。
中山へ向かう。
二日後、あの芦毛と走る。
カイザーは、一度だけ、空を見上げた。
冬の星が、まだ残っていた。
鷹が、隣に立った。
出発前に、一目見に来たらしい。
鷹は、何も言わなかった。
カイザーの首筋に、手を当てた。
仕上がっている。
これ以上ないところまで、仕上がっている。それが、手のひらから伝わってきた。
「……行こうか」
鷹が、静かに言った。
カイザーは、自分からスロープを登った。
馬運車の扉が、閉まった。
エンジンがかかり、車体がゆっくりと動き出す。
暗い荷台の中で、カイザーは目を閉じなかった。
(確かめに行く)
ダービーの、あの温かい何か。
あれが憐れみだったのかどうか。
答えは、レースの中にしかない。
馬運車は、東へ向かって走り出した。
★
【教室】
金曜日の休み時間、優芽の席は今日も一番にぎやかだった。
「ねえ優芽さん、日曜のレースって、この前のと何が違うんですの?」
クラスメイトの一人が、聞いてきた。
「ジャパンカップも勝ちましたでしょう? もう一番お強いのでは」
「有馬記念はね」
優芽は、少し姿勢を正した。
「一年で一番強い馬を決めるレースなの」
「ジャパンカップとは違いますの?」
「ジャパンカップは世界の馬と走るレース。有馬は、日本中の強い馬が全員集まるレース」
半分くらい、パパの受け売りだった。
「まあ。それで、どなたと戦いますの」
「ロードカイザー」
優芽の声が、少しだけ低くなった。
「ダービーで引き分けた馬。それからずっと、別々のレースで勝ってきたの。それで最後に、どっちが強いか決めるの」
「まあ……!」
クラスメイトが、口元に手を当てた。
「宿命の対決ですわ」
「少女漫画で読みましたわ、そういうの」
「運命ですわね」
周りが、きゃあきゃあと盛り上がった。
凛が、横から口を挟んだ。
「で、勝ったらどうなるの」
「一番強い馬になる」
「ジャパンカップで世界に勝ってるんだよね」
「うん」
「じゃあ有馬も勝ったら、世界一で日本一?」
優芽は、少し考えた。
それから、言った。
「宇宙一」
「宇宙一だ」
凛が、深く頷いた。
「宇宙一ですわ」
クラスメイトたちも、頷いた。
教室の一角で、ユメノワスレナグサが宇宙一になることが、正式に決まった。
窓際の席で、ひよりが小さく笑っていた。
★
【中山・前夜】
土曜の夜、中山競馬場の厩舎エリアは静かだった。
じじいは、輸送を終えて、当日用の馬房に落ち着いていた。
藁の匂いが、いつもと違う。
中山の藁だ。
(ここは……ホープフルの時以来かの)
いや、皐月賞も、セントライトもここだった。
(ふむ。負けたのは、ここの最初の一回だけじゃな)
あの日は、囲まれて、詰んで、八着だった。
人間たちが、みんな下を向いていた。
佐々木が、目を赤くしていた。
あれから、一年。
じじいは、藁を一口食んだ。
通路の向こうから、足音が近づいてきた。
佐々木だった。
夜の見回りだ。
佐々木は、馬房の前で足を止めた。
しばらく、じじいを見ていた。
「……明日、カイザーだぞ」
じじいは、藁を食みながら、佐々木を見た。
「ダービーの相手だ。覚えてるか」
(覚えておるわい)
「……いや、覚えてるんだろうな。お前は」
佐々木は、自分で言って、自分で頷いた。
この一年、この馬の隣で、色々なものを見てきた。
今さら、ただの馬だとは思っていない。
佐々木は、格子越しに、じじいの鼻先に手を当てた。
「明日、頼むな」
それだけ言って、手を離した。
見回りの続きへ、歩いていく。
その足音が、遠ざかっていった。
★
【じじい】
厩舎が、静かになった。
じじいは、藁の上に座り直した。
明日。
あの若造と、走る。
じじいは、ダービーの直線を思い出した。
三回のヒールで離れなかった、あの脚。
全部出し切って、震えていた、あの体。
(あの日から、一年足らずか)
若造は、天皇賞を勝った。
鷹の爺さんが、乗っている。
搦め手なしで、正面から来るだろう。それくらいのことは、じじいにもわかった。
あの二人は、そういう仕上がり方をしている。
(……ふむ)
じじいは、目を閉じかけて、やめた。
珍しく、少しだけ考えた。
ダービーの日、じじいは若造を認めた。
認めたから、リジェネをかけてやった。
褒めてやった。今日だけ、と言いながら。
(明日は、どうするかの)
じじいは、二秒考えた。
答えは、すぐに出た。
(手加減は、せんぞ)
認めた相手じゃ。
認めた相手には、こちらも全部出すのが礼儀というものだ。
魔法も、何もかも、全部込みで。
それが、じじいの走りなのだから。
(それと——)
じじいは、思い出した。
昔々、調教で初めて会った日。
目をひん剥いて、舌をベロリと出して、煽ってきた若造の顔を。
(あの変顔の借りも、まだ返しきっておらんかったのう)
皐月賞で舌は返した。
だが、まだ足りない気がする。
なにせ、わしはワスレナグサ。
私を忘れないで、という名の馬である。
(受けた煽りも、忘れんのじゃ。ふぉっふぉっふぉ)
大聖者は、実に大人げないことを考えながら、目を閉じた。
トラのいない中山の夜は、少しだけ静かすぎた。
じじいは、五秒で眠った。
中山の空に、冬の月が昇っていた。
明日、一年の答えが出る。




