第47話 日曜日
【佐々木】
日曜の朝、佐々木は病院の駐車場に車を停めた。
助手席の母が、シートベルトを外すのに手間取っていた。
「貸して」
「いいよ、自分でできる」
母は、ゆっくりとベルトを外した。
昔は、何でも速い人だった。飯を作るのも、洗濯物を畳むのも、怒るのも速かった。
今は、何もかもがゆっくりだった。
透析は、週三回。
一回、四時間。
三年前に始まって、これからもずっと続く。
佐々木は、月に何度か、休みを合わせて送り迎えをしていた。
「あんたも忙しいのに、悪いねえ」
母は、毎回同じことを言う。
「別に」
佐々木も、毎回同じことを返す。
待合室の長椅子で、母が呼ばれるのを待った。
テレビが、ついていた。
スポーツニュースが、有馬記念の話をしていた。ワスレナグサとロードカイザー。世紀の対決。画面の中で、見慣れた芦毛が走っていた。
「あら」
母が、テレビを指さした。
「あれ、あんたの馬じゃないの」
「俺の馬じゃねえよ。担当してる馬」
「同じことでしょう」
母は、目を細めて画面を見ていた。
「強いんだってねえ。この前、先生も言ってたよ。うちの息子があの馬の世話をしてるんですって言ったら、看護婦さんたちが騒いじゃって」
「言うなよ、そういうの」
「いいじゃないの、自慢の息子で」
佐々木は、黙った。
自慢されるようなことは、何もしていない。飼い葉をやって、体を拭いて、寝藁を替えているだけだ。
画面の中で、じじいがゴール板を駆け抜けた。
母が、ぽつりと言った。
「……一度、見てみたいねえ。本物」
佐々木は、母を見た。
母は、テレビを見たままだった。
「テレビだと、大きさがわからないから」
名前を呼ばれて、母は立ち上がった。
ゆっくりと、処置室へ歩いていく。
その背中が、また少し小さくなった気がした。
佐々木は、長椅子に座ったまま、しばらくテレビを見ていた。
★
三日後、佐々木は古谷に頭を下げていた。
「……というわけで、その、見学なんですが」
「お袋さんを?」
「はい。透析の日じゃない日に、少しだけ」
古谷は、書類から顔も上げなかった。
「日曜の午後なら、人も少ない。稲葉に言っておく」
「……いいんですか」
「担当厩務員の家族だぞ。何がだめなんだ」
古谷は、それだけ言って、書類に戻った。
佐々木は、もう一度頭を下げて、事務所を出た。
廊下を歩きながら、少しだけ迷った。
なんで、こんなことを頼んだのか。
母が見たいと言ったから。それだけだ。
それだけの、はずだった。
★
日曜の午後、佐々木は母を助手席に乗せて、トレセンの門をくぐった。
「あらまあ、広いんだねえ」
母は、窓に顔を寄せて、きょろきょろしていた。
「東京ドーム何個分だい」
「知らねえよ、そんなの」
厩舎の前に車を停めて、母の歩調に合わせてゆっくり歩いた。
冬の午後の陽が、通路に長く差し込んでいた。
じじいの馬房の前に着いた。
「ほら。こいつだ」
じじいは、藁の上に座っていた。
母の姿を見ると、のそりと立ち上がって、格子越しに首を伸ばした。
「まあ……」
母が、足を止めた。
「大きいねえ」
母は、じじいを見上げた。
じじいも、母を見下ろした。
★
【じじい】
(ほう。佐々木の客か。……珍しいのう)
じじいは、小柄な老婦人を眺めた。
佐々木と、目元が似ていた。
(母親か)
そして、いつもの癖で、診た。
診た瞬間、じじいの目が、す、と細くなった。
(……これは)
悪い。
血が、濁っている。腎の働きが、三割も残っていない。体中に、抜けきらない毒が薄く溜まっている。何年もかけて、ゆっくりと削られてきた体だった。
そして、その濁り方に、覚えがあった。
いつかの見学客。あの中年の男と、同じ濁り方。
(この匂い……ああ)
じじいの中で、何かが繋がった。
(——思い出したぞ。「糖尿」じゃ)
夜の厩舎。ブラシの音。掠れた声。
——糖尿病って、治せるか?
あの夜、佐々木が聞いてきたのは。
じじいは、老婦人を見た。それから、その後ろに立つ佐々木を見た。
(……お主の、母親のことじゃったのか)
佐々木は、いつも通りの顔で立っていた。
いつも通りの顔で立とうとしているのが、じじいにはわかった。
(言うのが遅いわ、たわけ)
じじいは、心の中で毒づいた。
半分は、佐々木にで。
半分は、三秒で考えるのをやめた自分にだった。
★
【佐々木】
母は、じじいの前で、嬉しそうにしていた。
「触ってもいいのかい」
「鼻先ならな。噛まねえよ、こいつは」
母が、細い手を伸ばした。
じじいは、自分から鼻先を下げて、母の手のひらに合わせた。
「あらあら」
母が、笑った。
「賢いんだねえ。撫でやすいところに来てくれた」
母は、じじいの鼻筋を、ゆっくりと撫でた。
透析で針を刺し続けた腕は、細く、あちこちが黒ずんでいた。
★
【じじい】
じじいは、微動だにしなかった。
撫でられながら、目だけを静かに閉じる。
人間たちには、大人しい馬が撫でられて気持ちよさそうにしている——そう見えているはずだった。
だが、違った。
じじいは、仕事をしていた。
診立ては、済んでいる。
腎。血管。血。長年の毒。全部だ。
軽い魔法で届く体ではない。
そして今、この手が触れている。
これ以上の好機はなかった。触れていれば、魔力は最短で、最も深くまで届く。撫でるという名目で、向こうから繋がってくれている。
(動くでないぞ、わし)
優芽の時は、眠らせてから治した。
治される瞬間の驚きも、不思議も、何もない方がいい。それがじじいの流儀だ。
だが、この母親は起きている。
ならば、悟らせずにやるまでだ。
温かい手のひらに、温かい鼻先を返しながら——その接点から、静かに、栓を全開にした。
(——『ハイ・ヒール』)
無光の奔流が、撫でる手のひらを通って、細い腕へ、体の芯へと流れ込んでいく。
三割しか働いていなかった腎の細胞が、片っ端から作り直されていく。
黒ずんだ血管が、内側から洗われていく。
何年も溜まり続けた毒が、根こそぎ払われていく。
針の痕だらけの腕の、その奥の細い血管まで。
丁寧に。丁寧に。
生まれた夜に母馬を治した、あの魔法だった。
優芽の心臓を作り直した、あの魔法だった。
「あったかいねえ」
母が、言った。
「生き物って、あったかいんだねえ」
(それは何よりじゃ)
じじいは、目を閉じたまま、最後の一滴まで流し込んだ。
★
【佐々木】
佐々木は、少し離れて、それを見ていた。
母がこんなに長く外で笑っているのを、久しぶりに見た。
それにしても——。
佐々木は、ふと思った。
じじいが、動かない。
撫でられて大人しい馬は、いくらでもいる。だが、こいつのは少し違った。耳の先まで、尻尾の先まで、完全に止まっている。目を閉じて、まるで、何かに集中しているみたいに。
こんなじじいを、見たことがなかった。
……いや。
あった。
セントライトの日。あの鹿毛の馬の脚に、鼻先を当てていた時。
あの時と、同じ止まり方だった。
佐々木は、気づくと、息を止めて見ていた。
母が、手を離した。
「ありがとうねえ、お馬さん」
じじいが、目を開けた。
いつもの、眠たげな目に戻っていた。
何事もなかったように、あくびを一つした。
佐々木は、詰めていた息を、そっと吐いた。
★
稲葉がお茶を持ってきてくれて、通路の椅子で少し休んだ。
母は、湯呑みを両手で包んで、ゆっくりと飲んだ。飲みながら、ずっとじじいを見ていた。
じじいは、いつもの場所に戻って、藁を食んでいた。
冬の午後は、静かだった。
お茶を飲み終えると、母は名残惜しそうに腰を上げた。
「そろそろ帰ろうかね。あんまり長居しても、お馬さんに悪いし」
立ち上がって——母の動きが、少しだけ、止まった。
「……あれ」
「どうした」
母は、自分の手を、開いたり閉じたりした。
それから、肩を回した。腰に手を当てた。
「……なんだか、体が軽いよ」
佐々木の心臓が、一つ、大きく跳ねた。
「ここの空気がいいのかねえ。それとも、いいものを見たからかねえ」
母は、不思議そうに、でも嬉しそうに、もう一度肩を回した。
「ずっと、体の芯に重りが入ってるみたいだったのに。……あらあら、なんだろうねえ、これ」
佐々木は、何も言えなかった。
じじいの方を、見た。
じじいは、藁を食んでいた。
こちらを、見もしなかった。
★
帰りの車の中で、母はずっと窓の外を見ていた。
「いい馬だねえ」
母が、言った。
「あの子、あたしが撫でやすいように、首を下げてくれたんだよ。ああいうのは、賢いとかじゃないね。優しいんだね」
佐々木は、前を見たまま運転していた。
「……ああ」
声が、少し掠れた。
「いい馬だ」
夕方の道路を、車は静かに走った。
母は、途中からうとうとし始めた。
その寝顔が、行きよりも、ずっと明るく見えた。
佐々木は、ハンドルを握りながら、思っていた。
撫でられている間、あいつは石像みたいに動かなかった。
目を閉じて、何かに集中するみたいに。
セントライトの日と、同じように。
気のせいだ。
考えすぎだ。
あるわけが、ない。
……でも、もし。
もし、あるのだとしたら。
佐々木は、それ以上考えるのをやめた。
答え合わせは、怖かった。
ただ、次の透析の日が、初めて、少しだけ待ち遠しかった。
検査の数字が、何かを教えてくれる気がした。




