第46話 冬へ
【北海道・古道牧場】
ジャパンカップの夜、古道家の居間は、もう慣れたものだった。
「勝ったな」
「勝ちましたね」
敏夫と春代は、お茶を飲みながら画面を見ていた。
初めてのG1の夜は、ウイスキーを開けた。
三冠の夜は、額縁を買いに走った。
世界レコードの夜は、家中が大騒ぎだった。
そして今夜、世界の強豪を退けた夜は——お茶だった。
「……なんか、落ち着いてきちゃったな、俺たち」
「勝つのが普通になっちゃいましたからねえ」
「贅沢な話だ」
敏夫は、湯呑みを置いた。
壁を見る。
額縁が、七つ並んでいた。新馬戦から、菊花賞まで。
八つ目を掛ける場所が、もうなかった。
「……あっちの壁、棚をどかすか」
「どかしましょう」
息子が、スマホを見ながら口を挟んだ。
「親父、それより有馬だよ。カイザーと当たる」
敏夫の湯呑みを持つ手が、止まった。
「……そうか。ついにか」
「ダービー以来だよ。あの同着以来」
敏夫は、テレビ画面を見た。
ジャパンカップのリプレイが、まだ流れていた。
「……今度は、決着がつくんだな」
誰も、何も言わなかった。
★
【インターネット・競馬掲示板】
『【JC】ワスレナグサ世界撃破スレ』
>世界の一線級に二馬身半て
>外国勢、直前まで状態六割って言われてたのに当日めちゃくちゃ仕上がってたよな
>それな。全頭別馬みたいだった
>で、その全頭が本気で追って届かないという
>もう国内に敵いないだろ
>いるんだなあこれが
>カイザー
>そう、カイザー
>有馬記念、ついに来るぞ
>ダービー同着からの再戦
>ワスレナグサ:三冠+JC
>カイザー:天皇賞秋
>役者が揃いすぎてる
>オッズどうなるんだこれ
>ワスレナグサ1.5倍、カイザー2倍台とかじゃね
>いや今日の内容見たらもっと開くだろ
>でもカイザーの末脚も本物なんだよなあ
>秋天の直線、鳥肌立ったもん
>止まらない馬と、差し切る馬
>今年の競馬の答え合わせだな
>年末が楽しみで仕事が手につかない
>わかる
>生きる理由その2ができた
>その1は何だったんだよ
>秋天のあとに言っただろ
>覚えてるやつがいて草
★
【ロードカイザー】
栗東の坂路に、白い息が上がっていた。
カイザーは、三本目を駆け上がった。
脚が重い。息が焼ける。
それでも、止まらなかった。
坂を登り切ったところで、鷹が手綱を緩めた。
「……よし」
短い一言だった。
カイザーは、荒い息の中で、遠くを見ていた。
ジャパンカップの結果は、知っている。
人間たちの会話で、わかった。あの芦毛が、海の向こうの馬たちを退けた。
驚きは、なかった。
あの馬は、そういう馬だ。ダービーで、真横で確かめた。
カイザーの中に、ずっと残っているものがあった。
あの日の、ゴールの後。
全部を出し切って、脚が震えていた自分の首筋に触れた、あの温かい何か。
震えが、止まった。楽になった。
あれは、何だったのか。
ずっと、考えていた。
敵に塩を送ったつもりか。
弱った者への、施しか。
……憐れみか。
考えるたびに、腹の底が熱くなった。
あの馬は、全部を出し切った自分を見て、労わったのだ。
対等の敵になら、そんなことはしない。
(次は、要らない)
カイザーは、坂の下を見た。
もう一本、行きたかった。
鷹が、首筋に手を当てた。
「今日はここまでだ」
カイザーは、動かなかった。
「……気持ちはわかる」
鷹は、静かに言った。
「だが、お前を万全で連れて行くのが、私の仕事だ」
カイザーは、しばらく坂の下を見ていた。
それから、ゆっくりと歩き出した。
仕上げるのは体だけでいい。
闘志は、とっくに仕上がっていた。
★
【鷹】
その夜、カイザー陣営の作戦会議があった。
調教師、マネージャー、鷹。
テーブルの上に、中山競馬場のコース図。
「二の足対策ですが」
マネージャーが、資料をめくった。
「ホープフルの再現はどうでしょう。中山内回りは、あの時と同じ舞台です。包囲して、瞬発力勝負に持ち込めば——」
「いや」
鷹が、遮った。
「今回は、やらない」
マネージャーが、顔を上げた。
「……本気ですか。あの手は、一度成功しています」
「一度だけ、な」
鷹は、コース図を見た。
「あの後、弥生賞で外を取られ、皐月賞で大逃げに変えられた。あの馬とあの陣営は、同じ手を二度食わない。それに」
鷹は、少しだけ間を置いた。
「菊花賞を見ただろう。囲む? 24馬身先を走る馬を、どうやって囲む」
部屋が、静かになった。
「じゃあ、どうすると」
調教師が、聞いた。
鷹は、コース図の直線を、指でなぞった。
「全部見た上で、正面から行く」
「正面から」
「早めに取り付いて、直線で真っ向勝負。カイザーの末脚と、あの馬の粘り。どちらが上か、それだけを問うレースにする」
マネージャーが、眉を寄せた。
「……策がない、ということでは」
「策は捨てるんだ。ないのとは違う」
鷹は、コース図から目を上げた。
「初めて当たった時、私は策で勝った。策で勝てる馬は、あそこまでだった。今のあの馬に、搦め手は効かない。なら、残っているのは一つだけだ」
鷹は、静かに言った。
「カイザーを信じる。それが作戦だ」
調教師が、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。
「……あなたがそういうことを言うようになるとはね」
「私も驚いています」
鷹は、笑わなかった。
窓の外、栗東の空に、冬の星が出ていた。
★
【じじい】
同じ夜、美浦。
じじいは、馬房で藁を食んでいた。
トラが、前脚の間で丸くなっている。
ジャパンカップから、数日。体は、とっくにいつも通りだった。
人間たちは、もう次の話をしている。
有馬記念。
あの若造と、また走るらしい。
じじいは、ダービーの日のことを思い出した。
並ばれて、差し返して、また並ばれて。
三回のヒールでも、離れなかった。
初めて、本気で認めた相手だった。
(あれから、一年も経っておらんのか)
若造は、天皇賞とやらを勝ったらしい。
スレの民が騒いでいたのを、佐々木のスマホ越しに聞いた。
(強くなっておるんじゃろうな)
じじいは、藁をもう一口食んだ。
ふと、耳が北の方角に動いた。
夜の厩舎は、静かだった。
風の音しか、しなかった。
だが、なんとなく。
本当に、なんとなくだが。
(……誰ぞ、わしを呼んだかの)
じじいは、しばらく耳を立てていた。
何も、聞こえなかった。
気のせいだった。
(ふむ。歳かの)
じじいは、目を閉じた。
トラが、ゴロゴロと喉を鳴らした。
遠く離れた栗東で、一頭の馬が、まだ眠らずに冬の空を見ていることを、じじいは知らない。
有馬記念まで、あと四週間。
二頭の冬が、始まっていた。




