第45話 ジャパンカップ
十一月最終日曜の東京競馬場は、いつもと匂いが違った。
じじいは、装鞍所からパドックへ向かう通路で、鼻をひくつかせた。
(ふむ……嗅いだことのない飼い葉の匂いじゃな。それに、革の匂いも違う)
外国馬の陣営が、通路の向こうにいた。
金髪の厩務員。横文字の書かれた馬着。聞き取れない言葉が、あちこちで飛び交っている。
(ほう、ほう。これが海の向こうの連中か)
じじいは、興味深く眺めた。
そして、いつもの癖で、診た。
(……む)
じじいの目が、止まった。
悪い。
どの馬も、そろって悪い。
凱旋門賞二着の栗毛は、長旅の疲れが抜けきっておらず、腸の動きが鈍っていた。カイバが半分も入っていない。
英国から来た鹿毛は、時差で体内の時計が狂ったままだ。夜眠れていない目をしている。
米国の黒鹿毛は、検疫の間に蹄がわずかに乾いて、ひび割れの手前まで来ていた。
(おいおい……どいつもこいつも、満身創痍ではないか)
じじいは、あきれた。
病気ではない。怪我でもない。
ただ、地球の裏側から運ばれてきた生き物の、当たり前の消耗だった。
人間たちは気づいていない。馬たちは、誰にも言えない。
(これで「世界最強決定戦」とは、笑わせるのう。万全でない相手に勝って、何が世界一じゃ)
じじいは、ふん、と鼻を鳴らした。
それに——。
じじいは、根っからのヒーラーである。
目の前に不調な者がいて、魔力が余っている。
この条件が揃って、何もしないという選択肢は、じじいの中に存在しなかった。
(しょーがないのう)
パドックへの周回が始まる。
じじいは、歩きながら、そっと魔力を練った。
ミスト式。
牧場で八頭をまとめて診た、あの霧だ。
今日は、もっと広く。もっと濃く。
見えない癒しの霧が、じじいを中心に、パドック全体へゆっくりと広がっていった。
疲れた腸に。狂った体内時計に。乾いた蹄に。
薄く、広く、染み渡っていく。
凱旋門二着の栗毛が、ふと顔を上げた。
英国の鹿毛の目に、光が戻った。
米国の黒鹿毛が、軽く足踏みをした。
「……おい、うちの馬、急に気配が変わったぞ」
金髪の厩務員が、母国語で何か叫んだ。
別の陣営でも、似たようなざわめきが起きていた。
「信じられない。今朝まで飼い葉を残してたのに」
「日本の空気が合ったのか?」
「日本のパドックは魔法か何かか?」
通訳を介して、そんな軽口が関係者の間を飛び交った。
じじいは、知らんぷりで周回を続けた。
(これでよし。全員万全、文句なしじゃ)
大聖者は、満足した。
これから走って倒すべき相手を、全快させたことについては、何も考えていなかった。
★
【駿河紗季】
返し馬の途中から、紗季は違和感に気づいていた。
外国馬の動きが、良すぎる。
前日の調教映像では、どの馬も長距離輸送の影響が残っていた。陣営もそれを認めていた。今年の外国勢は状態が六、七割、というのが大方の見立てだった。
それが今、全頭、絵に描いたような気配で返し馬をしている。
(……話が違う)
紗季は、手綱を握り直した。
データがない相手が、未知の状態で仕上がってきた。
嫌な予感がした。
その予感の発生源が自分の鞍の下にいることを、紗季は知らない。
ゲートへ向かう。
じじいは、いつも通りだった。
大観衆にも、外国馬にも、何の反応もない。
紗季は、深呼吸を一つした。
(やることは、変わらない)
前に行く。自分の競馬をする。
この馬を、信じる。
ゲートに、収まった。
★
ガシャン。
スタート、完璧だった。
じじいは、一歩目で先頭に立った。
紗季が、手綱を緩める。
大逃げだ。
東京芝2400。ダービーと同じ舞台。
じじいは、自分のリズムを刻み始めた。
★
【じじい】
一コーナーを回る。
後続の気配が、いつもより近かった。
(ほう……ついてくるか)
海の向こうの連中が、食らいついてきている。
蹄音に、張りがあった。呼吸に、力があった。
今朝までの満身創痍が、嘘のようだった。
(うむ。全快しておるな。わしの腕は確かじゃ)
じじいは、満足げに頷いた。
それから、二秒ほど考えた。
(……む?)
全快した連中が、追いかけてくる。
自分が、追いかけられている。
(………………)
じじいは、走りながら、静かに理解した。
(これは、あれじゃな。自業自得というやつじゃな)
向こう正面。
差が、詰まってくる。
凱旋門二着の栗毛が、二番手に上がってきた。腸の調子を取り戻した体は、見違えるような伸びやかさで芝を蹴っていた。
(元気になって何よりじゃが……元気になりすぎではないか?)
じじいは、少しだけペースを上げた。
栗毛も、上げてきた。
三コーナー。
英国の鹿毛と、米国の黒鹿毛も上がってくる。
時差の抜けた鹿毛は、目が冴え冴えとしていた。蹄の潤いを取り戻した黒鹿毛は、一完歩ごとに力強くターフを掴んでいた。
世界の一線級が、本来の姿で、三冠馬を狩りに来ていた。
じじいが、そう仕立てたのだ。
(……む。効きすぎたかの)
じじいは、素直に認めた。
★
【駿河紗季】
四コーナーを回った。
後ろが、近い。
こんなに近い直線は、ダービー以来だった。
外国馬が三頭、扇形に広がって追い上げてくる。どの馬も、脚色が衰えていない。
(強い——)
紗季は、認めた。
これが、本来の世界のトップの姿だ。
でも。
紗季は、前だけを見た。
この馬は、前に行った時に一番強い。
一年かけて、それだけは知っている。
「行くよ!」
紗季は、手綱を緩めた。
★
【じじい】
(さて、仕事じゃ)
じじいは、栓を抜いた。
貯めていた魔力を、全身に流し込む。
だが、今日は一味違った。
なにしろ、朝からミストで大盤振る舞いをした後である。
(残りは……ふむ、七割か)
全盛期のじじいなら、青ざめる残量管理である。
今のじじいには、それでも余るほどだった。
脚が、軽くなる。
呼吸が、リセットされる。
じじいは、加速した。
後ろの三頭も、食らいついてくる。
残り四百。
差、二馬身。
残り三百。
差、二馬身。
縮まらない。
残り二百。
差、二馬身半。
開き始めた。
全快した世界の一線級が、全力で追って、届かない。
スタンドが、揺れていた。
実況が、絶叫していた。
「ワスレナグサ、突き放す! 世界の強豪を、突き放すーー!!」
残り百。
じじいは、涼しい顔で走っていた。
ゴール板。
二馬身半差。
先頭で、駆け抜けた。
★
場内が、爆発した。
「ワスレナグサ、ジャパンカップ制覇! 三冠馬が、世界を退けました!!」
じじいは、ゆっくりと速度を落とした。
後ろから、外国馬たちが上がってくる。
凱旋門二着の栗毛が、じじいの横に並んだ。
肩で息をしながら、じじいをじっと見た。
敵意では、なかった。
不思議そうな、探るような目だった。
朝、パドックで体が軽くなった。あの温かい何かの出所を、この栗毛は薄々わかっているようだった。
「……ブルル」
栗毛が、小さく鼻を鳴らした。
じじいは、知らんぷりで前を向いた。
(言葉は通じずとも、察しの良いやつはおるのう)
★
検量室の前。
古谷と稲葉が、待っていた。
「完勝だ」
古谷が、短く言った。
「外国勢、あんなに動けるなんて聞いてませんでしたよ」
稲葉が、額の汗を拭った。
「前評判じゃ状態六割って話だったのに。蓋を開けたら全頭本気の仕上がりで……よく勝ちましたね」
「ああ。……不思議なこともあるもんだ」
古谷が、じじいをちらりと見た。
じじいは、あくびをした。
紗季が、鞍を抱えて検量へ向かった。
その顔は、汗と充実で光っていた。
落馬から六週間。復帰戦が、世界相手の完勝だった。
★
口取り式が終わった後だった。
「ワスレナグサ!」
優芽が、駆けてきた。
後ろから父が「走らない!」と追いかけてくる。いつもの光景だった。
優芽は、じじいの前で止まると、背中に隠していたものを、じゃん、と突き出した。
リンゴだった。
丸ごと、一個。
「約束のリンゴ! 勝ったら持ってくるって言ったでしょ」
じじいの目が、輝いた。
(おお……!)
リンゴは、馬の極上スイーツである。
じじいは、迷わず口を伸ばした。
「あ、こら。丸ごとはダメだ」
横から、佐々木の手が伸びてきた。
リンゴが、じじいの鼻先で回収された。
(なっ)
「喉に詰まらせたらどうする。切ってやるから待ってろ」
佐々木は、腰のナイフでリンゴを手際よく切り分け始めた。
じじいは、その手元を、じっと見つめた。
一切れ。二切れ。三切れ。
じじいの首が、ナイフの動きに合わせて、上下に揺れた。
「見すぎだ」
佐々木が、苦笑した。
優芽と、後ろに控えていた凛とひよりが、笑い転げた。
「ジャパンカップ勝った馬とは思えない」
「リンゴに首振ってる」
「世界一なのに」
切り分けられたリンゴが、優芽の小さな手のひらに乗せられた。
「はい、ワスレナグサ。約束のリンゴ」
じじいは、優芽の手から、一切れずつ、ハミハミと食べた。
サクサク。ジューシー。
甘い果汁が、口いっぱいに広がった。
(うむ……! うむ! これじゃ、これ!)
世界を退けた報酬としては、リンゴ一個。
じじいには、それで十分すぎた。
「おいしい?」
優芽が、聞いた。
じじいは、返事の代わりに、優芽の手のひらの最後の一切れを、大事そうに食べた。
それから、優芽の頬に、そっと鼻先を寄せた。
果汁で、少しべたついた鼻先だった。
「ちょっ、べたべた!」
優芽が、笑いながらのけぞった。
冬の東京競馬場に、子供たちの笑い声が響いた。
★
その夜、厩舎に戻る馬運車の中で。
紗季は、助手席から後ろの馬房スペースを振り返った。
じじいは、揺れに身を任せて、もう半分眠っていた。
世界の一線級と走った日の夜とは、とても思えなかった。
紗季は、前に向き直った。
窓の外を、高速道路の灯りが流れていく。
「次は、有馬ですね」
運転席の佐々木に、言った。
「ああ」
「カイザーが、待ってます」
佐々木は、少しだけ間を置いた。
「……あの馬も、待ってるさ」
後ろで、じじいの寝息が、大きくなった。
冬の高速道路を、馬運車は静かに走っていった。




