第44話 ジャパンカップへ
【駿河紗季】
美浦の朝は、もう冬の匂いがした。
紗季は、装鞍を終えたじじいの前に立った。
菊花賞の落馬から、六週間。
肩は、とっくに治っていた。医者が「経過が良すぎる」と首を傾げるくらい、綺麗に治っていた。
リハビリの間、ずっとこの背中のことを考えていた。
「……久しぶり」
紗季は、じじいの首筋に手を当てた。
じじいは、ちらりと紗季を見た。
それから、いつも通りの顔で前を向いた。
感動の再会、という空気は一ミリもなかった。
紗季は、少し笑った。
この馬は、こうでなくちゃいけない。
鐙に足をかけ、背中に跨る。
その瞬間、わかった。
(……ああ)
背中が、覚えていてくれた。
重心の置き場所。手綱の張り。呼吸の間合い。六週間のブランクが、乗った一秒で消えた。
いや、違う。
自分が覚えていたんじゃない。
この馬が、合わせてくれている。
「行くよ」
坂路のスタート地点で、紗季は手綱をわずかに緩めた。
じじいが、駆け出した。
朝靄が、引き裂かれる。
ウッドチップが、規則正しく蹴り上げられていく。
風が、頬を切る。
紗季は、じじいの背中で息を整えながら、思った。
ここだ。
自分の居場所は、ここだ。
坂を登り切った。
古谷が、ストップウォッチを見て頷いた。
「文句なしだ」
稲葉が、手帳に数字を書き込んだ。
「馬も、騎手も」
紗季は、じじいの首を叩いた。
じじいは、あくびをした。
★
追い切りの後、事務スペースで最終確認があった。
「ジャパンカップ。今回は、相手が違う」
古谷が、出走予定表を広げた。
紗季は、そのリストに目を走らせた。
横文字の馬名が、並んでいた。
凱旋門賞の二着馬。英インターナショナルステークスの勝ち馬。ブリーダーズカップの三着馬。
「世界が、来る」
古谷が、静かに言った。
「三冠馬の力が本物かどうか、確かめに来るんだ」
稲葉が、資料をめくった。
「幸い、カイザーは有馬直行です。国内の強敵はいない。ただ……」
「外国馬は、データがない」
紗季が、引き取った。
「走法も、仕掛けどころも、映像でしか知らない相手です」
「ああ」
古谷は、腕を組んだ。
「だが、やることは変わらん」
紗季は、頷いた。
「前に行って、自分の競馬をする」
この一年で、それだけは骨身に染みていた。
この馬は、前に行った時に一番強い。
ホープフルで詰んで、弥生で外に出て、皐月で大逃げして、ダービーで押し切って。
全部の答えが、そこにあった。
「馬を信じて乗れ」
古谷が、いつもの言葉で締めた。
「はい」
紗季は、いつもの返事をした。
★
【じじい】
じじいは、馬房で藁を食んでいた。
人間たちが、ジャパンカップ、ジャパンカップと騒いでいる。
外国の馬が来るらしい。
(ほう。海の向こうの馬か)
じじいは、少しだけ興味を持った。
前世にも、海の向こうから来る連中はいた。
言葉は通じなくても、怪我と病気は万国共通だった。
診れば、わかる。
(まあ、来てから考えるかの)
じじいは、考えるのをやめた。
いつも通りである。
★
その週末、厩舎に小さな客が来た。
優芽と、友達が二人。
凛と、ひよりだ。
馬主の父が見学を申請し、古谷が快諾した。日曜の調教後、人の少ない時間を選んで、稲葉が案内役についた。
「厩舎の中では、走らない。大きな声も出さない。いいね」
稲葉の注意に、三人が神妙に頷いた。
頷いた三秒後に、優芽が駆け出した。
「ワスレナグサーっ!」
「こら!」
じじいの馬房の前で、優芽が急ブレーキをかけた。
じじいは、格子越しにのそりと首を伸ばした。
(お嬢ちゃんか。元気そうで何よりじゃ)
その隣に、凛が並んだ。
「久しぶり! 夏より大きくなった?」
凛は、もう慣れたものだった。夏の牧場で触った経験が、彼女を古参にしていた。
「ひよりちゃん、来て来て。大丈夫だよ」
凛が、後ろを振り返った。
通路の三歩後ろに、ひよりが立っていた。
初めて間近で見る競走馬に、完全に固まっていた。
「……大きい」
小さな声で、言った。
「でしょう」
優芽が、誇らしげに胸を張った。
「テレビで見るのと全然違う」
ひよりは、動かなかった。
目だけが、格子の向こうのじじいをゆっくりと往復していた。
怖がっている、というのとは少し違った。
測っている、という感じだった。
じじいは、ひよりを見た。
(ふむ。この子は、初めましてじゃな)
ついでに、いつもの癖で、診た。
心臓、良し。呼吸、良し。骨、良し。血の巡り、良し。
(……なんじゃ。どこも悪くないのう)
完璧に健康な子供だった。
治すところが、一つもなかった。
(治すところがないと、少し寂しいのう)
じじいは、我ながらどうかと思った。
ヒーラーの職業病である。
じじいは、せめてもの挨拶に、格子からひよりの方へゆっくりと首を伸ばした。
ひよりが、びくりとした。
でも、逃げなかった。
じじいの鼻先が、ひよりの目の前で止まった。
ふう、と温かい息を吹きかける。
魔力は、乗せなかった。
必要のない子に、魔法は使わない。
ただの、挨拶の息だ。
ひよりの前髪が、ふわりと揺れた。
「……あったかい」
ひよりが、言った。
それから、おそるおそる手を伸ばして、じじいの鼻筋に触れた。
「……やわらかい」
「でしょう!」
凛が、自分のことのように言った。
「わたしも最初そう言った!」
三人が、格子の前で笑った。
通路の後ろで、稲葉が「声、声」と小さく注意して、自分も笑っていた。
じじいは、目を細めた。
(子供が三人。……賑やかで、良いのう)
★
帰り際、優芽がじじいの鼻筋を撫でながら言った。
「ジャパンカップも、見に行くからね」
じじいは、耳をぴくりと動かした。
「今度は世界の馬が相手なんだって。パパが言ってた」
優芽は、じじいの目をまっすぐに見た。
「でも、勝つよね」
疑いの色は、一つもなかった。
「だって、ワスレナグサだもん」
じじいは、ふん、と鼻を鳴らした。
(期待が重いのう)
だが、悪い気はしなかった。
三人が、稲葉に連れられて帰っていった。
ひよりが、最後にもう一度だけ振り返って、小さく頭を下げた。
礼儀正しい子だった。
★
【佐々木】
夕方、佐々木はいつものようにじじいの手入れをしていた。
ブラシを、首筋から背中へ。
いつもの順番で、いつもの力で。
じじいは、されるがままだった。
厩舎は、静かだった。
あの夜から、佐々木は何も聞いていない。
じじいも、何も答えていない。
当たり前だ。馬は、喋らない。
でも、あれから佐々木は、時々考える。
母の透析の日。病院の待合室。痩せた手。
もしも。
もしも、なんて、考えるだけ無駄だとわかっている。
馬に、そんな力があるわけがない。
あるわけが、ない。
……そのはずなのに、この馬の周りでは、あり得ないことばかり起きる。
佐々木は、ブラシの手を止めた。
じじいが、ゆっくりとこちらを向いた。
大きな目が、佐々木を見ている。
何もかも知っているような、何も知らないような、いつもの目だ。
「……なんでもねえよ」
佐々木は、ブラシを再開した。
じじいは、前に向き直った。
外は、もう暗くなり始めていた。
ジャパンカップまで、あと一週間。
冬が、すぐそこまで来ていた。




