第43話 レベル9と不審者
ジャパンカップまで、あと三週間。
じじいは、美浦の馬房でのんびりと藁を食んでいた。
このところ、体の調子がおかしい。
悪い方ではない。良すぎる方だ。
(……また、増えとるのう)
魔力である。
感覚でわかる。今の魔力は、300を超えている。
生まれた夜、ハイヒール一発で三日眠った体だ。あの頃の魔力は、9しかなかった。
それが今や、ハイヒールを気軽に連発できる。前世の尺度で言えば、中堅の聖者と呼ばれる域だ。
馬の体で、である。
(ふぉっふぉっふぉ……大したもんじゃ)
じじいは、昔はすごかった自慢を内心でして、ご満悦だった。
だが、問題が一つあった。
余るのだ。
毎晩ミストを撒いても、厩舎中にリジェネを配っても、朝には満タンに戻っている。
じじいは、根っからのヒーラーである。
ヒーラーにとって、魔力を余らせることは完全に損である。使ってこそ、癒してこそ、魔力は意味を持つ。
前世では、魔力ケチと呼ばれていた。
もちろん心外である。あれは計画的運用と呼ぶべきものだ。戦場で最後の一人まで癒すには、配分がいる。じじいはケチだったのではない。几帳面だったのだ。
(……まあ、それはよい)
とにかく、今は余っている。
几帳面な男が、余らせている。
落ち着かないのである。
★
その日の午後、引き運動の途中だった。
佐々木に引かれて、厩舎エリアの外周を歩いていた。
柵の向こうの見学者用の通路を、中年の男が歩いていた。
トレセンの見学ツアーの客らしい。首からカメラを提げている。
じじいは、すれ違いざまに、ふと男を視た。
(……ほう。こやつ、だいぶ悪いのう)
血の巡りが、濁っている。腎の働きが落ち、全身に毒が薄く回り始めている。足の先の血管が、いくつも詰まりかけていた。
放っておけば、数年で足を失うか、もっと悪いことになる類のやつだ。
(しょーがないのう。余っておるしな)
じじいは、柵越しに男の方へ、ふうと長く息を吐いた。
(――『ハイ・ヒール』)
惜しみなく、どっと流す。
濁った血が、洗われていく。詰まりかけた血管が、開いていく。弱った腎の細胞が、片っ端から作り直されていく。
十秒。
それで、終わった。
男は、何も気づかず歩いていく。ただ、途中で立ち止まって、不思議そうに自分の手足を眺めた。
「……あれ。なんか、体軽いな」
それだけ言って、また歩いていった。
じじいは、知らんぷりで前を向いた。
(うむ。良い仕事をした)
歩きながら、ふと引っかかった。
(……はて。そういえば、誰ぞも「糖尿」がどうとか、言っておったような……)
誰だったか。
いつだったか。
夜の厩舎で、誰かが、何かを聞いてきたような。
じじいは、三秒考えて、やめた。
(まあ、思い出したら診てやるかの)
手綱の先で、佐々木が静かに歩いていた。
じじいは、気づかなかった。
★
同じ日の午後。
都内の、とある私立小学校の前に、一人の男が立っていた。
陣内翔である。
騎乗の合間を縫って、電車を乗り継いで、ここまで来た。
目的は、謝罪だ。
――自分で言え。
古谷調教師の言葉が、あれからずっと頭に残っていた。
いつか機会があったら、ではだめだ。機会は、作るものだ。陣内は、そう考えた。考えたというより、いつものように、考える前に体が動いた。
馬主のお嬢さんの学校は、少し調べればわかった。競馬雑誌のインタビュー記事に、それらしい情報が載っていた。
あとは、下校の時間に校門の前で待って、頭を下げる。
それだけだ。
シンプルな計画だった。
陣内は、シンプルな計画のどこに穴があるか、考えなかった。
考えてもわからない。ただ行く。それが陣内である。
★
校門の前に、男が立っている。
三十前の、目つきの鋭い男である。体は小さいが、異様に引き締まっている。落ち着きなく、校門と校舎を交互に見ている。時々、スマホで時間を確認する。かれこれ、四十分。
どこからどう見ても、不審者であった。
最初に気づいたのは、下校の見守りをしていた保護者だった。
次に気づいたのは、通用門の警備員だった。
三番目に気づいたのは、職員室の教頭だった。
「……あの方、ずっといらっしゃいますね」
「四十分ほど前からです」
「お知り合いの保護者では」
「いえ、見たことのない顔です」
教頭は、受話器を取った。
★
陣内は、校舎の方から子供たちが出てくるのを見つけた。
下校の時間だ。
(よし、来た)
あの子の顔は、口取り式で見て覚えている。小さくて、よく笑う子だ。
陣内は、校門に一歩近づいた。
その瞬間だった。
「すみません、ちょっとよろしいですか」
背後から、声がかかった。
振り返ると、制服の警官が二人、立っていた。
「え」
「この辺で、何をされてますか」
「あ、いや、俺は」
「学校に、何かご用ですか」
「人を、待ってて」
「どなたを?」
「……小学生の、女の子を」
言った瞬間、警官二人の目つきが変わった。
(あ)
陣内は、自分の発言を三秒遅れで理解した。
(やってしまった)
「お名前を伺えますか。身分証はお持ちですか」
「いや、あの、違うんです。俺は騎手で」
「きしゅ?」
「競馬の、騎手で、あの子はうちの……いや、うちのじゃなくて、俺が乗ってた馬の馬主さんで」
言えば言うほど、警官の眉間の皺が深くなっていった。
競馬。馬主。小学生の女の子。
単語の並びが、最悪だった。
「署までご同行願えますか」
「ちょっと待ってください、ほんとに違うんで」
警官の一人が、無線に手をかけた。
陣内の頭の中で、明日のスポーツ紙の見出しが浮かんだ。
『菊花賞ジョッキー、小学校前で御用』
騎手生命が、終わる。
陣内の体は、頭より先に動いた。
★
騎手という人種を、世間は小柄で軽い人々だと思っている。
半分正解で、半分間違いである。
騎手は、時速60キロで走る500キロの動物を、腕と脚だけで御する人種だ。体重は軽い。だが、体幹と脚力は人並外れている。減量で絞り抜かれた体は、瞬発力の塊である。
陣内は、走った。
住宅街の角を、一つ。二つ。ブロック塀を手をついて跳び越え、公園を斜めに突っ切り、駅とは逆の方向へ。
警官二人は、三つ目の角で見失った。
「……速っ」
若い方の警官が、思わず言った。
★
三十分後。
陣内は、二駅離れた駅のホームのベンチで、肩で息をしていた。
汗が、止まらなかった。
減量中の身で、全力疾走をした。膝が、笑っていた。
(……やってしまった)
陣内は、両手で顔を覆った。
謝りに行って、逃走した。
順番も、手段も、何もかも間違えた。
アポなしで小学校に行ってはいけない。
学習した。
陣内は、学習する男である。同じ失敗は、二度しない。違う失敗をするだけだ。
ホームに、電車が入ってきた。
陣内は、重い体を起こして乗り込んだ。
窓の外を、夕方の街が流れていく。
謝れなかった。
方法を考えなければならない。このままでは、ユメノワスレナグサの騎乗が奪われたままだ。陣内は、焦り出した。




