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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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第42話 乗り替わり


 古谷調教師から呼び出しを受けたのは、天皇賞の翌週だった。


 陣内は、調教師会館の廊下を歩きながら、いい話だと思っていた。ジャパンカップの騎乗依頼。それしかない。菊花賞を世界レコードで勝った。誰が考えても、続投だ。


 ドアをノックした。


「入れ」


 古谷は、ソファに座っていた。向かいの席を、手で示した。


 陣内は、座った。


「単刀直入に言う」


 古谷が、口を開いた。


「ジャパンカップは、駿河で行く」


 陣内は、一瞬、言葉の意味がわからなかった。


「……え?」


「乗り替わりだ。すまんな」


 陣内は、ソファから身を乗り出した。


「ちょっと待ってくださいよ。俺、勝ちましたよね。世界レコードですよ。三冠ですよ」


「ああ」


「なんでですか」


「馬主の意向だ」


 陣内は、口を開けたまま止まった。


 馬主。


「馬主って……」


「オーナーのお嬢さんだ。あの馬の、本当の馬主だよ」


 陣内の頭に、口取り式の光景が浮かんだ。じじいに抱きついて、きゃあきゃあ騒いでいた小さな女の子。写真撮影の間、ずっとじじいの隣にいた。


 あの子だ。


「……なんで、ですか」


 声が、少しかすれた。


 古谷は、すぐには答えなかった。コーヒーを一口飲んで、カップを置いた。


「お前が一番タイムを出しているのは、わかっている」


「だったら」


「わかっている上での話だ」


 古谷は、陣内を見た。


「鞭だ」


「……鞭?」


「直線で、ずいぶん入れたな」


 陣内は、思い出した。菊花賞の直線。夢中だった。風車鞭を、何度も入れた。あの時は、それが当然だと思っていた。G1の直線で、鞭を入れない騎手がいるか。


「入れましたよ。勝つためです」


「後続は、いなかった」


 陣内は、言葉に詰まった。


「24馬身差だ。最後の直線、あの馬の後ろには誰もいなかった。それでもお前は、ゴールを過ぎるまで鞭を振り続けた」


「それは……」


 癖だ。夢中だった。初めてのG1で、体が勝手に動いていた。言い訳が、いくつも頭に浮かんだ。どれも、口から出なかった。


「お嬢さんはな、スタンドで見てたんだ」


 古谷が、静かに言った。


「自分の馬が叩かれ続けるのを、ずっと見てた」


 陣内は、何も言えなかった。


「馬名の由来を、知ってるか」


 古谷が、話を変えた。


 陣内は、首を振った。


「ワスレナグサ。花の名前だ。花言葉がある」


 古谷は、窓の外に目をやった。


「『私を忘れないで』、だ」


 陣内は、黙って聞いていた。


「あの子が、自分で名付けたそうだ。病気で、長く生きられないと言われていた頃にな。自分がいなくなっても、あの馬が忘れないでいてくれるように」


 陣内は、その話を初めて聞いた。


 あの馬に、そんな名前がついていたことを、考えたこともなかった。ワスレナグサ。ただの馬名だと思っていた。強い馬の、記号だと思っていた。


「あの子にとって、あの馬は自分の一部なんだ」


 古谷が、陣内に視線を戻した。


「それを、お前は叩き続けた。あの子の目の前で」


 陣内の頭の中で、菊花賞の直線が蘇った。


 風車鞭を振り続けた自分の手が、蘇った。


 ゴール板を過ぎてからも振っていたかもしれない。興奮していて、よく覚えていない。覚えていないことが、今は一番怖かった。


「……そう、ですか」


 陣内は、それだけ言った。


 古谷は、しばらく黙っていた。


 それから、少しだけ声を落とした。


「お前の騎乗は、悪くなかった。度胸もある。あの馬を信じて、迷わず行った。それは誰にでもできることじゃない」


「……」


「だが、信じることと、雑に扱うことは違う」


 陣内は、膝の上の自分の手を見た。


 鞭を握る手だ。デビューからずっと、この手で馬を追ってきた。強く追えば、馬は応える。そう教わってきたし、そう信じてきた。


 でも、あの馬は。


 あの馬は、鞭がなくても走っていた。


 いや、鞭なんて、最初から関係なかったのかもしれない。新馬戦も、菊花賞も、あの馬は自分で走っていた。自分は、ただ乗っていただけだ。


 わかっていたはずだった。俺が乗れば、なんて言いながら、本当は誰よりわかっていたはずだった。


「以上だ」


 古谷が、立ち上がった。


 陣内も、立ち上がった。ドアに向かいかけて、足が止まった。


「先生」


「なんだ」


「……お嬢さんに」


 陣内は、振り返らずに言った。


「すみませんでしたと、お伝えください」


 声が、かすれていた。


 古谷は、少しの間、黙っていた。


「……自分で言え」


 陣内は、目を見開いた。


「いつか、その機会があったらな」


 古谷の声は、さっきより少しだけ柔らかかった。


 陣内は、頭を下げて部屋を出た。


       ★


 廊下を歩きながら、陣内は自分の手を見ていた。


 ジャパンカップの騎乗は、消えた。


 悔しさは、あった。あるに決まっている。世界レコードを出した馬から降ろされた。騎手として、これ以上の屈辱はない。


 でも、それだけじゃなかった。


 胸の中に、別のものがあった。


 あの子は、ずっと見ていたのだ。


 自分が夢中で鞭を振っている間、スタンドから、ずっと。


 私を忘れないで。


 そんな名前の馬を、自分は。


 陣内は、廊下の途中で立ち止まった。


 窓の外に、調教を終えた馬たちが歩いているのが見えた。どの馬も、湯気を立てながら、厩務員に引かれて歩いていた。


 陣内は、しばらくそれを見ていた。


 また乗りたい、とまだ思っていた。


 それは変わらなかった。あの馬の背中は、特別だった。あの感触を知ってしまった以上、忘れることなんてできない。


 でも、その前にやることがある気がした。


 それが何なのかは、まだはっきりとはわからなかった。


 ただ、このままじゃだめだということだけは、わかった。


 陣内は、歩き出した。


 ポケットの中で、スマホが鳴った。別の厩舎からの騎乗依頼だった。


 陣内は、少しだけ迷ってから、電話に出た。


「はい、陣内です」


 声は、いつも通りだった。


 仕事は続く。騎手は、乗ってなんぼだ。


 でも、電話を切った後、陣内はもう一度だけ、窓の外の馬たちを見た。


 私を忘れないで、か。


 陣内は、小さく息を吐いて、歩き出した。


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