第50話 ヒーリングホース
時は過ぎ。
佐々木は、いつも通りじじいの手入れをしていた。
ブラシを動かしながら、ずっと考えていたことを、ようやく口にした。
「お前が治したんだよな。母親を」
じじいは、干し草を食んでいた。
「セントライトの時の鹿毛の馬も。厩舎の馬たちも。全部お前だったんだよな」
じじいの耳が、ぴくりと動いた。
「知ってるよ」
佐々木は、ブラシを止めた。
「ずっと知ってた。ただ、言えなかっただけだ」
じじいは、干し草を食むのをやめた。佐々木を、じっと見た。
佐々木は、じじいの鼻先に手を当てた。
「ありがとな」
じじいは動かなかった。ただ、佐々木の手に鼻先を押し当てたまま、静かにしていた。
◇
馬房を出ると、廊下に古谷がいた。
腕を組んで、壁にもたれていた。待っていたのかもしれなかった。
「佐々木」
「……なんですか」
「ようやく気づいたか」
古谷は、それだけ言った。
佐々木は、少し止まった。
「先生は、いつから」
「優芽ちゃんが元気になったころだ」
古谷は、腕を組んだまま前を向いていた。
「ホープフルの後、年末頃には確信してた」
「……」
「稲葉とオーナー家族は、俺より先に気づいていた」
佐々木は、何も言えなかった。
「お前が一番長くあの馬と一緒にいたのにな」
古谷は、そう言って歩き出したが、すぐに歩みを止めた。
「そうそう、紗季には言うなよ。あいつは、まだ気づいてないからな」
古谷は去った。その際、小さく笑われた気がした。
佐々木は、廊下に一人残された。
ワスレナグサの馬房の方を見た。
馬房の中で、ワスレナグサが藁の上に座って、目を細めていた。
こちらを見ていた。
どこか、びっくりしてるようだった。
「……なんだその顔」
佐々木は、それだけ言った。
◇
引退したじじいは牧場にいた。
放牧地の隅が、またじじいの定位置になった。流れる雲を、のんびり眺める。草を食む。昼寝をする。
(うむ。これじゃ、これが隠居というものじゃ)
じじいは、牧場に来てから大満足していた。
しかし。
一週間後、見知った人間と見知らぬ人間がやってきた。
古谷と優芽とその父親と知らない人だった。
「ワスレナグサ!」
優芽が、じじいの鼻先に飛びついてきた。
「ここに病院作るんだよ!病気で困ってる子を治してあげるんだー」
じじいは、耳を疑った。
古谷が、腕を組んで言った。
「競馬を走らせるより、お前には向いてる仕事があると判断した」
優芽の父親が、にこにこしながら続けた。
「設備は全部こちらで用意します。先生方にもご協力いただきます。よろしくお願いしますね」
知らない人が、メモを取りながら頷いていた。
(待て待て待て、理想の隠居生活が)
じじいは、放牧地の端の方へ、そろそろと歩き出した。
「ワスレナグサ、逃げないで」
優芽が、追いかけてきた。
(逃げておるのじゃ!)
柵の前で、捕まった。
◇
牧場病院は、あっという間にできた。
最初の患者は、隣の牧場の馬だった。慢性的な脚の故障を抱えた馬で、もう走れないと言われていた。
じじいは、治した。
次の日、また患者が来た。
優芽の父親が政治家を連れてきて、古谷が馬を、稲葉が猫を、優芽が男の子を、佐々木は妹を連れてきた。
治した。
次の日も、来た。
大企業の社長。馬。犬。女の子。佐々木の父。
治した。
じじいは5人にシェアされているのだ。
「うーん、枠使いきれないなぁ」
「余ってるならうちで買い取らせてください」
などとじじい治療権は売買の対象にもなっている。
もちろんじじいの知らない所で、ではあるが。
そして、口コミが広がるのは早かった。
「あの牧場の馬に触れさせると治る」
という噂が一部で広まった。
予約が、埋まった。
(隠居とは何だったのじゃ)
じじいは、放牧地の隅で遠い目をした。
空が、広かった。雲が、流れていた。
佐々木が、腕を組んでじじいの隣に立っていた。
「お世話になってる親戚の子なんだ……見て貰っていい?」
じじいは、佐々木を見てため息をついた。
「うおーすげー三冠馬、触っていいの触っていいの?」
親戚の子はアキレス腱に問題があるようだ。
──ヒール。治した。
ため息を落とす。それでも来る者を拒まなかった。
前世も、今世も、どうやらじじいは隠居には向いていないようだ。
(なんだか、前世に似て、だんだん忙しくなっておるのう……まあ、戦場に出ぬだけましかのう)
優芽が、遠くから手を振っていた。
「ワスレナグサーーー!!」
じじいは、首をそちらに向けた。
優芽は、リンゴを持った手をブンブン振っている。ついでに、紗季とキジトラの猫を同伴させてるようだ。
じじいは、上を見る。
茨城の空が、今日も広かった。
――おわり




