第39話 菊花賞反応2
【鷹】
4着でゴール板を過ぎた。
鷹は、馬の首筋を軽く叩いた。よく走ってくれた。文句のない騎乗だった。ペースも、仕掛けどころも、すべて計算通りだった。
ただ、前にいた馬が、おかしかった。
ユメノワスレナグサ。
スタートから先頭に立って、ペースを緩めなかった。向こう正面でも、三コーナーでも、ずっと同じリズムで刻み続けた。普通の馬なら、あのペースで逃げれば四コーナーで止まる。脚が上がる。後続が飲み込む。
止まらなかった。
四コーナーを回って、直線に入った瞬間、鷹は悟った。
届かない。
そういう問題ではなかった。あの馬は、直線に入ってから、さらに加速していた。疲れていなかった。3000メートルを逃げ切って、まだ加速する馬が、どこにいる。
鷹は、ゴールまでの直線、ずっとその背中を見ていた。
芦毛の馬が、遠ざかっていく。
風景のように、遠ざかっていく。
検量室に向かいながら、鷹は一度だけ後ろを振り返った。掲示板にタイムが出ていた。
2分58秒。
鷹は、少しだけ目を細めた。
隣を歩いていた若手騎手が、「鷹さん、世界レコードですよ」と声をかけてきた。
「ああ」
「信じられないですよね」
「いや」
鷹は、前を向いたまま言った。
「信じられる」
若手騎手が、きょとんとした顔をした。
鷹は、それ以上何も言わなかった。
あの馬に、芙蓉ステークスで乗った。京都2歳ステークスでも乗った。勝った。でも、何かが引っかかっていた。うまく言えなかった。自分の指示通りに動く。でも、こちらの指示など必要としていない気がした。
レースが終わるたびに、その感触が強くなった。
今日、わかった気がした。
あの馬は、騎手を必要としていない。ただ、邪魔をしない人間を選んでいる。
鷹は、検量室の扉を開けた。
それだけのことだ、と思った。
それだけのことが、世界レコードになる馬だった。
★
【駿河紗季】
右腕を吊ったまま、見つめていた。
ワスレナグサが先頭に立った瞬間から、紗季は息を詰めていた。
大逃げだ。
あの馬らしくない、と思った。いや、らしいのかもしれない。
紗季には、まだあの馬のことが全部わかっているとは言えなかった。
直線に入った。
陣内騎手が、風車鞭を振っていた。
紗季は、少しだけ笑った。あの馬に、あんなに鞭を入れるのか。でも、加速していた。ゴール板を、圧倒的な大差で駆け抜けた。
タイムが出た。
紗季は、画面を見たまま動かなかった。
2分58秒。世界レコード。三冠。
目が、熱くなった。
「勝ったじゃない」
紗季は言った。
「ちゃんと、勝ったじゃない」
涙が、出た。
止まらなかった。
泣きながら、笑っていた。
悔しいのか嬉しいのか、自分でもわからなかった。
多分、両方だった。
スマホが鳴った。古谷からだった。
『世界レコードでした。おめでとうございます、と言うのも変ですが』
紗季は、濡れた目のまま返信した。
『ありがとうございます。勝ってくれてよかった』
少し考えてから、もう一行打った。
『また乗りたいです』
送信してから、空を見た。
また乗りたい。本気でそう思っていた。
あの馬の背中が、まだ手のひらに残っていた。
皐月賞の直線。ダービーの同着。セントライトの粘り。
全部、鮮明に残っていた。
スマホが、また鳴った。
『明日、時間をもらえますか』
紗季は、少しだけ止まった。
それから、返信した。
『行きます』
★
翌日、古谷調教師の部屋を訪ねた。
小さなソファが二つ向かい合った、狭い部屋だ。古谷は、コーヒーを二つ用意して待っていた。
「座れ」
紗季は、右腕を吊ったまま腰を下ろした。
古谷は、すぐには話し始めなかった。コーヒーを一口飲んで、カップをテーブルに置いた。
「昨日のレース、見たか」
「見ました」
「どうだった」
「世界レコードでした」
古谷が、少しだけ笑った。
「そうだな」
また沈黙があった。
紗季は、待った。
「次の話をしなければならない」
古谷が、静かに言った。
「お前の肩の具合にもよるが、復帰までに時間がかかる。その間に、陣内への騎乗打診が来るかもしれない」
「はい」
「お前はどうしたい」
紗季は、少し考えた。考えるまでもなかった。
「まだ乗りたいです」
古谷は、紗季を見た。
「昨日、あれだけのレースを見て、か」
「見たからです」
紗季は、古谷の目を見て言った。
「あの馬の背中を知ってる騎手は、私と陣内騎手と鷹騎手だけです。もう一度乗りたい。それだけです」
古谷は、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「……馬主には、伝えておきます」
紗季は、深く息を吐いた。
「ありがとうございます」
「ただ」
古谷が、付け加えた。
「決めるのは馬主だ。それだけは、わかっておけ」
「はい」
紗季は、頷いた。
馬主。優芽ちゃんだ。
紗季は、その子の顔を思い浮かべた。口取り式で、じじいに抱きついてきゃあきゃあ騒いでいた子だ。美浦でも、みんなが知っている子だ。
どう思っているのか、紗季にはわからなかった。
ただ、また乗りたいという気持ちだけは、本物だった。
★
【優芽】
その頃——時間は、菊花賞の日の夜に戻る。
京都からの帰り、車の中は騒がしかった。
「三冠! 三冠だよパパ!!」
「そうだね、三冠だね」
「世界レコードだよ!? 世界レコードって何?」
「すごいってこと」
「どのくらいすごいの」
「世界一速いってこと」
「ワスレナグサが世界一!!」
優芽は、後部座席でぴょんぴょん跳ねた。シートベルトが、ぴんと張った。
「ちゃんと座って」
「はーい」
座ったが、足がぶらぶらしていた。
しばらく、高速道路の景色が流れていった。
「パパ」
「なに」
「ワスレナグサって強いよね」
「強いね」
「世界一だもんね」
「そうだね」
「ずっと勝ち続けるよね」
お父さんは、少しだけ間を置いた。
「どうだろうね」
「勝つよ」
優芽は、窓の外を見ながら言った。
「だってワスレナグサだもん」
お父さんは、何も言わなかった。バックミラー越しに、優芽を見た。
優芽は、窓に頬をつけて、流れていく夜の景色を見ていた。
「ねえパパ」
「なに」
「次も勝ったら、リンゴ持っていっていい?」
「いいよ」
「約束ね」
「約束」
優芽は、満足そうに目を閉じた。
しばらくして、寝息が聞こえてきた。
お父さんは、バックミラーをもう一度見た。
シートベルトをしたまま、優芽が小さく丸くなって眠っていた。
口元が、少しだけ笑っていた。
お父さんは、前を向いた。
夜の高速道路が、静かに続いていた。




