第38話 菊花賞反応1
【おんぼろ牧場】
テレビの前に、五人が集まっていた。
居間のこたつを囲んで、父、母、息子の三人。その後ろに、従業員が二人、立ったまま画面を見ている。
誰も、何も言わなかった。
実況の声だけが、居間に響いていた。
『ワスレナグサ、先頭! ワスレナグサ、まだ先頭! 後続を大きく離して、第三コーナーを回ります! 差は、広がっています! 広がっています!!』
「……行くな、あいつ」
息子が、低い声で言った。
画面の中で、芦毛の馬が一頭、ぽつんと先頭を走っていた。後続との差が、コーナーを回るたびに広がっていく。
『最後の直線! ワスレナグサ、独走!! 後続はもう、視界に入っていない!!』
「あの馬、うちが産んだんだよな」
息子が、また言った。
父は、何も言わなかった。
腕を組んで、画面を見ていた。
『ワスレナグサ、ゴーーーール!! 大差!! 圧倒的な、大差での入線です!!』
タイムが出た。
実況が、一瞬だけ止まった。
『2分58秒!! 世界レコード!! 世界レコードが出ました!! ワスレナグサ、三冠達成!! 世界レコードで、三冠です!!』
「うそ」
従業員の一人が、声を上げた。
「世界レコード?」
「世界レコードって言った?」
二人の従業員が、顔を見合わせた。
「世界レコード!! うちの牧場の馬が世界レコード!!」
「三冠!! 三冠だよ!!」
居間が、一気に騒がしくなった。
母が、エプロンで目を拭いていた。声を出さずに、ただ泣いていた。
息子は、画面を見たまま動かなかった。唇が、かすかに震えていた。
「親父」
息子が、父の方を向いた。
「うちの馬、世界一になったよ」
父は、しばらく黙っていた。
それから、小さく鼻をすすった。
「……1100万の馬がのう」
それだけ言って、またテレビを向いた。
目が、赤かった。
★
【インターネット・競馬実況スレ】
スレッドのレス数が、一分で三桁を超えていた。
>ワスレナグサ逃げてんだけど
>えっ大逃げ?
>ペース速くね?
>これ潰れるやつでしょ
>後続もう離れてるじゃん
>ちょっと待って差縮まってなくない?
>縮まってない縮まってない
>むしろ広がってる
>????
>直線入ったぞ
>鞭打ってる打ってる
>後続どこ?
>後続は????
>見えないんだが
>あ
>あ???
>タイム出た
>2分58秒台
>は?
>は???
>は??????
>世界レコードって実況言ったよな今
>言った
>言ったよな?
>うん言った
>ちょっと待って落ち着いて
>落ち着けない
>三冠で世界レコードって何?
>競馬終わった(褒め)
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別のスレッドでは、こんなやり取りが流れていた。
>ていうかワスレナグサって確かセール1100万じゃなかった?
>1100万で合ってる
>1100万の馬が世界レコード三冠馬になったの?
>なった
>競馬って夢あるな
>あるな
>つか今日乗り替わりだよね
>駿河騎手が落馬して陣内騎手に替わったんだよ
>乗り替わりで世界レコードとか陣内騎手何者
>新馬もレースレコードだったんだよこの馬
>えっそうなの
>新馬で一緒に乗ってたのに乗り替わりにされて
>そっからずっと外から見てたのか
>で今日世界レコードか
>陣内騎手ちょっと泣いていい
>いや本人めちゃくちゃ煽ってたけど
>見たか見やがったなって叫んでたよ
>草
>でもまあそれはそう
>それはそうだわ
★
さらに別のスレッドでは、別の話題が持ち上がっていた。
>ロードカイザー陣営、菊花回避して正解だったの?
>菊花賞出てたら24馬身差でぼこられてたってこと?
>鷹騎手が乗ってたの、30馬身差の4着だったよ
>30馬身
>30馬身って何?
>同じレース走ってたのに別の競技じゃん
>秋天に逃げたのは正解だったかもな
>いや逃げたというか普通にローテが違うだけでは
>でもワスレナグサと当たらなくて済んだのは結果的に正解では
>どっちにしろ年末で当たるんだが
>あ
>そうか
>また当たるのか
>ロードカイザー陣営、どうすんの
>知らんけど頑張れとしか言えない
>合掌
★
【再度おんぼろ牧場】
騒ぎが少し落ち着いた頃、息子はこたつから出てスマホを取った。
始めたばかりの牧場のSNSアカウントを開く。普段は繁殖牝馬の近況や仔馬の写真を上げるだけの、フォロワーが少ないアカウントだ。
スマホの画面を見て、息子は固まった。
通知が、止まらなかった。
「……親父、フォロワーが増えてる」
「何人じゃ」
「昨日まで800人だったのに」
「今は?」
息子は、画面をスクロールした。数字が、リアルタイムで上がっていく。
「……4万人超えた」
父が、眉を上げた。
「なんじゃそりゃ」
「世界レコード三冠馬を産んだ牧場、って拡散されてるみたいで」
母が、濡れたエプロンのまま覗き込んできた。
「あら、どうしましょう」
「どうしましょうって言われても」
また騒ぎ始めた。
「有名になっちゃったよ!」
「テレビ取材来るんじゃない!?」
息子は、スマホを持ったまま、もう一度テレビを見た。
画面の中では、まだユメノワスレナグサのVTRが流れていた。芦毛の馬が、大逃げで直線を駆け抜けている。
息子は、小さく笑った。
「あいつ、こんな馬になったのか」
生まれた日のことを、少しだけ思い出した。
三日ほど起きなかった仔馬だった。
「いきなり寝る癖は、治ったのかな」
誰にも聞こえない声で、息子は言った。




