第37話 菊花賞
ゲートが、開いた。
じじいは、真っ先に飛び出した。
ハナを取った。そのまま、加速した。
第一コーナーへ向かう直線、後続の気配が後ろへ流れていく。二番手の馬が食らいつこうとしているのが、蹄音でわかった。じじいは、ペースを緩めなかった。
第一コーナーを回る。
芝が、蹄の下で柔らかく沈む。良馬場の感触だ。晴れた京都の空が、視界の端に広い。緑の匂いが、走るたびに鼻を抜けていく。
後続との距離が、少しずつ広がっていった。
陣内騎手は、渾身の力で手綱を動かす。
スタンドから、どよめきが起きた。ラップが速いのだろう。
向こう正面に入った。
じじいは、魔力をそっと解放し始めた。
最初は、ごくわずかにだ。
点滴のように、一定の量を、絶やさず流す。
心臓の鼓動を安定させる。肺の動きを広げる。走りながら酸素を取り込む効率が、じんわりと上がっていく。癒しは外には漏れない。じじいの内側だけで、静かに巡っていた。
足の筋肉には、乳酸が溜まる先から波を送る。疲労が、流れるそばから消えていく。
溜めない。作らせない。
治療というより、掃除に近い。
向こう正面は長い。
じじいは、淡々と走り続けた。蹄が芝を蹴る音だけが、規則正しく続いていく。後続の蹄音は、もうだいぶ遠い。二番手の馬が懸命についてこようとしているのはわかった。それでも、差は縮まっていない。
スタンドがまたざわついた。
じじいは、前だけを見ていた。
坂を越えた。
京都の外回りは、三コーナーへ向かう手前に緩やかな下りがある。じじいは、その傾斜に乗って自然に加速した。重力が背中を押す。蹄が、地面をより深く、より強く蹴り出していく。
ここで、蛇口を開いた。
点滴から、水路へ。
まだたっぷりと残っている魔力を、坂の勢いに合わせて、太く流し込む。心肺に、癒しが川のように巡る。足の筋肉が、解放されたように軽くなる。走り始めた直後より、今の方が体が軽かった。普通の馬なら、3000メートルの中盤でこうはならない。
三コーナーを回る。
後ろの気配が、かすかになっていた。
二番手の馬が食らいついてきているのはわかる。
それでも、差は縮まっていない。
コーナーを回るたびに、静かに広がり続けていた。
実況の声が、遠くから届いてくる。何を言っているのか細かくは聞き取れない。ただ、興奮しているのだけはわかった。
四コーナーを回った。
もう、後ろは気にしなかった。
遠すぎた。
最後の直線が、目の前に伸びている。京都の直線は長い。ゴール板まで、まだ距離がある。芝が青く光っていた。スタンドが満員で、人の波が揺れているのが見えた。
じじいは、栓を抜いた。
点滴でも、水路でもない。
貯めていた分を、全部だ。
どっ、と癒しが全身を駆け巡る。心臓が、力強く打つ。足が、地面を蹴るたびに爆発するように前へ出る。直線に入ってから、さらに加速していた。
その瞬間。
パシッ。
背中に、鞭が入った。
パシッ、パシッ、パシッ。
続けて入ってくる。風車のように回っている。止まらない。トントン、トントンと騎乗しながら、風車鞭がぐるぐると回り続けていた。
(……後続はもう、おらんのじゃが)
じじいは、それだけ思った。
それでも走った。
風が、顔を切る。芝が、流れていく。スタンドの歓声が、波になって押し寄せてくる。実況の声が、もう叫び声に近い。
パシッ、パシッ、パシッ。
鞭は、まだ止まらない。
じじいは、ゴール板を駆け抜けた。
タイムが、掲示板に出た。
2分58秒台。
3分を、切っていた。
スタンドが、一瞬だけ静まり返った。
それから、爆発した。
どよめきと歓声が一つになって空へ上がる。実況が叫んでいる。解説がしばらく沈黙した後で、また叫んでいる。
2着との差は、4秒。24馬身。
じじいは、のんびりと息を整えた。
背中の陣内が、ガッツポーズをしていた。
「見たか! 見やがったな! やってやったぞ! おらっーーー!」
まだ鞭を持った手が、ぶんぶんと振られていた。
★
ウィニングランに入った。
陣内が手綱を緩めたので、じじいはゆったりとしたペースで馬場を回った。
スタンドが、揺れていた。
どこを見ても人だ。手を振っている人間、跳び上がっている人間、隣の人間と抱き合っている人間。旗が揺れる。じじいの名前を呼ぶ声が、あちこちから届いてくる。
じじいは、淡々と歩いた。
スタンドの一角に、知った人間が見えた。
紗季だった。
隣に稲葉がいる。紗季は、右腕を吊ったまま、片手を高く上げていた。何か叫んでいるようだったが、歓声に紛れて聞こえなかった。目が、赤かった。
(……やはり、怪我しとったか。腕一本で済んで、何よりじゃ)
じじいは、その前をゆっくりと通り過ぎた。
背中の陣内は、スタンド全体に向かって手を振り続けていた。紗季の前を通る時も、気づいていないようだった。
検量室の前に戻ってきた。
陣内が降りた。係員が駆け寄ってくる。鞍を外す。陣内が鞍を抱えて検量室へ向かった。
じじいは、佐々木に引き取られた。
佐々木は、無言でじじいの首筋に手を当てた。脚を一本ずつ確認する。背中を確かめる。汗の量を見る。いつもの手順だ。それを、いつもより丁寧にやっていた。
異常はなかった。
当然だ。
佐々木が、じじいの鼻先に手のひらを当てた。何も言わなかった。ただ、少しだけ長く、そのままでいた。
じじいも、動かなかった。
口取り写真の場所へ連れて行かれた。
カメラマンが並んでいる。古谷調教師と稲葉が来た。陣内が検量を終えて戻ってきた。
そこへ、小さな人間が三人、駆けてきた。
「ワスレナグサーーー!!」
優芽だった。
じじいの鼻先に飛びついてくる。両手で、むぎゅっと抱きついた。後ろから友達が二人、ぱたぱたとついてきた。
「勝ったね!! 三冠だよ!! 三冠三冠!!」
「三冠だよ優芽ちゃん!!」と、友達の一人が叫んだ。
「三冠!!」と、もう一人も叫んだ。
「三冠!!」と、優芽も叫んだ。
三人で、きゃあきゃあと跳ね回っている。
じじいは、目を細めた。
(頑張ったかいがあるのう)
カメラマンが声をかけた。みんなが並ぶ。古谷調教師、稲葉、オーナー、陣内、優芽と友達二人。
シャッターが切られた。
優芽は、じじいの隣でにっこりと笑っていた。
陣内も笑っていた。
優芽の視線は、ずっとカメラかじじいに向いていた。
陣内は、気づいていなかった。
★
インタビューエリアに呼ばれた。
ターフライターが、マイクを向けてくる。カメラが回っている。陣内は、まだ興奮が体の中に残っているのを感じていた。
「陣内騎手、G1初勝利、おめでとうございます。今のお気持ちを」
「最高です」
陣内は、即答した。
「新馬戦以来の騎乗でしたが」
「ずっと、この馬のことが気になってたんです」
陣内は、言葉が自然に出てきた。
「新馬の時から、普通じゃないとわかってた。何も考えずに行ったら、ついてきた。あの感触が、ずっと手に残ってて」
「今日のレースを振り返って」
「行くだけでした」
陣内は、少し笑った。
「作戦とか、そういうのは何もない。ただ行けば、この馬がやってくれる。それだけわかってた」
「世界レコードが出ました」
「出ましたね」
陣内は、掲示板の数字をもう一度頭の中で思い浮かべた。2分58秒台。自分が乗って、出た数字だ。
「これからのことをお聞かせください」
「この馬で、世界取りますよ!」
陣内は、迷わず言った。
「凱旋門賞、ということですか」
「どこでも。この馬なら、どこへ行っても勝てる。俺が乗れば!」
最後の一言を、陣内は特に強調した。
ターフライターが、少し面食らった顔をした。
陣内は、構わなかった。
本当のことだ。新馬戦から今日まで、ずっとそう思っていた。他の騎手が乗っている間も、ずっとそう思っていた。
俺が乗れば。
それが、証明された。
★
厩舎に戻った。
佐々木が、丁寧に体を拭いてくれた。脚を冷やす。飼い葉を用意する。水を替える。いつもの手順が、静かに続いていく。
厩舎の外は、まだ騒がしかった。遠くで歓声が上がっている。報道陣が動き回っているのだろう。
飼い葉を、ゆっくりと食んだ。
佐々木が、最後に一度だけじじいの鼻先に手を当てた。それから、何も言わずに立ち上がった。馬房を出ようとして、引き戸に手をかけたまま、少しだけ止まった。
じじいは、佐々木を見た。
佐々木は、振り返らなかった。そのまま、引き戸を閉めて出ていった。
足音が、遠ざかっていく。
じじいは、藁の上に体を横たえた。
京都の夜が、静かに深まっていった。




