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前世ヒーラーのじじい馬、隠居したいのに長距離レースで無双する 〜こっそり全員癒やしてたら、伝説のステイヤーになってました〜  作者: 猫の造形美


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38/51

第37話 菊花賞

 ゲートが、開いた。


 じじいは、真っ先に飛び出した。


 ハナを取った。そのまま、加速した。


 第一コーナーへ向かう直線、後続の気配が後ろへ流れていく。二番手の馬が食らいつこうとしているのが、蹄音でわかった。じじいは、ペースを緩めなかった。


 第一コーナーを回る。


 芝が、蹄の下で柔らかく沈む。良馬場の感触だ。晴れた京都の空が、視界の端に広い。緑の匂いが、走るたびに鼻を抜けていく。


 後続との距離が、少しずつ広がっていった。


 陣内騎手は、渾身の力で手綱を動かす。


 スタンドから、どよめきが起きた。ラップが速いのだろう。


 向こう正面に入った。


 じじいは、魔力をそっと解放し始めた。


 最初は、ごくわずかにだ。


 点滴のように、一定の量を、絶やさず流す。


 心臓の鼓動を安定させる。肺の動きを広げる。走りながら酸素を取り込む効率が、じんわりと上がっていく。癒しは外には漏れない。じじいの内側だけで、静かに巡っていた。


 足の筋肉には、乳酸が溜まる先から波を送る。疲労が、流れるそばから消えていく。


 溜めない。作らせない。


 治療というより、掃除に近い。


 向こう正面は長い。


 じじいは、淡々と走り続けた。蹄が芝を蹴る音だけが、規則正しく続いていく。後続の蹄音は、もうだいぶ遠い。二番手の馬が懸命についてこようとしているのはわかった。それでも、差は縮まっていない。


 スタンドがまたざわついた。


 じじいは、前だけを見ていた。


 坂を越えた。


 京都の外回りは、三コーナーへ向かう手前に緩やかな下りがある。じじいは、その傾斜に乗って自然に加速した。重力が背中を押す。蹄が、地面をより深く、より強く蹴り出していく。


 ここで、蛇口を開いた。


 点滴から、水路へ。


 まだたっぷりと残っている魔力を、坂の勢いに合わせて、太く流し込む。心肺に、癒しが川のように巡る。足の筋肉が、解放されたように軽くなる。走り始めた直後より、今の方が体が軽かった。普通の馬なら、3000メートルの中盤でこうはならない。


 三コーナーを回る。


 後ろの気配が、かすかになっていた。


 二番手の馬が食らいついてきているのはわかる。


 それでも、差は縮まっていない。


 コーナーを回るたびに、静かに広がり続けていた。


 実況の声が、遠くから届いてくる。何を言っているのか細かくは聞き取れない。ただ、興奮しているのだけはわかった。


 四コーナーを回った。


 もう、後ろは気にしなかった。


 遠すぎた。


 最後の直線が、目の前に伸びている。京都の直線は長い。ゴール板まで、まだ距離がある。芝が青く光っていた。スタンドが満員で、人の波が揺れているのが見えた。


 じじいは、栓を抜いた。


 点滴でも、水路でもない。


 貯めていた分を、全部だ。


 どっ、と癒しが全身を駆け巡る。心臓が、力強く打つ。足が、地面を蹴るたびに爆発するように前へ出る。直線に入ってから、さらに加速していた。


 その瞬間。


 パシッ。


 背中に、鞭が入った。


 パシッ、パシッ、パシッ。


 続けて入ってくる。風車のように回っている。止まらない。トントン、トントンと騎乗しながら、風車鞭がぐるぐると回り続けていた。


(……後続はもう、おらんのじゃが)


 じじいは、それだけ思った。


 それでも走った。


 風が、顔を切る。芝が、流れていく。スタンドの歓声が、波になって押し寄せてくる。実況の声が、もう叫び声に近い。


 パシッ、パシッ、パシッ。


 鞭は、まだ止まらない。


 じじいは、ゴール板を駆け抜けた。


 タイムが、掲示板に出た。


 2分58秒台。


 3分を、切っていた。


 スタンドが、一瞬だけ静まり返った。


 それから、爆発した。


 どよめきと歓声が一つになって空へ上がる。実況が叫んでいる。解説がしばらく沈黙した後で、また叫んでいる。


 2着との差は、4秒。24馬身。


 じじいは、のんびりと息を整えた。


 背中の陣内が、ガッツポーズをしていた。


「見たか! 見やがったな! やってやったぞ! おらっーーー!」


 まだ鞭を持った手が、ぶんぶんと振られていた。


       ★


 ウィニングランに入った。


 陣内が手綱を緩めたので、じじいはゆったりとしたペースで馬場を回った。


 スタンドが、揺れていた。


 どこを見ても人だ。手を振っている人間、跳び上がっている人間、隣の人間と抱き合っている人間。旗が揺れる。じじいの名前を呼ぶ声が、あちこちから届いてくる。


 じじいは、淡々と歩いた。


 スタンドの一角に、知った人間が見えた。


 紗季だった。


 隣に稲葉がいる。紗季は、右腕を吊ったまま、片手を高く上げていた。何か叫んでいるようだったが、歓声に紛れて聞こえなかった。目が、赤かった。


(……やはり、怪我しとったか。腕一本で済んで、何よりじゃ)


 じじいは、その前をゆっくりと通り過ぎた。


 背中の陣内は、スタンド全体に向かって手を振り続けていた。紗季の前を通る時も、気づいていないようだった。


 検量室の前に戻ってきた。


 陣内が降りた。係員が駆け寄ってくる。鞍を外す。陣内が鞍を抱えて検量室へ向かった。


 じじいは、佐々木に引き取られた。


 佐々木は、無言でじじいの首筋に手を当てた。脚を一本ずつ確認する。背中を確かめる。汗の量を見る。いつもの手順だ。それを、いつもより丁寧にやっていた。


 異常はなかった。


 当然だ。


 佐々木が、じじいの鼻先に手のひらを当てた。何も言わなかった。ただ、少しだけ長く、そのままでいた。


 じじいも、動かなかった。


 口取り写真の場所へ連れて行かれた。


 カメラマンが並んでいる。古谷調教師と稲葉が来た。陣内が検量を終えて戻ってきた。


 そこへ、小さな人間が三人、駆けてきた。


「ワスレナグサーーー!!」


 優芽だった。


 じじいの鼻先に飛びついてくる。両手で、むぎゅっと抱きついた。後ろから友達が二人、ぱたぱたとついてきた。


「勝ったね!! 三冠だよ!! 三冠三冠!!」


「三冠だよ優芽ちゃん!!」と、友達の一人が叫んだ。


「三冠!!」と、もう一人も叫んだ。


「三冠!!」と、優芽も叫んだ。


 三人で、きゃあきゃあと跳ね回っている。


 じじいは、目を細めた。


(頑張ったかいがあるのう)


 カメラマンが声をかけた。みんなが並ぶ。古谷調教師、稲葉、オーナー、陣内、優芽と友達二人。


 シャッターが切られた。


 優芽は、じじいの隣でにっこりと笑っていた。


 陣内も笑っていた。


 優芽の視線は、ずっとカメラかじじいに向いていた。


 陣内は、気づいていなかった。


       ★


 インタビューエリアに呼ばれた。


 ターフライターが、マイクを向けてくる。カメラが回っている。陣内は、まだ興奮が体の中に残っているのを感じていた。


「陣内騎手、G1初勝利、おめでとうございます。今のお気持ちを」


「最高です」


 陣内は、即答した。


「新馬戦以来の騎乗でしたが」


「ずっと、この馬のことが気になってたんです」


 陣内は、言葉が自然に出てきた。


「新馬の時から、普通じゃないとわかってた。何も考えずに行ったら、ついてきた。あの感触が、ずっと手に残ってて」


「今日のレースを振り返って」


「行くだけでした」


 陣内は、少し笑った。


「作戦とか、そういうのは何もない。ただ行けば、この馬がやってくれる。それだけわかってた」


「世界レコードが出ました」


「出ましたね」


 陣内は、掲示板の数字をもう一度頭の中で思い浮かべた。2分58秒台。自分が乗って、出た数字だ。


「これからのことをお聞かせください」


「この馬で、世界取りますよ!」


 陣内は、迷わず言った。


「凱旋門賞、ということですか」


「どこでも。この馬なら、どこへ行っても勝てる。俺が乗れば!」


 最後の一言を、陣内は特に強調した。


 ターフライターが、少し面食らった顔をした。


 陣内は、構わなかった。


 本当のことだ。新馬戦から今日まで、ずっとそう思っていた。他の騎手が乗っている間も、ずっとそう思っていた。


 俺が乗れば。


 それが、証明された。


       ★


 厩舎に戻った。


 佐々木が、丁寧に体を拭いてくれた。脚を冷やす。飼い葉を用意する。水を替える。いつもの手順が、静かに続いていく。


 厩舎の外は、まだ騒がしかった。遠くで歓声が上がっている。報道陣が動き回っているのだろう。


 飼い葉を、ゆっくりと食んだ。


 佐々木が、最後に一度だけじじいの鼻先に手を当てた。それから、何も言わずに立ち上がった。馬房を出ようとして、引き戸に手をかけたまま、少しだけ止まった。


 じじいは、佐々木を見た。


 佐々木は、振り返らなかった。そのまま、引き戸を閉めて出ていった。


 足音が、遠ざかっていく。


 じじいは、藁の上に体を横たえた。


 京都の夜が、静かに深まっていった。


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